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斬術士  作者: 実茂 譲
1.扇
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 扇が住んでいる七十七号ビルは第七地区のチャプスイ・ストリートにあった。煉瓦でできた七階建てのアパートで一階のパブ〈ザ・トラブルズ〉は地元のギャングのたまり場になっていた。ラスティーズと呼ばれるギャング団で始終酔っぱらっているか、喧嘩しているか、テレビでハーリングの試合を見るか、他の犯罪組織の幹部をさらって身代金を取るかしていた。ラスティーズのメンバーで中学をドロップアウトしなかったものは皆無だったが、それでも彼らはこの世の真の美とは狂気のなかに垣間見えることを知っていた。投げつけられたビール瓶が砕ける瞬間のパターンや頭を撃たれたポン引きが地面にキスするまでのあいだに描く滑らかな軌道は美術館や億万長者のコレクションを探しても得られないのだ。

 パブの自動販売機を見たが、鶏牌香烟ロースターは売り切れだった。

「ひと箱もないのか?」

 パブの持ち主でラスティーズのボスであるビッグ・ママがグラスを磨きながら首をふった。彼女の首には右耳から左耳まで掻き切られた痕がフランケンシュタインみたいに残っていて、一言も話すことができないのだ。だが、普通の男が彼女の首を掻き切るには梯子がいるくらいビッグ・ママは背が高く、そして、首から血を噴きながら、相手を踏みつけて殺すほどの強さがあった。ビッグ・ママはパブの名前でもあるトラブルの種がいることを、軽く握った拳を突き出してナイフで刺す真似をして知らせた。

 見れば、フィギー・カランがカウンターの端で一人で飲んでいた。ラスティーズの古参メンバーですぐキレると評判の男だった。体は爪楊枝みたいに細かったが、喧嘩で固く鍛えられていて、いつも髪をオールバックに撫でつけ、大きな口髭と高い額のあいだにノミで削ったみたいに細い鼻と喧嘩を吹っかける口実を探してぎらつく目ががっちり顔面に固定されていた。共感覚を持つ人間はフィギーを見ただけで壜の割れる音や鼻血の味を知覚したはずだ。

「おい、センじゃねえか! こっちに来いよ!」

 フィギーは一緒にいて、落ち着く人間ではない。上機嫌から人を刺すまでの気分の急降下が激しいのもあったし、この男のキレるタイミングが分からなかった。たいていはそんなことでキレるかと思うようなことでキレ、誰かを半殺しにするまで怒りが収まらない。ラスティーズは特に身内同士の結束が固く、扇のような東洋系のよそ者をパブで見かけたら、まず刺して、それから名前をきいた。フィギーが上機嫌に扇の名を呼ぶのは二人ともアン・グロ戦争に従軍したからだった。扇より年上のフィギーはごく普通の陸軍兵士だったので、あの戦争では「探せ」ではなく「殺せ」と命じられていた。だから、ゲリラがいるという村に着くと、小屋に手榴弾を放り込んで爆発させ、そのあとでアサルトライフルを乱射しながら突撃するというやり方で戦った。ガソリン・ゼリーやカンパニーほどではないが、フィギーもコロニー政府に〈貢献〉したのだ。

「女優だとかミュージシャンってクソ野郎マザーファッカーどもは、この世には手榴弾を投げるに値する人間がいるってことが分からねえんだ」フィギーは頭が痛くなるくらい冷えたビールをあおった。「奴人アン・グロどもに手榴弾を投げるだろ? もし、相手が手榴弾を投げられるに値する奴人アン・グロなら手榴弾の描く弧と爆発のパターンがとんでもねえほどクソ素晴らしいものになるんだ。そんなとき、時間は無限に引き延ばされてゆっくりそのパターンや曲線を楽しむことができる。逆に投げるに値しねえ奴人アン・グロならたとえ相手がゲリラの指揮官でもダメだ。あっという間に終わって、見るに堪えねえもんになる。ハラワタが飛びだすばかりでパターンってもんがねえんだ」

 時間の引き伸ばしや圧縮に関する話題になると、扇はやや不安になった。カンパニーの暗殺者たちはみな流れる時間を操ってスローにして、銃弾の飛んでくる軌道を見切ったりすることができた。フィギーはもちろんカンパニーの人間ではなく、一般兵士だった。だが、フィギーから曲線を見るために時間がゆっくりになったという話をきくと、時間を操る術はカンパニー養成所の特殊な訓練と投薬の成果ではなく、生まれつきの欠陥みたいなものから発生しているのではないかと思わされた。人を殺す化け物として育成された扇が偉そうなことは言えないが、それでもフィギーが人間としていろいろ問題を抱えていることは間違いなかった。自分にもフィギーと同様の狂気の種が頭脳で芽吹こうとしているのはぞっとする話だった。

「ちょっと面白いものを見に行かねえか?」

「せっかくだが、煙草を買いにいきたい」

「それなら問題ない。鶏牌香烟ロースターだろ? ひと箱手に入る」

 パブから外に出て、チャプスイ・ストリートをマーケットのほうへ歩いた。アッラーの御名を唱えながら製造された人造培養肉ピンク・キューブがレストランの前にぶら下がっていて、なかではコーヒーを濾さずに飲む長老たちがコロニーでの生活とコーランとのあいだの解釈についてコーランからの引用と緩やかな比喩を用いた議論を続けていた。隣は二十四時間営業のテイクアウト寿司屋で五十クレジットで養殖ハマチの握りにわさび状の幻覚剤をこっそり仕込んでくれる。ごった煮チャプスイでは人種と信仰はパズルであり、宗教戦争を引き起こさないという暗黙の了解を含みながら複雑に入り乱れていた。それにエブロ・シティでは人種や宗教以上に所得による差が物を言っている。エブロ・シティで万民に平等に与えられているのは選挙権だけで、食事や教育、仕事、暖房器具などには歴然とした差別があった。地区別に乳幼児死亡率を見れば、死ですら不平等であることが分かる。労働者の不満はかなり溜まっているから革命家ボルシェヴィキの亡霊がパンフレットを配れば、革命を起こせるだろう。第七地区の空にはパールグレイの丸っこい監視ドローンが静かに飛んでいるが、革命家を見張っているのではない。ドローンの役目は公衆衛生の維持であり、路上で小用を足そうとする馬鹿者に空からショック銃テーザーをぶち込むことなのだ。

 チャプスイ・ストリートがエッグマン通りと交差するところに連れてこられると、面白いものが待っていた。派手な紫のSUVのそばにピンクのプラスチック・ジャケットを着た小太りの男がいた。ドラック・ディーラーらしいのだが、髪型がマッシュルームのようだった。笑える髪型と退屈させないファッションセンスの持ち主かもしれないが、わざわざ見に来るものでもない気がした。だが、それを指摘するとフィギーはぶち切れるかもしれない。本当にどこでキレるか分からないのだ。逆にこれはキレるなと思ったところでキレないこともたくさんあった。マッシュルーム男は顔の半分が隠れそうな大きなサングラスをしていた。雨は止んだが、相変わらず鉛色の雲が空を埋めているので、たぶんほとんどなにも見えないだろう。

 フィギーが見せたかったのは別の男だった。それはワインレッドのカーディガンにニットタイを締めた老人で上品に白い口髭をたくわえていたので散歩中の大学教授か稀覯本のコレクターに見えた。老人とマッシュルーム頭のディーラーは異なる二つの次元の住人のように共通点がなかった。だが、その老人が九ミリ・オートマティックを抜いて、マッシュルーム頭を撃ちぬくと二つの次元が互いに結びつき、エブロ・シティ式の帰結、つまり殺人事件の被害者と加害者になった。

 老人はひょっとすると、孫をドラッグで失った哀しき復讐者のかもしれない。だが、それにしては銃をベルトから抜いて撃つまでの動きがスムーズ過ぎた。老人が銃を捨てて、走るわけではないがそれに近い歩き方でエッグマン通りへ出ると、すぐに青いカントリー・セダンが現れて、老人の前で急ブレーキを踏み、老人は悠々と助手席に乗り込んで、車は走り去った。

 こうなるとシンジケート絡みの殺しなのだろう。マッシュルーム頭が死をもってしか償えないヘマをしたのだ。老人が捨てたオートマティックは工場のラインから抜かれたものだから番号で販売業者をたどることはできず、また銃についている指紋を検索すれば三十年前の死人がヒットする。

 なぜフィギーがカンパニー並みの予知能力をもって、この出来事を知ったのか不思議だった。恐れも咎めも知らないフィギーは死体のほうへスタスタ歩いていった。そして、プラスチック・ジャケットに指紋が残ることを屁とも思わずポケットをまさぐり始めるのを見て、扇はとんでもないことに気がついた。フィギーは鶏牌香烟ロースターを死体から調達するつもりなのだ。フィギーはようやくネーム刺繍がしてある内ポケットから煙草をひと箱見つけたが、封が切られたバージル・デュークだった。フィギーはそれを死体の頭に投げつけた。ほとんど空っぽだった箱はこつんと額に当たって、血だまりに落ちた。次にフィギーは死体の肩を蹴飛ばした。まるで寝ている酔っ払いを起こすみたいに軽く。次はもっと強く蹴飛ばした。その次はもっと強く。頭を思い切り踏みつけ、踏みつけ、踏みつけ、とまっていたSUVのドアミラーをもぎ取って、崩れかけた頭に叩きつけた。はじまった。これがあるからフィギーと歩くのは嫌なのだ。サイレンがきこえた。第七地区の警官たちは犯人を現場で射殺することが司法制度のジレンマを解決する唯一の手段だと信じている。フィギーは見つけられれば、司法制度のコスト削減のために殺されかねなかった。扇はフィギーを止めようと肩に触れたが、フィギーはふり返りざまにナイフを抜いた。扇はバックステップでそれをかわした。反射的に体が動いて、鯉口をパチンと切った。フィギーは白目にヒビのような毛細血管の走った目をこちらに向けた。いまのフィギーは世の中の人間全てを敵とみなしていた。ラスティーズのメンバーも実の親も全て敵だった。扇は手を柄に触れさせたまま、ゆっくりと後ろに下がった。サイレンはどんどん近づいていた。フィギーは耳に蜂が入り込んだ馬みたいに荒々しく頭をふりまわし、扇が身をひるがえして走り出すのを血走った目で見つめ続けた。

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