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襲い掛かる魔の手

 クリフォードの協力もあり、クラウスの病は順調に快方に向かっていった。

この分なら全治の可能性も高いとノラは考えたが、彼の主治医であるエフィー・ベケット医師の考えは違うようだった。

「残念だが、回復は一時的なものだろう」

 スープを入れ替えはじめてから二週間ほど経ったある日の診察で、ベケット医師はクラウスの病状を、このように診断した。

「でも、ベケット医師。最近は本当に体調が良いんですよ。倦怠感もなくなったし、食事が美味しく感じるんです」

「それは、精神的な要素が関係しているのでしょう。日常生活に変化が起きたことで、一種の興奮状態に陥っているのです。今は安定を保っているように見えますが、油断すればまた直ぐに悪くなる」

 ベケット医師は、『本当に快方に向かっているのでは?』というクラウスの意見を、きっぱりと否定した。クラウスとノラは困惑気味に顔を見合わせ、ベケット医師をイライラさせた。

「坊ちゃま、私はあなたの主治医ですぞ。あなたの病は、そう簡単に治るようなものではありません」

 ベケット医師は断言した。

「とにかく今は安静にして、ベッドを出ないことです。今後は日中の散歩も禁止します。よろしいですね?」

「はあ……」

「それから君、ノラとか言ったかね。……いい加減なことを言って、患者や家族をぬか喜びさせるんじゃないよ。いざという時、責任を取るのは私なんだからね」

 ベケット医師はぷんすか怒って部屋を出て行った。

 診断を聞いた二人はがっかりしたが、クラウスの体調が良いのは紛れもない事実だった。その頃には吐き気や腹痛に襲われることも、痛みで真夜中に目を覚ましてしまうこともなくなっており、南の塔はかつてない程、平和な空気で満ちていた。日中、箱庭には止処もなく笑い声が響き、お見舞いに来た男爵夫人を恐々とさせた。男爵夫人は「いよいよ死期が近いのかしら……?」などと嘆いて、二人を喜ばせた。

「不思議だ。身体の底から、力が溢れてくるようだよ」

「良かったですね、坊ちゃま。これからは、なんでも、やりたいことが出来ますよ」

それもこれも、全てはクリフォードの協力があってこそだった。彼はクラウスのために、毎朝片道一時間もかけて町に行き、市場で新鮮な食材を調達してくれていた。本人はおくびにも出さないが、眠い目を擦りながら仕事をしているのを、ノラは知っていた。

「本当にありがとう、クリフ。全部あなたのおかげよ」

 ノラは感謝の気持ちを込めて、余ったスープの材料で菓子を焼き、クリフォードに差し入れた。「これ、俺に!?わあ!ありがとう!」

「そういや、ノラの手料理なんて、はじめてじゃないか?」

「そうだっけ?」

「そうだよ。なんだかんだで、一度も食べさせてもらったことない」

 クリフォードは菓子を大きな口で頬張って、『美味い』と一言感想を述べた。

 しばらくの間、ノラは菓子をもぐもぐする彼の横顔を、甘酸っぱい気持ちで見つめていた。あのクリフォードが、私の手料理を美味しそうに食べているなんて、夢じゃないかしら?などと考えながら。

「いろいろあって、もう忘れちゃったかもしれないけど……」

ノラがクリフォードの、汚れた指先をシャツの胸で拭う仕草にときめいていると、彼が唐突に切り出した。「俺、お前のこと好きなんだぜ」

「べつに、返事を急かしてるんじゃないよ」

「?……じゃあ、どうして?」

「だって……男前なんだろ?」

 クラウス坊ちゃんって。

クリフォードがとんちんかんなことを言うので、ノラは笑い出した。

「なんだ?俺、そんなに変なこと言ったか?」

「違うの。そうじゃないの」

 クリフォードの怪訝顔に向かって、ノラは唇を長く引き延ばして見せた。

「女の子で、良かったなぁと思って」

 ノラはしみじみ呟いた。

「きゃっ……!」

クリフォードは突然、山道で子ぎつねに遭遇した熊みたいになって、ノラに飛びかかった。抱き潰されたノラは、目を白黒させた。

「……苦しい、クリフ……」

 ノラはクリフォードの逞しい腕の隙間から、弱弱しい声で訴えた。性急で荒々しい様子は、ノラを怖気づかせた。

「…………」

クリフォードはノラの言葉を無視し、彼女を滅茶苦茶な力で抱きすくめたまま、後ろ髪をぴんと引っ張った。顎が持ち上がり、彼の熱っぽい瞳と視線が絡むと、ノラはこれからはじまる行為を予感して、全身をぶるぶるっと戦慄かせた。

「ま、待ってっ……」

 制止の言葉を遮るように、唇が降ってきた。額に、瞼に、鼻筋を滑って、唇に。ノラは狭い囲いの中を、新鮮な魚のように元気よく逃げ惑ったが、クリフォードはいとも簡単にノラの顎を捕えた。彼はさながら、腕の良い漁師だった。

戦いの末、大人しくなったノラの唇を、クリフォードは思う存分味わった。好き勝手されると、ノラは自分が本物の魚になってしまったような気がした。

事が済んだ時には、お互い疲れ果てて、地面にへたり込んでいた。

「……嫌いになった……?」

 なれるはずない。クリフォードの質問に、ノラはゆるゆると首を横に振った。

子供の頃から喧嘩ばかりしていたけれど、本当はずっと、羨ましいと思ってた。彼に優しくされる女の子達のこと……

「じゃあ、もう一回……」

「…………」

「……キスする……?」

気付いた時には、瞳を閉じていた。ジノのことも、クラウスのことも、ちらとも頭を過らなかった。その夏、二人は何度かこんなキスをした。

 平穏な日々が十日ばかり続いた、ある晩のことだった。いつものように、クラウスの夕食に出された毒入りスープを裏庭に捨てていると、突然肩を掴まれ、ノラは声にならない悲鳴を上げた。

振り返ればそこには、庭師のオーベール・アレジが立っていた。

「ア、アレジさんっ……どうして……」

 いつもなら、アレジはもうとっくに仕事を終えて、ロッジに帰っているはずの時間だ。彼はこんなところで、灯りも持たずに、なにをやっているのか。

「最近、クラウス様のご病気が良くなったと聞いていたが……やはりあんただったか……」

 アレジはノラの質問には答えず、険しい顔で呟いた。彼の視線は、ノラの手元の皿に注がれていた。

「悪いことは言わない。もう止めるんだ」

「……止めるって、なにをです?」

「とぼけるんじゃない……!朝晩こっそりクラウス様の食事を入れ替えているだろう!知っているんだぞ!」

 アレジは小さな、鋭い声でノラを叱りつけた。『とうとうばれてしまったか……』と、ノラは嘆息した。クラウスの食事は、彼の主治医であるエフィー・ベケット医師監督の元、細心の注意を払って作られているのだ。怒られると分かっていたから今まで秘密にしていたのに、思いもよらない人物に嗅ぎ付けられてしまった。

「アレジさん、これには深い事情があるんです。どうか見逃してください」

 しかし、ばれたからって止める訳にはいかない。スープを入れ替えるようになってからというもの、クラウスは日に日に生気を取り戻している。ゴールはもう直ぐそこなのだ。

 ノラは懇願したが、アレジは耳を貸さなかった。

「君のために言っているんだぞ!……言ったろう。クラウス様の病は、近付く者を次々巻き込んでいく恐ろしい病気。深入りすれば、あんたの命が危ない……!」

 アレジは力を込めてノラを説き伏せた。その剣幕たるや、凄まじいものだった。

「クラウス様のことなら、心配いらない。様子を見るに、この程度なら、少なくとも死ぬことはないから……」

 言ってしまった後で、アレジははっとした。ノラの瞳に疑いの色が広がり、アレジは冷や汗をかいた。

「アレジさん……?なにか知っているんですか……?」

「し、知らん……!あたしゃ何も知らん!」

「でも、あなた今……!」

「知らんと言っているだろう!……いいかノラ、これが最後の忠告だ。食事を取りかえるのは、もう止めるんだ。さもなければ、恐ろしいことが起きる!」

「待って……!アレジさん!」

 アレジはノラの制止の声を振り切り、闇の向こう側へ走り去ってしまった。

(どういうこと……?)

アレジの忠告の本当の意味は、直ぐに知れることとなった。

「ううっ……げぇっ……!!」

「坊ちゃま……!」

 クラウスの病状が悪化したのは、明後日の朝のことだった。いつも通りジョージが持ってきた朝食を食べたクラウスは、突如激しい腹痛に襲われた。

「あああっ……!!」

クラウスは胃の中が空っぽになっても吐き続けた。その苦しみ方は尋常ではなく、ノラは青ざめた。

(どうしてっ……!?スープは取り替えたのに……!)

ノラはクラウスのために用意された料理の全てに口を付けた。結果、毒はスープではなく、前菜に混入していることがわかった。毒は以前より……舌が火傷しそうなほど、強力になっていた。ノラはぞっとした。

その日から、毒は毎日姿を変えて二人の前に現れた。ある時は薬瓶の縁に。またある時は、午後のお茶のカップの底に塗りつけられていた。クラウスは食事を取ることを怖がり、結果徐々に戻りはじめていた食欲が減退し、体重もそれに伴って激減した。ノラはなんとかクラウスの口に毒が入らないよう手を尽くしたが、毎日のことでは限界があった。

(それに……)

クラウスの口に毒が入らないとなれば、犯人は今度こそ、直接手を下しにやって来るだろう。庭師のアレジは恐らく、こうなることを知っていたのだ。

最悪の状況は、ほんの序の口でしかなかった。二人が進む道の先には、もっと恐ろしい展開が待ち受けていた。

人も獣も寝静まった、真夜中のことだった。

その夜は何故か胸がざわめいて寝付けず、ノラはベッドの中から石の天井を見上げていた。物音に気付いて起き上がったのは、午前一時を過ぎた頃だった。

(坊ちゃま……?)

物音は、一階のキッチンの方から聞こえてきた。ノラは燭台の灯りを頼りに、そっと部屋を出て、忍び足でキッチンの方へ向かった。

「…………」

僅かに開いた扉の隙間から、月明かりに照らされた部屋の中が見えた。井戸水を溜めておく水瓶のそばに、クラウスが佇んでいた。

彼の手に握られた、煌めく物の正体に気付くと、ノラは息を呑んだ。

「何をなさっているんですっ!!?」

 ノラは扉を乱暴に開け放ち、キッチンに突入した。驚いたクラウスは咄嗟に、手に持ったナイフの切っ先を自身の頤に向け、叫んだ。「来るな!」

「来ないでくれ……!」

 クラウスの懇願を受け、ノラの脚は金縛りにあったように動かなくなった。ノラは二度深呼吸し、努めて穏やかな声を出した。

「坊ちゃま、こんな真夜中に、一体なにをされているんです……?」

 クラウスは答えなかった。

ノラは懸命に平静を装っていたが、主の変わり果てた姿を見て、激しく動揺していた。げっそりと肉が落ちた頬。荒野のように乾ききって硬くなった皮膚。やたらと大きな目だけが、異様な輝きを放っている。食事をほとんど取らないせいで、彼の容貌はもはや、儚げと言うより、墓から掘り起こされた骸のようだ。

「……ベッドに戻りましょう。さあ、そのナイフを渡してください」

 差し伸べられたノラの手を、クラウスは乱暴に払い退けた。

「坊ちゃま……」

ノラはクラウスの絶望を思い、悲嘆した。このところ、彼はずっと情緒不安定だ。一度は良くなりかけた病が再発したことにより、疑心暗鬼になっているのだった。肉体の消耗と比例するように笑顔が減り、ふさぎ込むことが多くなった。

(私のせいだわ……)

病の正体に気付いてからずいぶん経つと言うのに、未だに犯人を突き止めることも、毒の出所を探り出すことも出来ない。クラウスに満足に食事を取らせることさえ……

「坊ちゃま、どうかベッドに戻って下さい。風邪を引いてしまいます」

「……風邪など、どうと言うことはないさ。このひと月の苦しみに比べればね」

 クラウスは今にも泣き出さんばかりに哀願するノラを、鼻先で笑った。

「ベケット医師の言う通りだった。この病は、そう簡単に治るものではなかった」

「いいえ、必ず治ります。ノラがお約束します。安静にして、ちゃんとお薬を飲んさえいれば……」

「気休めを言うな!」

 クラウスが声を荒げ、ノラはびくっとした。青ばむノラを見て、クラウスは自嘲的な笑みを浮かべた。

「……正直、君が恨めしいよ。君は私に希望を持たせた。私も期待してしまった」

もしかしたらこのまま病が快癒して、普通の暮らしが出来るようになるのでは、と……

「束の間でも、安息を得られたことを、感謝すべきなのだろうね。だが、あいにく私はそんなにできた人間じゃあないんだ。天使のように、清らかではいられない」

 だって、生きているんだからね。

クラウスが辛辣な皮肉を言うと、ノラはいよいよ泣き出した。

「いいえ、坊ちゃま。誰が何と言おうと、坊ちゃまはお優しい方です。お屋敷の仕事をクビになって行き場のない私を、お傍に置いて下さいました」

「……お上手を言うなよ。心の底では私を、弱い男と軽蔑しているくせに」

「坊ちゃま!これ以上、ご自分を貶めるのは止めてください!全ては病のせいです!そして、不甲斐ない私のせいなのです!私には、坊ちゃまのお気持ちが……!」

「分かると言うのか……!?私の苦しみが、悔しさが分かると言うのか!?心身共に健康な君に!」

「っ……」

「わかるものか!ああ誰にだって、わかるものか!」

 クラウスの落ちくぼんだ瞼から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「使用人達に言わせれば、私の病は、金持ちしかかからない病なのだそうだ」

「?金持ちしかかからない?……なぜです?」

「この病は金食い虫だから、貧乏人は薬代を払うのに、首を括らなきゃならないんだと」

 ノラは言葉を失った。

「事実、父上は私の病を治すのに、莫大な金をつぎ込んだ。国中から医者を集め、高価な薬を購入し、必要とあればどんな危険な場所にも赴き、治療法を探した。後妻となった母上は、男児を産めなかったことで、一族の者達から浴びる必要のない非難を浴びた。『後妻のくせに役目も果たせないのか』とね。この家にとって、私はまるで疫病神さ。もううんざりなんだ。他人に迷惑をかけることしか出来ない、こんな人生は」

「坊ちゃま……」

「……今更信じてもらえないかもしれないが……君に出会えたことは、私の人生で最大の喜びだった。朝起きてから、夜眠るまで、いつも心に君がいた。本当だよ」

 クラウスはナイフを両手で握り直すと、切っ先を少しずらして、首筋に当てた。「さようなら、ノラ」

「坊ちゃま……!!」

 ノラは無我夢中でクラウスに飛びかかった。

「ノラ!止めるんだ!」

ノラと非力なクラウスでは、勝負の行方は明らかだったが、クラウスがナイフを奪われまいと抵抗したために、その事故は起きた。

「うっ……!」

「ノラっ!!」

 揉みあっている最中に、ナイフの切っ先がノラの腕を傷付けたのだった。クラウスは持っていたナイフを放り出し、ノラに駆け寄った。

「怪我をしたのか!?馬鹿なことをっ……!!」

 ノラは怪我をした方の腕を振り上げて、狼狽するクラウスの頬をぴしゃりと打った。

「馬鹿なのはどっちよ!こんなものを持ち出して!なにかあったらどうするのよ!」

 ノラは放心するクラウスを、頭の上から、酷い剣幕で怒鳴った。

「このナイフは、お料理を作るためにあるの!野菜を切ったり、果物を切ったりするためにあるの!全くもう!こんな夜更けに、くだらないことを始めないでちょうだい!」

「…………」

「わかった!?」

 クラウスが思わず頷くのを待って、ノラはナイフを戸棚の中にしまった。これからは、キッチンの扉に鍵を掛けよう。そうしよう。

「ねぇ坊ちゃま。もう少しだけ、頑張ってくれませんか?私のために……」

「?君のため……?」

「そうです。今夜坊ちゃまが亡くなれば、男爵夫人は私を恨むでしょう。私は世話係のくせに坊ちゃまの愚行を止めることのできなかった駄目メイドとして、今度こそ屋敷を追われることになるんです。いいえ、もしかしたら殺人を疑われて、縛り首になるかも……」

「そんなことは……」

「ないと言い切れますか?今この塔には、私と坊ちゃまの二人きりなんですよ!」

 さもありなん。クラウスは口を噤んだ。

「あと一年……いえ、半年でも良いんです。私と一緒にもう一度、戦ってくれませんか?私、坊ちゃまが元気になるためだったら、なんでもします」

「……なんでも?本当に?」

 ノラが確約すると、クラウスは微笑んだ。背筋がぞくりとするような、暗い笑みだった。

「……ならば、私の妻に……」


これまた久しぶりの更新です。

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