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第1話:『お前のようなゴミ拾いはクビだ』~帝都最深部で脱ぎ捨てられた作業着~

 鼻腔の粘膜を直接焼き鏝で突かれたような、鼻持ちならない刺激臭。

 ツンと突き刺す硫黄臭に、生ゴミが百年間密閉されて腐敗し続けたような饐えた生臭さ、そして重金属が融解して立ち上る甘ったるい猛毒の油煙が混ざり合い、呼吸を一つするだけで肺胞がチリチリと焼けるような悲鳴を上げる。

 ゴボリ、ゴボリ、ドロリ。

 足元で不気味な音を立てて煮えたぎるのは、人口百万人を抱える大帝国・オルディス帝都の全域から昼夜を問わず流し込まれてくる超高濃度魔力廃棄物――通称『呪詛ヘドロ』だ。

 帝都地下百メートル、太陽の光の一筋すら届かない最下層区画に鎮座する中央魔導廃棄炉『ヘル・ゲート』。

 その内部温度は摂氏八百度を優に超え、分厚い耐魔煉瓦の炉壁は常に紫黒色の燐光を放ちながらジリジリと軋みを上げていた。軍支給の特殊耐熱防護服を着込んでいない並の人間であれば、足を踏み入れただけで皮膚が爛れ、眼球が白濁し、呼吸器を焼かれて数分と生きていられない、正真正銘の死の坩堝であった。


「……ふう。今日も今日とて、山盛りだな」


 ロイド・アルスターは、煤と機械油で黒ずんだ無精髭を革手袋の甲で撫で下ろすと、肩を回して骨をポキリと鳴らした。

 年の頃は二十代半ば。肩口まで無造作に伸びた漆黒の髪を後ろで一本の革紐で束ね、幾重にも耐火パッチが当てられた分厚い灰色の作業着に身を包んでいる。足元には鋼鉄の爪先芯が入った泥まみれの安全靴。その風貌は、どう好意的に見繕っても、帝国の最底辺で日銭を稼ぐ汚らしいゴミ拾い雑用係にしか見えない。

 しかし、彼が炉の巨大な注入口へ歩み寄り、ドロドロと泡立つ紫黒色のヘドロの海へと素手の右手を向けた瞬間――世界の物理法則が、音もなく書き換わった。


「――《原質解体(デコンストラクト)》」


 微かな呟きとともに、ロイドの指先から淡いエメラルドグリーンの光の波紋が広がっていく。

 キィィィィン……と、澄み渡るハープの爪弾きに似た極めて高周波の共鳴音が、轟々たる炉の唸り声をかき消して地下空間に響き渡った。

 その瞬間、触れたヘドロの分子結合が、原子レベルでほどけていく。

 強酸を撒き散らしていた硫黄化合物は無害な硫酸塩と酸素に。猛毒の重金属イオンは結合手を切断されて純粋な金属結晶の粉末に。そして、死んだ魔導兵器や呪われた魔石から漏れ出した怨嗟に満ちた呪詛魔力は、ロイドの解体波によって歪みを整えられ、穏やかな大気中のエーテルへと還元されていく。

 ボコボコと泡立ち、耐熱炉壁をドロドロに溶かさんばかりだった数千トンの汚泥が、わずか十数秒の間に、サラサラとした純白の砂と無臭の水蒸気へと姿を変えていった。


「よし。今日の最終バッチ、五千トンの無害化完了。排気弁の目詰まりも解体して隙間を作っておいたから、これで明日までは炉壁の圧力も保つはずだ」


 ロイドは安堵の息を吐き、腰にぶら下げた真鍮の水筒の水を一口含んだ。

 この過酷極まりない作業を、彼は帝都の地下で丸三年間、一日も欠かさず一人きりでこなしてきた。

 誰に褒められるわけでもない。帝国の上層部がその事実を知っているわけでもない。

 ただ、自分が手を下さなければ帝都全土が猛毒の廃棄物で沈没することを知っているからこそ、職人の意地だけで続けてきたのだ。

 だが――その静寂は、無作法極まりない破壊音によって破られた。


 バァァァァンッ!!


 分厚い防護気密扉が蹴破られ、耳障りな甲高い足音が響いてきた。


「オエッ……! ゲホッ、ゲホッ! なんだこの耐え難いドブ臭さは! 息を吸っただけで喉と肺が腐りそうだぞ!」

「まったく、これだから最下層のドブネズミの仕事場は嫌なのだ。おい、そこにいるゴミ拾い! 聞こえぬのか、貴様だ!」


 現れたのは、場違い極まりない豪奢な格好をした二人連れだった。

 一人は、全身を眩いばかりの純金メッキの装飾鎧で包み、キツい薔薇の香水の匂いをプンプンと漂わせた金髪の美男子――帝国が誇る筆頭勇者、レオン・ヴァルハイト。

 もう一人は、丸々と太った豚のような体型に贅沢なビロードの毛皮外套を羽織り、香水を染み込ませた絹のハンカチで鼻を固く押さえた大魔導伯爵バルト。中央廃棄物管理庁の最高責任者である。


「……伯爵閣下に、勇者レオン殿。こんな危険な最深層に、なんの御用ですか? ここは換気魔法を回していても、高濃度の魔力残滓が滞留しています。貴族の方々が長居されるような場所ではありませんが」

「黙れ、薄汚い雑用係が! 貴様ごときドブネズミが気安く我が名を呼ぶな!」


 レオンが嫌悪も露わに眉を吊り上げ、腰に下げた宝飾帯びの長剣の鞘を、カンカンと足元の鉄柵に打ち鳴らした。


「単刀直入に言ってやる。ロイド、貴様は今日限りでクビだ。即刻この施設から私物をまとめて立ち去れ!」

「……は? クビ、ですか?」

「聞こえなかったのか? 追放だと言っているのだ!」


 バルト伯爵が豚のような細い目を吊り上げ、唾を飛ばしながら一枚の羊皮紙をロイドの足元へ投げつけた。


「我が管理庁の予算を見直した結果、貴様のような魔力も持たぬ無能な平民に、毎月無駄な給与を払う余裕はないという結論に達したのだ! 本来ならエリート魔導師十人がかりで冷却と沈殿を行うべき炉の前に、貴様を『見張り番』として形だけ立たせておいてやった恩を忘れおって!」

「お待ちください、伯爵閣下。このヘル・ゲートから排出される魔力スラグは、単純な冷却魔法では中和できません。毎日私が直接手を入れて分子結合を解体しなければ、配管が詰まり、炉壁が侵食されて――」

「はっ! 言い訳が見苦しいぞ、ゴミ拾い!」


 レオンが嘲笑を浮かべ、ロイドの作業着を侮蔑を込めて指差した。


「貴様がやっていることなど、ただ炉の前に突っ立ってスコップで煤を突っついているだけではないか! 俺たち勇者パーティが前線で命を懸けて魔獣を討伐し、帝国の栄光を勝ち取っている間、貴様は帝都の安全な地下で、ゴミ溜めの番をして飯を食っていただけの寄生虫だ。そんな男が、帝国正規軍の末端を名乗るなど反吐が出る!」

「……」

「今や俺の聖剣の威光は大陸中に轟いている。帝都の防衛も、魔導機関の運営も、俺とエリート魔導師団がいればすべて事足りるのだ。お前のような何の戦闘力もないゴミ拾いが入り込む余地など、どこにもないんだよ!」


 レオンの言葉に、バルト伯爵が卑屈な笑みを浮かべて太鼓持ちのように頷く。


「その通りです、レオン殿! 明日からは勇者パーティの威光を称える新たな巨大黄金モニュメントの建造に予算を回すことになりましたのでな。貴様のような日雇い労働者に払う銀貨一枚すら惜しいわ。さあ、さっさと荷物をまとめて出ていけ!」


 ロイドは足元に落ちた解雇通知書を静かに見下ろした。

 激昂する気にもならなかった。悲哀すら湧かなかった。

 ただ、底知れない呆れと、冷え切った諦めが胸の内に広がるだけだった。

 この男たちは何も知らないのだ。

 帝都が毎日排出し続ける五千トンの猛毒ヘドロを、誰がたった一人で無毒化していたのか。

 レオンが自慢げに腰に差している聖剣に付着した高濃度の酸性スラグを、誰が夜な夜なギルドへ出向いて研ぎ直し、分子再配列で刃こぼれを防いでやっていたのか。

 それを「ただ突っ立っていただけ」「スコップで突っついていただけ」と本気で信じ込んでいるらしい。


「……分かりました」


 ロイドは短く息を吐いた。


「解雇の件、謹んでお受けいたします。本日をもって、中央魔導廃棄炉ヘル・ゲートの管理、および帝都内における一切の清掃・解体業務から手を引かせていただきます」

「ふん、物分かりだけはいいようだな。負け犬らしく、せいぜいどこかの路地裏で飢えて野垂れ死ぬがいい!」


 ロイドは腰の作業ベルトを外し、炉のメイン制御盤の中央に差し込まれていた一本の古びた真鍮の鍵をカチリと抜き取った。

 それは、ロイド自身の《原質解体波》を炉全体へ均等に共鳴・循環させるための触媒アンテナだ。

 ロイドはその鍵を、壁の工具掛けに無造作に引っ掛けた。

 そして、三年間着古した耐熱作業着を脱ぎ捨て、私服の簡素な麻シャツと擦り切れたズボン姿になる。


「では、失礼します。……くれぐれも、その鍵には触らない方がいいですよ」

「指図するな、ゴミ屑が! さっさと失せろ!」


 背後で響くバルトの唾の飛ぶ怒声と、レオンの高笑い。

 ロイドは一度も振り返ることなく、重い気密扉の向こうへと歩み去った。

 彼が去った直後、主の制御を失ったヘル・ゲートの炉底から、キィィィィン……と耳鳴りのような不穏な高周波の共振音が漏れ始めていたことに、二人はまだ気づいていなかった。




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