それはとても高度なお遊び
壁になりたい。壁になって推したちの恋愛を傍で見守りたい。
私はそういう趣向のオタクだ。
だから、乙女ゲームの世界に転生したとわかったとき、ストーリーに一切名前が登場しないモブであることを喜んだ。性別が男性になっていたのには衝撃を受けたが、これならばモブでありながら気づけばヒロインも真っ青の主人公モードへ突入という、乙女ゲーム転生もの派生あるあるにも陥ることはない――いや、BL要素が突然巻き起これば別だが、男女の恋愛を軸にしたゲームで流石にそこまで斜め上にはならないだろう――ので、前世の望み通り主要人物たちの恋愛模様を遠巻きに見てニヤニヤしてやろうと思っていた。
で、あるのに、主要人物と関わりを持ってしまった。
「あなた、前世の記憶があるのね?」
ヒロインが第一王子と出会う噴水の近くの大きな木の影、出会いスチルを生で見ようと欲を出して木陰から覗き見していたらそう声をかけられたのだ。
油断。まさに油断だ。自分は完全にモブとしていられると気を抜いてスチルを拝みにきたのが命取り。そうか、モブで生まれながらモブでなくなっていく者たちはこんな風にして物語の主役に躍り出るのだな、と思った。
しかし、この発言……前世の記憶があるって? え? それはつまり、
「わたくしも、前世の記憶があるのよ」
これが彼女、レナ・マッカリー伯爵令嬢との出会いだった。
レナは「ライリー・マッカリー伯爵子息ルート」の悪役令嬢だ。
彼女が十歳のとき、父に連れられて二歳年上のライリーがマッカリー伯爵家にやってくる。
ライリーは隣国の前王の老いらくの恋の果てに生まれたが、跡目争いの火種になるからと隠されて育った。ところが、その居場所もバレ、巡り巡ってレナの家が預かるに至った。
無論、そのような重大な秘密を父親は家族とはいえ誰にも話さなかった。結果、母親は父親の隠し子ではないかと疑いライリーを虐めるようになる。レナもそれに便乗してライリーを下僕のように扱うのだ。
いやいや、隣国の王子だということは話せなくても、隠し子ではないということはきちんと夫婦で話しておくべきだし、預かったからにはライリーが快適に暮らせているかチェックすべきだろう。自分の妻子に虐められていることにも気づかないとかアホか! という感じだが、これはゲームである。ライリーは虐められて育ち心に傷を負い、それをヒロインが癒すことで二人は関係を深めていく。必要な設定、必要な犠牲だったのです……。
「けれども、わたくしはライリーを虐めなかったわ」
レナは言う。
ライリーは彼女の推しだったらしい。故に、自分がレナになった以上は彼を虐めるような真似はけしてしなかった。母親があらぬ疑いを持たぬように父親とよく話をさせたし、レナ自身も彼を下僕にするなんてことはせずに、いい関係を築けるように努めたと。
なるほど、彼女は正しく「悪役令嬢のフラグ回避」主人公だった。知ってる! そうやって虐めをせず愛情深く接していると攻略対象がヒロインではなく悪役令嬢を溺愛するようになるやつ!! と私はにわかに喜んだ。乙女ゲームテンプレの中でも好きな派生の一つだったから。
しかし、当のライリーはまったくレナに心を開いてはくれなかったという。
どうやらライリーはマッカリー伯爵家に来る前の十二年の間に、貴族嫌いを拗らせきっているらしく、レナが貴族というだけでもう嫌悪の対象として受け付けなくなっていたのだ。
どれほど頑張ったところで、裏があるに違いないと穿って見られる。頑張れば頑張るほど疑われる。その頑ななまでの拒絶にレナは却って執着心を強め、ライリー、ライリー、と好意を伝え続けた。だが、どうしたって彼は受け入れてはくれず、次第にレナは憎しみを抱くようになった。受け入れてもらえないなら、傷つけてやりたい――そのような気持ちになっていることに気づいてぞっとした。愛憎とはこのことなのだろう。でも、それを実践してはいけない。残っていた理性で、この悪循環から抜け出せなければならないと思った。
そして、出会ってから五年目にしてようやくレナは彼への気持ちを諦念した。
くしくも、学院に通い始めた年のこと――そう、彼とヒロインが出会い、ゲームが開始する直前の話だ。
「それって、ゲームの強制力というものだったのでは?」
話を聞き終えて私は言った。
強制力とは即ち、ゲームの設定を変えないようにしようとする神様的な力だ。レナはライリーを虐めることはしなかったが、代わりに好意を示していたことが彼の心に影を落としたと。――好きという気持ちがそのような形に変換されるなんて悲しすぎるけれど、そうすることで彼のトラウマを成立させたのだろう。
私の意見にレナは深く頷いた。それから眉をひそめて、
「ということは、ヒロインがライリールートに入ったら物語の通りに私は断罪されてしまうってこと? 嫌だわそんなの。回避しなくちゃ! ……でも、何をすればいいの!?」
「……下手な真似はしない方がいい。ルート分岐前に動くことでそれが悪い影響を及ぼす可能性もある」
第三者が「〇〇が△△のこと気にしてたよ」ということでそれまで何とも思っていなかったのに急に意識してしまうなんていうのはよくある。レナが動くことによってヒロインがライリーを意識してしまっては元も子もない。自分からそんな危険を冒すのは愚の骨頂だ。
それに、物語が実写化されるとき一番王道ルートが選ばれるのはセオリーだ。つまり、数あるルートの中で一つだけ選ばれるとしたら第一王子ルートになる可能性が高いのではないか、と私は思っていた。
「もし、ヒロインちゃんがライリールートに入った場合は、私と婚約するというのはどう? それで隣国への交換留学の申請をする。いくら強制力があったとしても物理的に距離が空いたら回避できると思う」
何故私は男性に生まれてしまったのかと疑問だったが、こういうためだったのかもしれない。
というわけで、私たちは粛々とヒロインが誰を選ぶのか決定するのを待つことにした。
結果、大勝利した。
ヒロインは予想の通り第一王子ルートに入ったのだ。
やった! やった! ばんざーい! ばんざーい!
これでレナの破滅ルートはなくなった。
まぁ、このゲーム自体はそこまで強烈な断罪はない。社交界で笑いものにされる程度なのだが……それでも不名誉であることには変わらない。レナが馬鹿にされるのは悲しかったのでそれがなくなったのだから素直に喜び合った。
殿下ルートではレナは登場しない。彼女は晴れて自由の身。私も全然モブのまま。とても嬉しい、とても有難い。このままこっそりヒロインと殿下の行く末を見守るつもりはあるけれど、レナに声を掛けられたときのような迂闊な真似はせずに本当に遠巻きに静かに過ごそう、と私は心に誓った。
しかし、ルートが決定したことで、一つ、疑問が生じる。
ヒロインと愛を育む中でライリーは心の傷を癒していくはずだが、ヒロインと愛を育めないことが決定した今、はたしてライリーの未来はどうなるのだろう?
その疑問への答えは、ほどなくレナからもたらされた。
どうも様子がおかしい、と彼女は言った。
ヒロインが殿下ルートに入って以降、ライリーがよく話しかけてくるようになった、ような気がするというのである。
たとえば朝の登校のとき――これまでは彼は先に行っていたが、一緒の馬車で向かうようになった。
曰はく、ずっと訓練や生徒会の仕事で忙しかったが、三年生に進級しすべてから解放され朝は比較的ゆっくりできるようになったから、らしい。だから、朝はレナと一緒に登校すると。
何故? というのがレナの感想だ。
彼女はちゃんと知っていた。彼に用事があったことも事実だろうけれど毎日ではない。そうであるのに彼は毎日先に行ってしまう。学院までの道のりを狭い馬車でレナと二人きりなんて地獄だと思っていて、だから、用事があることにして先に行く。露骨だなぁと悲しい気持ちにはなったがレナは彼の本音に気づかぬふりで「大変ですわね」と気の毒そうに話を合わせていた。
それが、一緒に登校するようになった。
馬車の中で、会話はない。
学院に入学前の、彼を追いかけまわして好意を信じてもらおうと思っていた頃ならば、場の雰囲気をよくしようと頑張ってしゃべっただろう。そして、すべて空回って余計に嫌われただろう。だが、もうレナは目が覚めたので、話しかける方が好感度を下げることを理解している。無理に会話をする気力もない。なので、沈黙が降りるのみ――のはずが。
「授業はついていけているのか?」
彼の方から問いかけてくる。
「……まぁ、そうですね。今のところは恙なく」
「そうか」
必要以外で話しかけられたことはいつ以来だろう?
なかったんじゃない? など思っていると。
「何かわからないことがあるなら、教えるが」
「……ありがとうございます」
まるで親切で優しいお兄さんのような振る舞いは不気味の一言に尽きる。
変化はこれだけではない。
たとえば夕食のとき、父親がときどき芝居のチケットを譲り受けてくるのだが、演目が若者向けであればレナとライリーに見に行けばいいとくれる。でも、二人で行ったことはない。彼は観劇の日にはいつも都合よく都合が悪いので、レナは彼の分のチケットをもらい友人(私だったりもする)と行くことになる。
だから、食事が終わりライリーが近寄ってきて「観劇のことだが」と言い出したとき、いつものようにチケットをもらえるものだと思って手を出したら一枚だけ渡されて、
「一度家に帰ってから行くか、それともそのまま学院の帰りに行くか、どちらにする?」
と問うてきた。
え、一緒に行く気ですか? という言葉をギリギリ呑み込んだ。それは純粋な疑問だったけれど、これまで嘘をついて断っていた彼にしたら嫌味に聞こえるだろう。別にレナは怒っているわけではなかったので、わざわざ険悪になることを言うことはないと口を噤んだ。
そんな風に、これまで明らかに避けられてきたのに、接点を持とうとしてくるらしい。
「強制力が切れたことで、あなたへの嫌悪もなくなったってことなのかな?」
一連の話を聞いて私は言った。
他に、手のひらクルーの理由が思いつかない。
レナも頷いた。
「で、どうするつもり?」
「うん、それなのよ」
レナは腕組みをして、ため息を吐き出した。
正直、私はわくわくしていた。これはあれじゃん。女の子の気持ちが離れた途端に追いかけてくる所謂立場逆転系というやつじゃん。あーそのパターン好きなやつー! というミーハーな気持ちである。
「顔、ニヤついているわよ」
「え? ああ、ごめんなさい」
私の考えなどお見通しとばかりに、レナはもう一度ため息を吐いた。
「わたくしも、物語としてなら好きなパターンなのよね。でも、自分のこととなると複雑だわ」
「あー、まぁそりゃ複雑になるか」
「だって私が頑張らなきゃじゃない?」
お、わかっているな、と私はまたにやつきたいのを我慢した。
そうである。立場逆転系で重要なのは、手のひらクルーをしてきた男が必死に彼女の心をもう一度振り向かせようとすることと思われがちだが、実のところ、この恋が上手くいくかいかないかは女の子の頑張りが大事なのだ。
これまでの非道を許し、もう一度向き合うための努力。
あんなに否定されてきたのに、その苦しみを乗り越えて、彼の変化を受け入れる寛容。
それを葛藤の中でこなしていく気合。
そして、女の子の頑張りに読者が「次にいけばいいのに」と思わせない心理描写。そこがうまくいかなければ、そんな簡単に許すとかありえないでしょ、とヒロインへの不共感となりストレス展開になる。それならいっそう、気持ちは冷めてしまったので戻りません。あなたの頑張りなど知りません。と、とことん男を拒絶して振ってしまう方がまだよい。しかし、元鞘に戻らない立場逆転系は立場逆転系にあらず。立場逆転系はあんなに酷い仕打ちをしていた男と、ハッピーエンドを迎えることにこそ物語の醍醐味がある。絶対許すな!!! と思われていた男と、元鞘になることを読者が応援してしまえるほどの展開があり、そこにカタルシスを感じ、よかったー! というあの興奮。たまらない。
故に、読者である私は納得させる形でうまいこともう一度結ばれるようにせよ! というのがまことにまことに勝手ながらの願いなのだ。
「でも、彼のことを嫌いではない?」
私はもっとも大事なことを確かめた。
「まぁ、そうね。嫌いではないわよ。好きかと聞かれると複雑になるけれど、不幸になれとか、今更何よとか苛立ったりはしない。これまで冷たくしておきながら、どの面下げて近寄ってくるのかってぬるーく見てしまうというのはあるけれど」
レナは言った。
実に正直な感想だと思った。
なので、私は……
「じゃあさ、じゃあさ、私が当て馬役をする!!!」
「はい?」
「あなたと仲良くしているところを見せびらかして、嫉妬心を煽る役を私が! する!!」
私は壁になって見守りたい系オタクではあったけれど、その思いよりも、立場逆転系の物語でヒロインに別の令息がアプローチしてモテモテになって、それに嫉妬するヒーローというのが好きなのだ。それを実現できるのならば一肌でも二肌でも脱ごうではないか。むしろ、ヒーローをもやもやさせられるならなんて楽しすぎではないのか。
「……あなたの娯楽に付き合ってこと?」
「そう!」
「そうってそんな堂々とよく言ったわね?」
「けれど、これくらいしてもよくない? 散々あなたに冷たい仕打ちをしておいて、何の障害もなくうまくいくとか……ちょっとぐらいさ、レナだってモテるのよってところを見せておかないと」
私の力説にレナは圧倒されたのか頷いた。
こうして、私の計画ははじまったのだけれど――まぁ当然なことながら、どんな理由があろうとも、人の心をもてあそぶのに正当なことなんてないわけで、この計画により私は彼から目をつけられてとんでもない仕打ちにあうのだが、それはまだ先の話だ。
読んでくださりありがとうございました。