7章 見ることができなかった
ラウレンツにクラリッサと結婚してほしいと言ってきたのは、隣国アベリア王国から医術を学ぶために留学してきた第一王子エヴェラルドだった。
アベリア王国の薬草学に興味があったラウレンツは目的を持ってエヴェラルドに近付いたが、気付けば互いの研究のために切磋琢磨する友人となった。
それは、エヴェラルドが医師資格試験に合格し、二人で祝おうと酒を飲んでいたときだった。
アベリア王国の薬草学をクレオーメ帝国に持ち込みたい、力を貸してほしい、と頼んだラウレンツに、エヴェラルドは技術交換のための同盟を提案してきた。
『いや、それは……アベリア王国は小国だ。こっちの貴族の一部は、属国にして支配すれば良いと言い出すに決まってる』
『うーん、それはなぁ。ベラドンナ王国よりはましだろうけど、流石に父親が了承するとは……俺も、あんな国でも一応自分の国は維持したいし。俺の代では、まともな国にしたいと思っているから』
そう言ったエヴェラルドはしばらく考え込むような素振りをして、良いことを思いついたというようにぱんと手を打った。
『そうだ、ラウレンツがうちの妹と結婚しちゃえば良いじゃないか。ベラドンナは面倒だけど、アベリアには反対する理由がない。貴族達なんか、妹が外に嫁ぐとなれば大喜びだろう』
クレオーメ帝国の皇族には力がある。
確かに王女がラウレンツに嫁げば、皇族の嫁の母国を攻めようという声はまず出てこないだろう。
そこまで考えたラウレンツは、エヴェラルドの妹が誰なのかを思い出す。
『エヴェラルドの妹……って、クラリッサ姫のことか?』
『そうそう。知り合いだし、丁度良いだろう?』
『……知り合いって言っても、昔一度話したことがあるだけだから』
ラウレンツの記憶の中のクラリッサは、まだ小さい。
ふわっふわのレースとリボンがたっぷりのドレスに身を包んで、汚して叱られたらどうしようと泣く、天使のように美しく可愛い子供だった。
それは、まだ自分の身を自分で守ることもできなかった弱いラウレンツを見られた、懐かしく恥ずかしい苦い記憶だ。
『だから、クラリッサちゃんも……負けないで。いつか、また会おうよ』
そう言ったのはラウレンツのばつの悪さと、情けなさを隠すためでもあった。
それでも素直に受け取って笑ってくれたクラリッサのことを当時のラウレンツはとても好ましく思ったし、初めて異性にどきどきするという経験をした。
もう成人しているだろう、クラリッサは一体どんな素敵な令嬢に成長しただろう。
『あー。それじゃ、驚くかもしれないな』
エヴェラルドに言われてどういうことかと思ったが、正式に結婚が決まり、エヴェラルドがアベリア王国に帰っていった後で、クラリッサを調べたラウレンツはその言葉の意味を知った。
クラリッサはアベリア王国で有名だった。
『薔薇の棘』
『稀代の悪女』
『最悪の美女』
その二つ名はどれもクラリッサを悪女であると示すもの。
──派手好きで高価なドレスを買っては処分する。
──気弱そうな令嬢を次々虐めている。
──他人のパートナーを誘惑し、縁談を壊す。
──異母弟を虐げている。
聞かされるエピソードはどれも、顔を顰めるようなもの。
正直、ラウレンツは結婚を決めたことを心から後悔した。
しかし、実際の姿は違うかもしれない。
ラウレンツはクラリッサの顔合わせの場に、その場の誰が想像したよりも真剣な気持ちで出席していた。
そしてやってきたクラリッサは、普通の貴族令嬢であれば決して着ない、背中が極端に露出したドレスを着ていたのだ。
直視できずに目を逸らしたラウレンツは、噂は事実だったのかと落胆した。
とはいえ、もう結婚すると決まってしまったものは仕方がない。
エヴェラルドには騙されたかとも思ったが、あちらも兄として妹の嫁ぎ先を心配していたに違いない。ならば恨むこともできそうにない。
でも、もしかしたら。
そう一縷の望みを抱いて迎えた初夜では、クラリッサがいかにも経験豊富な女性らしい姿で、これでもかと誘惑した格好で、ラウレンツが訪れるよりも早く寝台に上がり、挑発的に微笑んでいたのだ。
事実は分からないが、少なくともラウレンツにはそう見えた。
その日から、ラウレンツはそれまで以上にクラリッサを理解しようという気がなくなっていた。
いっそできるだけ関わらないようにしながら、悪女でも満足できる程度の金を与えておけばいいだろう。
そう思って、嫁いできたばかりのクラリッサに社交的な高位の貴族夫人が扱うのと同額程度の予算を与えた。
今のところ不満も言ってこないから、きっと足りているのだろう。
そう思って放置していたのだが、皇城での夜会となると連れて行かないわけにいかない。
一体どれだけ周囲に迷惑を掛けるだろう。ラウレンツは警戒しながら、夜会の最中は常にクラリッサの隣にいようと決めていた。
それなのに結果的にはぐれてしまい、見つけたときにはバシュ公爵令嬢であるレベッカ達に囲まれていた。
助けようかとも思ったが、悪女がどんなものかと興味を持ったラウレンツはあえて観察することにした。
そして見事に全員を退散させたクラリッサに感心して、ラウレンツは声を掛けた。
それ以来ラウレンツは、クラリッサがどこで何をしているのか気になって仕方がない。
何を考えているか分からなくて、顔を見ると苛々する。
目の前にいてほしくないのに、目を離すのが怖い。
感情の整理ができないまま、偶然会った孤児院でも咄嗟に隠れてしまった。
クラリッサの授業は続く。
「真剣に覚えようとするのは良いことだけれど、無理にやって辛くなったら大変だからね。楽しく覚えられるくらいで良いの。皆には、たくさんの未来があるんだから。薬草学に興味が持てなくても、計算が好き、本が好き、絵が好き、服が好き……それで良いの」
ラウレンツはその言葉に、胸をぎゅっと握られたような気がした。
孤児院からの就職が難しいという、以前から何度も考えてきた身元がはっきりしない者達の就職問題。
誰もが就きたい仕事に就くことができれば素晴らしいが、そうはいかない。確かに面接前に不採用を決められるのは理不尽だが、面接を受けたところでどうせ雇ってはもらえないのだ。
ならば手に職をつけさせようと思い、フェルステル公爵領内の孤児院に薬草の栽培と、簡単なものから薬の作り方を教え、実践させている。
ラウレンツは子供達に薬草学という専門知識を授けることで、ここを出ても一人でも店を開けるかもしれないと思っていた。
しかし、クラリッサはラウレンツが提案したその未来では不足だと言っているのだ。
生きる方法が一つでもあるならば、それに縋れば良い。
ラウレンツのこれまでの経験では、人生とはそういうものなのに。
「そういう未来を、きっと作るわ」
クラリッサは明確な決意を浮かべた表情で、そう言い切った。
ラウレンツには、その顔から悪女らしさも嘘も見つけることができなかった。
こんなところで、無理をしなくても良い。
クラリッサはアベリア王国で自由に悪女として振る舞っていたのだから、後ろ盾がなくて心細いからって、そんなことまでしなくても良い。
いてもたってもいられずクラリッサに話しかけたラウレンツは、気付けばいつものように毒のある言葉を吐いていた。
「……だから、安心していいよ。私は貴女がどれだけ悪女であっても、絶対に離婚だけはしない」
そう言ったときのクラリッサの顔を、ラウレンツは見ることができなかった。




