10章 危ないことはしないように
庭師が言ったことは、皆が当然思うことで、何もおかしなことはない。クラリッサが何事もないように笑い飛ばすべきことだ。
カーラが少し不服そうに視線を落とした。
「クラリッサ様は、お優しすぎます」
「そんなことないわ」
温室の隣に、ラウレンツの調合室がある。
クラリッサはその外壁の南側にある日干しのための棚を借りて、個人用の南天を干していた。
咳に効くこれもまた、クラリッサには馴染みのあるものだ。
カーラが棚を見て口角を上げる。
「良かったですね。綺麗に乾いています」
「まあ、本当だわ。これはもう持っていって、代わりに今日取った花を干して良いわね」
南天の実を端に寄せ、小箱から取り出したジンチョウゲを棚に出す。空になった箱に南天の実を入れて、空いた棚に花を並べていく。
穏やかな日差しが、心地よかった。
こんな穏やかな生活を過ごせているなんて、信じられない。
クラリッサは目を細めて青い空を見上げた。
一人の昼食を済ませて少しして、予定通りキャシーが仕上がったドレスを持ってきた。
「こんにちは。お待たせいたしました、奥様」
キャシーが持ってきた大きな箱を両手で抱え、にこにこ顔で挨拶をする。
「いいえ、ありがとう。急かしてしまったのではない?」
「そんなことありません! 奥様のドレスは本当に作るのが楽しくて……私共に任せていただいていて感謝しております」
クラリッサの遠慮もはっきりと否定したキャシーは、サロンに着くと早速箱の蓋を開けた。
「まあ……!」
クラリッサは感嘆の声を上げた。
両手でそっと肩の部分を持ち上げると、さらりとした生地が箱から零れ出た。
デザイン画を見ていただけでも華やかで美しいドレスだったが、完成したものはそれより更に洗練された印象がある。
何よりラウレンツの瞳の色と全く同じサファイアブルーが鮮やかで、クラリッサの胸を高鳴らせた。
「お気に召していただけましたでしょうか」
「こんなの……気に入らないはずがないわ」
クラリッサが言うと、キャシーは嬉しげに頷く。
「ありがとうございます。では、改めてサイズを微調整させていただきますね」
ドレスに袖を通して、クラリッサは見た目に反した軽さに驚いた。思っていたよりもずっと軽い。
これならば、ダンスを踊るのももっと楽しそうだ。
「とても軽いのね。気に入ったわ」
「ありがとうございます。公爵様が、奥様はダンスがお上手だから軽く仕上げるようにと仰られたのですよ」
キャシーが微笑ましげに言う。
「ラウレンツが……」
クラリッサは呟いて小さく笑った。
初めてラウレンツと共に参加した夜会は、面倒な令嬢達に絡まれ、怪我をし、ラウレンツに悪女らしく振る舞っているところを見られ、散々だった。
でも、二人でダンスをしたときだけはどうしようもなく楽しくて心が躍った。
ラウレンツも、それを覚えていたのだろうか。
「とても嬉しいわ」
夜会はもう十日後だ。
クラリッサは鏡に映る自分の姿を見て、頬を染めた。
ラウレンツが視察に行く日。早朝に出ると聞いたクラリッサは、早く起きてラウレンツを見送ることにした。
太陽が昇るより早く起きたのにぎりぎりで、クラリッサは簡単に着られるワンピースに着替えて部屋を飛び出した。
廊下を早足で抜けて階段から見下ろすと、支度を終え、玄関ホールの扉の前でエルマーと話をしているラウレンツが見える。
クラリッサは咄嗟に手摺に両手を乗せ、身を乗り出して呼びかけた。
「ラウレンツ!」
声に気付いて、ラウレンツがこちらを見る。
笑顔で手を振るクラリッサと目が合って、ラウレンツが驚いた顔をした。
「どうして起きて──」
クラリッサは階段を駆け下りて、ラウレンツの正面に立つ。
「一週間帰ってこないのでしょう? 見送りくらいするわ」
「っ……それはそうだけど」
「なんでそんなに驚いてるのかしら」
クラリッサが首を傾げると、ラウレンツは小さく嘆息する。何かを言いかけて口を開いて、やっぱり止めたというように閉じた。
代わりにクラリッサの姿を見て僅かに眉間に皺を寄せる。
「まだ冷えるから、もっと暖かくして来た方が良かったのに」
「今からお部屋には戻りません。お見送りの間だけですから」
北の方へ行くらしく、ラウレンツは冬のコートを手に持っている。
クラリッサはちらりとコートを見て眉を下げた。
「寒いところに行くのね。風邪を引かないように気を付けて」
ラウレンツがクラリッサの視線の先を見て、はっと顔を上げる。
「ありがとう、よく見ているんだね」
「いいえ、気を付けて」
なんだかこうしていると普通の仲の良い夫婦のようで、クラリッサは少し嬉しくなった。
ラウレンツもそう感じたのか、少しだけ頬を染める。
背後で開いている扉の向こうでは、空が白み始めていた。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
クラリッサが振ろうとして持ち上げた手が、何故か引き返してきたラウレンツに握られる。
どうして、と思ったときには、その甲に触れるだけの口付けが落ちていた。
「な──っ」
男性から手の甲にキスされるなんて、アベリア王国で悪女のふりをしていたときには日常だった。クラリッサにとってそれは今更ときめくようなことではない。
それなのに、クラリッサは早く煩くなる鼓動と熱くなる頬に翻弄されて、なにも言えなかった。
ラウレンツに口付けされたのはこれがまだ二度目だ。
ラウレンツが左手でずれてもいない眼鏡の位置を直す仕草をする。照れているのかもしれない。
「危ないことはしないように。何かあったら手紙を出してね」
「もうっ。子供じゃないのよ!」
クラリッサが赤くなっているであろう顔を隠さずに言うと、ラウレンツは楽しげに笑う。
手が離されて、ぽとりと落ちた。
「今度こそ、行ってくる」
「いってらっしゃい!!」
ラウレンツが馬車に乗り、窓越しに軽く手を振った。
クラリッサも手を振り返す。
門を抜けて石畳の道に出て行くまで、クラリッサはラウレンツの馬車を見送った。




