文化はこぼれた小銭のようにきらめく
翌朝、〈リトル・パレルモ〉にロロッツァのほうが先にやってきた。老人はダブル・エスプレッソを頼み、紫苑に話しかけた。
「なにか、ききたいことがあるようだな。まあ、長年相談役をしているから、相手が相談したがってるのを見極めるのはお手の物なんだよ」
「……あなたは夢を見る?」
「週に一度くらいは。他愛のない夢だ。このあいだ見た夢は壷の破片の夢だった。部屋の真ん中に割れた壷の破片が集まって丸まったものが浮いてるんだ。ところが、壷の破片がひとつ、仲間外れにされて、ゆっくり落ち始める。わしはそれを手で受け取って、破片のボールに戻してやる。すると、今度は別の破片が落ちていくので、またそれを手で受け取って、戻して、落ちての繰り返しだ。わしにはなにもせず破片が床に落ちるのを見届けるという選択肢もあったが、夢のなかのわしはそれを床に落ちて割れる前に手でキャッチして、戻してやった。そんなことしても無駄だと分かっていたが、わしはやめなかった。いまにして思えば、あれはムショの夢だったんだな。同じことを繰り返す。それがムショだ。ムショってのは好き放題煙草が吸えて、あらゆる食料を持ち込めたとしても、退屈だ。若いころ、武装強盗で七年食らったとき、世界を股にかける国際的な殺し屋で情け容赦を知らない氷みたいな男がいたんだが、そいつが突然人目もはばからず泣き崩れたことがあった。女が抱きたいと言ってな。それにべつの男が、ある日突然、女のあそこを拝ませてくれたら五万クレジット払うと言い出したことがあった。それをきいたときはなに血迷ってやがると思ったが。ムショは男をダメにする。一度、女日照りのなか超然としている男がいたが、こいつはゲイだった。夢は人間の本当の欲望を映す鏡だというやつもいるが、わしは信じない。そうだとしたら、わしが本当にしたいことはムショに入ることになる」
「わたしもそう思う」
「ん?」
「夢は願望の鏡じゃない」
「どうだろうなあ」
「あなたはさっきそう言った」
「それはわしみたいな年寄りの場合だ。子どものときに見る夢はまったく違う。子どものときは生きるということが、間違った馬に賭けたレースをなすすべもなく見守るようなもんだと知らなかった。紫苑と言ったな。その齢で人を殺すのだから、短いなかで非常に濃厚な人生を送ったのだと思うがね、だが、若いころに見る夢はわしら年寄りが見る夢とは違う。たとえ、殺人マシンみたいに鍛えられた少女だとしてもだ。それを念頭に置いて、自分の見た夢を思い出してみるといい」
ダウンタウン行きのバスに揺られながら、紫苑は夢のことを頭から締め出そうと窓の外を眺めていた。太陽の光がミラー建築のプリズムに当たって七つに砕け、サラリーマンたちの目のなかで虹の花が咲いていた。風の通り道では硬質で乾いた音がした。交差したハイウェイの底では覚醒剤で眠りを拒否した少年たちが廃プラスチックの山のなかで〈お宝〉を探して、蠢いている。理想化された都市統計モデルのささやかな誤差たち――ギリシャ人売春婦、ソフトウェアとデジタル・ドラッグの屋台、無認可のカプセル・ホテル、標準日本語で表示された新興宗教のホログラム、非合法な商売の数々――禁制品を買い、禁制品を売り、禁制品を運ぶ。バスの窓は古代日本の絵巻物のごとく赤裸々に都市を描き出していた。決まりを破ることに快感を感じる人々の群れと、決まりを守ることで自分もまた守られようとする人々の群れはうっすら青い強化プラスチック製の万里の長城に阻まれて、決して交わることはなかった。
バスがハイウェイからダウンタウンに入ると、バスの背もたれに埋め込まれた液晶に七か国語でダウンタウンの町歩きガイドのようなものがアップされた。それを見て、紫苑は初めて自分が観光客向けのバスに乗っていたことに気がついた。バスがハイウェイを降りると、紫苑もこの行先不明の観光バスを降り、巨大建築群を見上げた。〈ヴァンダービルト〉〈ネオ・ダイヤル〉〈カサザキ・エレクトロニクス〉〈ルーン・バイオ・コーポレーション〉――それに銀行業共同体。既得権益にあぐらをかくメガ企業のビルは、ビーカーのなかで結晶を育てるのに似たコンセプトのもと肥大化していった。メガ企業建築の足元では、新しい文化が生まれ、崇拝され、誰もがその真似をし、先駆者たちが見切りをつけ、三か月かけてきれいに消え去る。新しい文化はメガ企業を倒すことはできないが、その足の裏をあぶるくらいのことはできる。あるいは新しい文化はメガ企業を動かす炉の炎だと言うものもいた。新しい文化が再生をやめ、完全に消え去ったとき、宇宙が拡大をやめて凍りつき、メガ企業も凍りつく。エブロ・シティ全体が冷凍睡眠状態に陥るというのだ。
たとえ午前十時だとしても、ダウンタウンは音に満ちていた。電子株・先物取引専用の端末機がある種の賭博機械のようにあらゆる場所に設置されていたし、あちこちの企業の受付でコンピューター音声が「おはようございます」を連呼していて、サラリーマンの一団が収容所の囚人みたいに行儀よく、エレベーターや専用シャトルを待っていた。路上では掃除ロボが道路に捨てられたテイクアウトの空容器や煙草の吸殻を器用に拾っている。内蔵されたシミュレーターは紫苑がくしゃくしゃになった菓子包装ビニールを捨てると推定し、彼女のまわりをサメみたいにぐるぐるまわっていた。ダウンタウンの中心で大企業の並ぶユリシーズ・ストリートからハロラン・ストリートへ行くのに三つの通りを経由した。第一地区のダウンタウンでも歩くと蜘蛛の巣が顔にかかるような古い忘れられた通りがある。路地ではある種のカビを育てて合成麻薬をつくろうとしているジャンキーたちが小学校低学年向けの化学実験キットを手にゴミ缶をじっと覗いている光景に出くわすこともあった。紫苑は移動厨房車でポーボーイ・サンドイッチを買い、スカイラン・コールド・カンパニーのビルに入った。




