病の原因
それからというもの、クリフォードは暇を見付けてはノラに会いに来た。多くはノラが川辺で洗濯をしている時。たまにノラの部屋の窓を叩くときもあった。
「シルビアのやつ、町を出る時大騒ぎしたんだぜ。戻りたくないって駄々こねてさ。みんなで馬車に押し込んだんだ」
「あのシルビアが?かわいいとこあんのね!」
クリフォードはいつまでも待つという誓いを守り、返事を催促することも、キスを迫ることもなかった。ただの友達同士みたいに、狭い庭の隅で他愛ない世間話をしたり、追いかけっこしたりしていると、身も心も子供時代に返って行くようだった。
「足元、気を付けて」
楽しいばかりの毎日が続き、ノラが『あの告白は夢か幻だったんじゃないか』などと思いはじめると、クリフォードは狙ったように特別な優しさを見せて、ノラに甘酸っぱいときめきを思い出させた。立ち上がる時に手を差し伸べてくれたり、重い物を持ってくれたり。小さな思いやりは、男性と交際経験のない彼女を驚かせ、戸惑わせ、時に浮足立たせた。彼はノラを一人前の女性として扱い、ある面で幼稚な彼女を、上へ下へと翻弄した。丁寧にされると、お尻がむずむずした。
「近頃、ため息が多いね」
ある時、クラウスの枕元で雑巾を縫っていたノラは、指摘されて作業する手を止めた。
「原因は、最近よく見かける、新しい庭師?」
ぴたりと言い当てられて、ノラは狼狽えた。
「……気付いていらっしゃったんですか……」
「この窓からは、なんでも良く見えるからね」
クラウスは、つかの間の逢瀬を繰り返す二人の様子を、毎日窓から眺めていたのだった。ノラは恥じ入り、小さくなった。
「……幼馴染なんです。同郷で……」
「……彼のことが好きなのかい?」
ノラは無言を返したが、赤い顔を見れば答えは明白だった。ノラの正直な反応を見て、クラウスはうふふと笑った。
「明日をも知れぬ身の私が言うのもなんだけど、いつ何が起こるかわからないのが人生だ。大好きな人と一緒にいられる時間を、大切にすべきだね」
クラウスの老人みたいな説教は、激しくノラの共感を呼んだ。彼の言うことは尤もだ。しかし、ノラにはクリフォードの告白に答えられない理由が二つあった。
一つは、クラウスのことだ。主人が病気で苦しんでいる時に、男の子と付き合うだなんて、不謹慎極まりない。彼の病気が良くなるまで傍にいると決めたのは、ノラ自身なのだから、自粛すべきである。
(それに……)
ジノのことだってある。
ノラがヴォロニエに向けて出発した日、見送りに来なかったことを思うと、ジノはクリフォードの気持ちに気付いたのだろう。五年近くも思い続けてきた相手が、別の女の子を好きになった。それだけでもショックなのに、相手はなんと親友のノラだ。もしも二人が付き合うことになったら、ジノは酷く傷付くに違いない。裏切られたと、思うかもしれない。
「私のために、すべてを犠牲にすることはないんだよ。私は友人として、心から君の幸せを願っている。そういう人間でありたいと思っているんだ」
人の心の機微に敏感なクラウスは、ノラの葛藤を見抜いて、素直になりなさいと説き伏せた。ノラは少し救われた。
願望と良心の狭間で揺れる日々が、ひと月ほど続いたある日。ノラの小さな迷いなど吹き飛ばす大事件が起こった。
「坊ちゃま、しっかり食べないと、良くなるものも良くなりませんよ」
夕食時のことだった。執事のジョージが持ってきた食事に手を付けようとしないクラウスに、ノラが忠告した。
「食欲がないんだ。今日はあまり動かなかったから、そのせいだよ」
「またそんなこと言って。お百姓さんに怒られるんだから」
張り切ってお小言を口にすると、ノラのお腹の虫が返事をするようにぐーっと鳴き、クラウスの笑いを誘った。
「良ければどうぞ」
赤面するノラに、クラウスは親切に自分の膳に勧めた。
クラウスのために用意された膳には、普段ノラが食べている賄いとは比べ物にならないくらい、豪華で美味しそうな料理が並んでいた。メニューは、シンプルな野菜スープに、鴨肉のパイ包み。キャベツと淡水魚のクリーム煮込。デザートにはクルミ入りのチョコレート・アイスクリーム。それらは全て、触れるのも躊躇われるような美しい器に盛り付けられていた。
朝食を食べたきりのノラは、ごくりと唾をのみ込んだ。実は前々から、一度食べてみたいと思っていたのだ。
「ノラが食べてくれれば、母上やお百姓さんに怒られずに済むんだけどなぁ」
とはいえ。病人の食事を取り上げるなんて意地汚い真似は出来ない。遠慮してみせたノラに、クラウスはわざわざ口実を作って勧めた。
「……し、仕方ないなあ。男爵夫人には内緒ですよ!」
ノラは渋々を装いながら、その実、うきうきとスープの皿を手に取った。
「わーっ……」
野菜のエキスがたっぷり溶け出したスープは、何度も漉して作るため澄んだ黄金色で、器の底には貝のムースが敷かれていた。匙の先で液面を揺らせば食欲をそそる香りが鼻を擽り、空っぽの胃が空腹を訴え、しくしくと痛んだ。
こんなに美しい料理は、見たことがない。ノラは見た目に負けない味を期待した。ところが……
(えっ……!?)
スープをひと匙すくって口の中に流し込んだ瞬間、ノラの期待はあっさりと裏切られた。
(?……味が……)
口内に広がる苦味。びりびりと痺れる舌。とても食べられたものじゃない。気のせいかと思い、もう一口。念のため更にもう一口食べてみて、疑いは確信に変わった。
「あ、あの、坊ちゃま、これっ……」
「それは私が一番好きなスープなんだ。どう?美味しいだろう?」
クラウスはお気に入りを自慢して、同意を求めた。
ノラはますますパニックした。毎日同じものを口にしているクラウスは、スープの味がおかしいことに、全く気付いていないのだった。
「げーっ……!!」
その夜、ノラは激しい腹痛に襲われ、二度も吐いた。それは正しく、長い間クラウスを苦しめている、原因不明の病と同じ症状だった。
(誰がこんなことをっ……)
食事に毒を盛るなんて。それも、クラウスの味覚を麻痺させるほど、長い間……
(どうしよう……)
思い切って男爵夫人に相談しようか?……いや、駄目だ。食事を運んでくるのは、男爵夫人か、執事のジョージだ。彼女が犯人ではないという確信が持てるまで、下手なことは出来ない。勘違いや不慮の事故という可能性もある。大事にするのは真相が明らかになってからだ。
「…………」
ともかく、このままにはしておけない。犯人捜しは一先ず置いておいて、ノラは現状を打破することにした。
「スープの材料ー?」
「そうなの。どっかから調達してきて欲しいの。出来る?」
「そりゃあ、出来ないことはないけど……なんで『秘密で』なんだ?」
「今は言えないの。訳は聞かないで、お願いクリフ」
ノラはクリフォードが町から仕入れてきた食材でスープを作り、こっそりクラウスのものと入れ替えた。一口食べたクラウスは、いつもと味が違うことに気付き、『あれ?』と首を傾げた。
「実はそのスープ、私が作ったんです。お口に合いませんでしたか?」
「いいや。とっても美味しいよ。でも、どうして?」
「あの……えーと……それ、私の実家に伝わる、秘伝のスープなんです。どんな病もたちどころに治るって言う……母からレシピが届いたので、作ってみたんです」
クラウスが不思議がると、ノラは適当を言って誤魔化した。事情を知らないクラウスは、ノラの献身に感激した。
「全部食べて下さいね。心を込めて作ったんですから」
「もちろん、誰が残すものか」
ノラの見込み通り、クラウスの体調はみるみる回復していった。
「君のスープを食べてから、体が羽のように軽いんだ」
スープを入れ替えて三日もすると、クラウスは腹痛を訴えなくなった。更に一週間が経つと、瞳の色が冴え、四肢に力が戻り、頬には赤みが差した。
「クリフ!クリフォード!」
「?ノラか?どうしたんだ?ずいぶんご機嫌だな」
この吉報を、ノラは一番の功労者であるクリフォードに伝えた。ノラが事情を明かすと、クリフォードは耳を疑った。
「じゃあ、誰かが坊ちゃんの食事に、毒を盛ってるって言うのか?」
「わからないけど……あのスープが原因なのは確かなの」
「なぜそう言い切れるんだ?偶然かもしれないだろ?」
「食べてみたの」
ノラが事もなげに告げると、クリフォードは血相を変えた。「なんだって!?」
「お前ってやつは……!どうしてそう、無茶苦茶をやるんだ!」
「ほんの一口よ。平気よ」
「そんなこと、わかんないだろ!?……なあ、少しは俺のことも考えてくれよ!お前に何かあったら、生きていけないよ!」
クリフォードが大げさに嘆き、ノラはその剣幕に面食らった。
「命の危険だけじゃないぞ!アルバート医師の話じゃ、薬がもとで失明したり、歩けなくなったりすることもあるって!」
クリフォードは更に言い励まし、ノラの心臓をドキドキさせた。こんな風に声を荒げる彼を見るのは、本当に久しぶりだった。ノラが『最後に喧嘩をしたのはいつだっけ?』などと考えていると……
「それに、もしも子供が出来ない体になったりしたら……!」
興奮したクリフォードがつい口走って、ノラをぎょっとさせた。ノラは首筋まで真っ赤にして恥じらい、我に返ったクリフォードも、一緒になって赤面した。




