恋に非ず
恋に落ちた。
恋に落ちたことを、彼にも知られた。
彼は気まぐれにやってきた。私に好かれていることが心地よかったらしい。自分でいうのもなんだけれど私は何か――好きになってほしいとか、恋人になりたいとか――を望むことなく、ただ好きでいたからだろう。面倒を言わないから楽だったのだ。寂しくなったり、退屈になると、近寄ってきて、他所で傷ついた自尊心を満たす。男女のしっとりした関係にはけしてならず、彼を好きでいるだけの私。何もしていないのに、愛されることは、たしかに存在そのものが揺らいでいるとき、一番効く薬なのかも。
とはいえ、いつまでも彼だけを好きでいるわけにもいかない。
私は子爵家の娘で、家は兄が継いでいる。兄は結婚して、すでに奥さんも屋敷にいる。彼女は優しく親切で、だからなおさら、早く家を出ようと思った。小姑がいつまでもいたら、いい加減迷惑がられる。彼女との仲が壊れるのは嫌だった。
貴族の娘が家を出るのは結婚だ。
そんなわけで、私は見合いをすることにした。
両親も兄夫妻も家を出ている次兄も、貴族には珍しく恋愛結婚だ。見合いをするといえば、まだ若いのだから焦らなくてもいいだろう。そのうち相思相愛になれる相手がでてくると言われてしまうから――というかすでに言われた――世話好きの叔母にこっそり頼んだ。だって、このままだと彼以外の人を好きになろうとは思えない気がしたから。それならば、見合いをして、恋ではなくも、パートナーとして関係を築ける人と、愛を育むというのが建設的で、現実的だ。これは私なりのけじめであり前向きな手段なのだ。
お見合いに指定されたカフェテリアに行くと、なんの因果か、彼がいた。令嬢とデート中だった。
彼が様々な令嬢と浮名を流しているのは知っていたが、目撃するのは初めてだ。
親しげに、体を密着させるようにエスコートする姿は、誰がどう見ても恋人同士だ。わかってはいたけれど、私と一緒にいるときとの差をまざまざと実感し、女性として全然求められてはいなかったことに胸が痛んだ。
私は気を取り直して、給仕に案内された席についた。
お見合い相手はすでにきていて、私を視認すると立ち上がり挨拶をしてくれた。礼儀正しい振る舞いに、私も礼儀正しく返した。
「お待たせして申し訳ございません」
「いいえ。緊張していて、早く来すぎていただけです」
緊張していてなど言わなくても良いのに、ポロッとこぼれ落ちたそれが、彼が本当に緊張していて、あわあわとなっているのだと感ぜられた。
だから、私も緊張しています、と返事をする。
彼は、同じですね、よかった。いや、よいのかな? と言って笑った。
話していると、私たちはよく似ていることがわかった。私がお見合いをした理由と、彼がお見合いをした理由が同じだったのだ。
つまり、彼も長らく片思いをしていたが、そろそろ踏ん切りをつけようとしていた。
見合いの席で他に好きな人がいることを打ち明けるなどおかしな状況だが、気づけばこれまでの経緯を話していたのだから驚く。私はずっとあの人との関係を誰かに聞いてもらいたかったのだろう。そして、彼も。似た環境にいる私たちは互いの話を切実に共有できた。そのことが、安堵をもたらした。
「こんなことってあるんですね」
「奇遇といってよいのか困惑するけれどね」
私たちは笑いあった。
運命というものがあるのならば、きっとこういうことなのかもしれない。
傷の舐め合いというと聞こえはよくないけれど、私たちはよい関係を築けるように思えた。
「ちょっと!」
しかし、それを否定するように飛び込んできた声。
「どうゆうことよ? どうして女と会っているの?」
可愛いらしい令嬢が、ものすごい剣幕で怒りを露わにしている。
私は彼女が彼の思い人であるとすぐにわかった。そして、彼から聞かされていた話と彼女の気持ちにどうやら齟齬があるらしいことも。
(なーんだ。私と同じなんかじゃなかったんだわ)
「何か、お互いに誤解があるようですから、よく話し合ったほうがよいのでは? 私は失礼しますね」
注目を浴びている。
これ以上、私が付き合う必要もないとカフェテリアを出た。
季節はもうすぐ夏になろうとしている。
日差しが強くて、そういえばカフェテリアに日傘を忘れてきたことを思い出したが、取りに戻る気にはなれずに、とぼとぼと家に向かう。
「リーシェ」
名を呼ばれて振り返ると彼がいた。
私の日傘を差し出された。店内で目立っていたし、彼からの視線も感じていたが、追ってこられるとは思わなかった。忘れ物なんてするんじゃなかった。
「ありがとう」
私は日傘を受け取り、礼を述べた。
それから振り返って歩き出そうとしたら、
「送っていくよ」
彼が言った。
「その必要はないから。早く戻って」
彼には一緒に来ていた令嬢がいた。
男女の修羅場で、尻尾巻いて逃げ出したように見えただろう令嬢。それが知り合いだとなれば放ってはおけない。だから、デートを中断させてきた。
一連の流れを想像して、こんなに惨めなことはないと悲しくなった。
だけど、私の胸中など知らず、遠慮と解釈したらしい彼は
「いや、送るから」
と繰り返した。
今の私は親切な行為を、親切とは受け止められない。
私は、今日、新たな一歩を踏み出す気でカフェテリアに行き、この人となら良い関係を築けそうと思った矢先、それが崩れ去った。そればかりか、騒動となり悪目立ちした。それを長年の思い人にまで見られた。
こんなのあんまりだと思う。
知らないふりをしてほしかった。
そっちのほうがずっとよかった。
――ああ、これは、八つ当たりか。
それでも、
「私は、一人でいたい。そのほうが、ありがたいです」
私は言った。
彼は黙ったので、
「あ、それから今日のことは家族には言わないでもらえますか。心配をかけたくないので」
見合いすることは、打ち明けていない。
だから、よかったのかもしれない。もっと話が進んでから彼女に乗り込まれたらかなり悲惨だった。
私はお辞儀をして、今度こそ踵を返して歩きだした。
目が覚めると、もう夜だった。
帰宅してから疲れたからとずっと眠っていた。途中に夕飯ができたからと声をかけられたが、食べる気になれずにそのまま寝続けた。
(変な時間に目が覚めちゃったな)
私は階下に降りた。
寝て起きたら、お腹もすいていた。
みんなが寝静まった屋敷は不気味なほど静かで、私は台所から白パンと葡萄酒を拝借して部屋に戻った。
電気をつけて、ベッドのサイドテーブルにグラスを置き、白パンをちぎってもそもそ食べ始める。
そうしていると、コン、と音がした。
気のせいかと思ったが、またすぐ、コン、と鳴る。何かが窓に当たっている。
私は窓辺に行き、外を覗いた。
部屋の真下に、誰かいる。誰か――彼だった。
驚いているうちに、彼は器用に近くの木をよじ登り私の部屋に飛び込んできた。
「え? なんです?」
状況の説明を求める。
話によれば、彼は私が寝ている間に訪ねてきた。元々兄と友人なので、遊びにきた風を装って私の様子を確認しようとしたらしいが、私は夕食に姿を見せなかったので、仕方なくいったん帰宅した。でも、どうにも気になり再び屋敷の前に来てしまった。そうしたら私の部屋の明かりがついたので、小石を投げてみた、と。
「はぁ……なんというか、ご心配をおかけしてすみません。そんなに気にされるとは思わなかったので」
私は一応謝罪した。
「気にするだろう」
彼はしかめっ面になって言った。
私は困って、ぽりぽりと頭を掻いた。
そういえば起きてから顔も洗っていないし、髪だって梳いていない。このような状態で家族以外の者と会うなんてありえない事態だ。
「あの、私は寝起きで、人様に会うような状況ではないのだけど。それに気にされても困るというか、その必要はないって言いましたよね?」
暗に帰ってくれと言えば、彼は傷ついた顔をした。
「……君にはこれまでいろいろ話を聞いてもらったりしたのだから、君が困っているときに助けたいと思うのは当然だろう」
それから、彼は絞り出すように言った。
これには私が驚いた。
彼の言うとおり、私はこれまで彼の様々な愚痴を聞いてきたしそれを慰めてもきた。けれど、その逆はなかった。彼が私に望んでいるのは「彼の話を聞くこと」だったから、私の話を聞いてもらうという意識が一切なかった。私はそれでいいと思った。人と人が関わるとき対等であるべき、ギブアンドテイク、一方が与えて、一方が受け取るだけの関係は不健全である。けれど不健全であっても別によかった。彼もそれでいいと思っているのだと思っていた。
けれど、彼は私を助けようとする気持ちがあったってこと?
「いや、でも、ずっと私個人に興味はなかったじゃないですか」
彼が兄の友人として家に来たとき――彼が十歳で、私が六歳で出会ってから、十数年が経過している。最初の頃こそ、友人の妹として私を可愛がってくれたが、そのうち私も思春期を迎えて、彼に恋をした。私のデビュタントに彼が花束をくれて「おめでとう」と優し気な笑顔を向けてくれた瞬間、恋をしてしまったのだ。
私が恋に落ちたことを彼は気づいて、次の瞬間、すっと引いたのがわかった。
私は悲しかったけれど拒絶を受け入れてパーティーでも踊ってほしいとは言わなかった。
以降、彼が兄に会うためにやってきたとき、私は何事もなかったような顔をしながら、きちんと距離をとることに専念した。近づきません、何も求めません、大丈夫ですよって。その後、それを理解したのか彼はこれまで通りに兄の妹として私を可愛がってくれるようになった。だけど、そうされると好きな気持ちが再び生まれてきた。これを気づかれたら、また引かれてしまう。どうしたらいいのだろう――でも、彼は今度は引かなかった。好きでいても、彼に何かを求めなければ、彼はそれをよしとした。
そのうち、辛いことがあると、私にあれこれと話をしてくるようになった。
私の好意を承知で甘えてくる――言葉を選ばずに言えば彼のしていることはそういうことだった。だから、気持ちを利用されているとか、いいように扱われているとか、そうやって非難することもできたのだろう。でも、私は、彼の振る舞いについてまったく腹も立たなかったし、悲しくもならなかった。彼の傍にいられて嬉しいなぁと思ったし、彼が私の慰めの言葉に満足して元気になるなら、どんどん励まそうとさえ思った。
私たちの関係は、互いに納得して成立しているものだから、それでよかったのだ。
なのに、どうして今になって、私を気にするようなことを言うのか、純粋に不思議だった。
「……まぁ、そうですね。今日、明らかにトラブルに遭遇しているところを目撃されてしまったので、気になってしまったというのはわかりますけど……けれど、これまでだって私にも困ったことや愚痴をこぼしたくなることはありましたよ。でも、貴方は一度も『君の調子はどう?』とか聞いてきたことはなかった」
「それは……何かあったのなら話してくれたら聞いていたよ」
なるほど。言われてみればそうかもしれない。聞いてくれるのを待っているのではなくて、自ら話していれば、彼は聞いてくれたのかも。でも、
「私は貴方に聞いてほしいとは思わなかったし、今回の件も何かしてほしいなど思っていないので、もう気にしないでもらえますか」
私は言った。
すると、彼はますます傷ついたような顔をした。
その顔を見ていると、私も息苦しくなった。
なんで?
どうして?
わからない。
ずっとそうしてきた。
私は彼が好きで、彼はそのことを知っていて、私に慰めを求めて、私は望むとおりに言葉を返して、彼は元気になって、私は嬉しいと思う。――私の好きは恋愛として成就することはなかったけれど、こういう形に収まって、揺るぎないものとして居場所を見つけた。私はそれで納得していたし、彼もそうだった。ずっとそうやってうまくやってきたし、それが彼の望んだことでもあったじゃないか。
人から見たら歪かもしれないけれど、私たちの間ではきちんと均衡を保っていたその関係を、どうして壊そうとするのか。踏み込んで来ようとするのか。私がひどいことを言っているような、そんな目で見るのか。
わからない。
わからない、わからない、わからない。
「そんな風に言わないでほしい」
彼の声は切実だった。
「君に拒絶されるとどうしていいかわからない」
「拒絶なんてしてませんよ。ただ、私の事情について煩わせることはしたくないし、だから、気にしないでほしいと言っているだけで」
「それは拒絶だろう?」
「どこがです?」
私は彼の目を真っすぐに見つめた。
拒絶などしていない。彼を拒絶したことなど一度もない。ただこれまでしなかったことを新しくしようとしないでほしいと言っているだけだ。
彼もまた真っすぐに私を見ていた。
「これまで気にもしなかったのに、いきなり気にしはじめて、不愉快になるのはわかるけれど、」
「いいえ、不愉快になんてなっていません。誤解しないで」
「いや、不愉快なのだろう? これまで君を省みなかったのに、いきなり君のことを気にし始めた私を許せないのだろう? そう思われても仕方ない振る舞いをしてきたから……でも、今日、君が困っているときに頼りにするのは私ではないのだということを突きつけられて、私はとてもショックだった。君が困っていたら助けたいし、困っていると頼りにされたい。君に何かあったとき部外者でいたくないと思った」
――ああ、そうか。
人は変わる。
時間の流れの中で、変化していく。
だから、彼の言い分はおかしなことではないのだろう。
彼は私が何も求めてこないで、ただ好きでいることが心地よかったのも本当。そういうものを気まぐれに享受して楽しんでいたのも本当。でもそのうちに、少しずつ私への情を持ち始めて、それが今日の出来事で爆発した。彼は私と一方通行ではない関係を築きたいと思っている。彼が求めるだけではなくて、私からも求められたいと。――その先には恋があるのかもしれない。私は初めてそういう対象として認識されつつあるのだ。
けれど、私は……
「私は、貴方のことが好きです。貴方が私のことをちっとも見てくれなくても、構わなかった。だから、きっとずっとこの先も好きです。でも、それしか残っていない。何かを求める気持ちがない。もう私は貴方に恋はできない」
言ってから、きゅっと喉が締め付けられた。
私の「好き」は揺るぎないものとして存在している。そこに変化は必要ない。恋は二人でするものだから、もうこれは恋ではない。ただ、彼を好きで、好き以上の何かを求めることはない。そういうものに育ってしまった――そのことを嫌というほど実感した。
「ごめんなさい」
何故、振られた私が謝っているのだろうと冷静に思う反面で、自分がひどいことをしてしまったのだと思う気持ちもあった。
恋にならないのに、好きでいることは残酷な行為なのだ。――彼が振り返ってしまったから。
彼がずっと振り向かずにいてくれたならよかったのに。
私を省みないままでいてくれたら、これまでのように気まぐれに、私の好きを見に来て満足してくれるだけなら、私はこんなに罪悪感を覚えることもなかっただろう。
「ごめんなさい」
私はもう一度つぶやいた。
もう戻れないだろう。これまでのような関係には戻れないし、でも、新しく生まれていくものもない。だから、これが、私の、私と彼との、恋になれなかった恋の終わりだった。
読んでくださりありがとうございました。
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