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 湯を浴び、汗を流しながら、イオンはそっと首元に指をなぞらせた。

 そこはまだ、ユーノスの感触が強く遺っているように感じて、温かい湯のせいだけではない肌の紅潮を浮かばせる。


(ユーノス様……一体、何を考えていらっしゃるんだろう)


 自分に手を出すことを悔やんでいるような顔を見せた時もあれば、妖しい瞳をして強引に吸い付いてくる時もあった。

 まるで、ユーノスという人物が二人いるような、そんな感覚すら覚える。

 それこそ、英雄である彼と死人としての彼。その二者がせめぎあい、ユーノスという一人の男を形作っているのだとしたら、どちらもユーノス・インシグニアという人物で間違いないだろう。


(……辛そうな声だった)


 ぽたりと、毛先から雫が床に落ちて、飛び散る。


 イオンに、『斬ってくれ』と言った彼はどこまでが本音だったのだろうか。

 イオンはユーノスのその言葉に、頷くことは出来そうになかった。


(ユーノス様には、そんな結末を迎えてほしくない)


 邪神との戦いは、たった独りで立ち向かったと伝えられている。強大な闇に対してたった独りで、だ。

 幼い頃はそれがとても、かっこよく思えたものだが、イオンが祖父を喪い天涯孤独になった時、『たった独りで戦う』姿に、逆の印象を抱くようになった。

 なんと、心細いのだろう。

 雄々しく邪神に立ち向かっていく一人の青年が詠われた英雄譚。しかし、今こうしてユーノスを目の前にして会話をすれば、彼もただの人間に過ぎないのだと思う瞬間がある。


 ユーノスの幸せを願うのは、おそらく彼に自分を重ねているからだろう。イオンはそんな風に考えた。

 たった独りで世界に残され、これから見知らぬ世に立ち向かわなくてはならないイオンには、ユーノスの姿に共感してしまうものがあった。

 だから、ユーノスの破滅的な最期など見たくなかったのかもしれない。

 ユーノスのため、などと表向きは甲斐甲斐しいことを言ってみても、根っこのところは自分自身への救済を求めてに過ぎないと気が付いた。


「……私……、きちんとしなきゃ」


 濡れた裸体に、イオンは気を張り巡らせた。

 そして、昨晩からそれとなく考えていた案を、実行するのも悪くないかもしれないと思い、イオンは身を清めるように、冷水を浴び、意思の宿った目を開いた。



 ※※※※※



 柔らかいソファーに腰かけ静かな夕暮れを楽しんでいた。対面に腰かけるユーノスと、その背後にそっと控える執事のようなセドリック。

 夕食を終え、イオンとユーノス、セドリックがリビングに揃っている時、イオンは覚悟を決めて口を開いた。


「ユーノス様、お話がございます」

「なんだい?」

「ユーノス様の今後のことを、私はずっと考えておりました。セドリックさんのことも」


 その言葉に、ユーノスとセドリックはイオンに真っすぐ向き合った。


「ユーノス様の呪いを解く手立てを探したく思います」

「それは、我々とて長年調査し続けている。だが、どんな呪術師も、邪神の呪いに打ち勝つ手段は思いつかないと言うばかりだ」

「ですが、このままこんな生活を続けていくことは、できないでしょう?」

「……言ってくれるね」

「……無礼は承知しております……。ですが、言わせてください。私は、ユーノス様の呪いを解き、きちんと人生を謳歌してほしいのです」


 少し冷えた空気が三人の間に張り詰めた。

 イオンの踏み込んだ意見に、セドリックは難しい表情を浮かべ、ユーノスは冷徹な視線を向ける。

 ユーノスたちとて、この五十年余り、何もしてこなかったわけではない。寧ろ、徹底的に手を尽くした上で、今に至っているのだ。ここにやって来たばかりの小娘が何を言っても、易い言葉にしか聞こえない。


「何か考えがあるのか?」

「信仰を広めるのはどうでしょう」

「は?」


 イオンの突拍子もない発言に、ユーノスは思わずぽっかり口を開いて形のいい眉をくい、と持ち上げた。


「世界に暮らす人々は、色々なものに感謝をして生活しています。そう言った時、神様にお祈りをするでしょう? 教会に赴いたり、神像に手を組んだり。ユーノス様も神様になるべきお方だと思います」

「……すまない、笑う所だろうか?」

「本気で言ってます」

「……つまり……。ユーノス様を讃える宗教を広める、ということでしょうか?」

 イオンの真面目なトーンに、ユーノスは表情を固まらせているばかりだったが、セドリックがしわがれた表情を動かした。

「はい。ユーノス様の伝承は、まさにそれに至るに相応しいものだと思っています。それに、ユーノス様が神聖化されることで、邪神の呪いにも対抗できるのではないかと思うのです」

「毒を以て毒を制す。神と成って神を治める、ということか」

「面白いお考えですな」


 一見するととんでもない話にも聞こえるが、イオンのその提案に、ユーノスとセドリックは神妙な顔を浮かべ、頷いた。あながち悪いアイディアとも言えないものだと思ったのだ。

 神聖化し、人々からの感謝を集めやすくすれば、『飢え』に対抗できるだろうし、『信仰』の力は明確なエネルギーを生み出し、邪神を払うだけの心力を獲得できるだろう。


「私が、神になるなど、思いつきもしなかった」

「ユーノス様を慕っている方々は、多いはずです。例えば、まだ魔族との戦の後が残る地域に復興支援など行い、そこから『信仰』を根付かせてはいかがでしょうか」


 イオンは自分の田舎での暮らしのことを思い返しながらそんな提案をした。戦争の傷跡はまだ各地に遺っていて、人々の暮らしは改善しきっているとは言い難い。どこもかしこも人手不足で、破壊された村や町の復興に手間取っているところもある。

 そういう場所に復興支援を行うことで、ユーノスへの感謝を獲得できれば、ユーノスに『情』が集まり、邪神の呪いに腹を空かせることもなくなるだろう。

 いつかはその活動でユーノスが神聖化されるほどになれば、ユーノス自身が生ける神、現人神とも言える存在になれるかもしれない。そうなれば邪神の呪いなど、たちどころに己の力で払いのけることもできると思えた。


「……セドリック、どう思う?」

「いい案だと思います。国王も国の復興に手いっぱいで、全ての街や村への気配りが追い付いておりません。宗教を立ち上げ、苦しむ人々を救済するのは世のためにもなるので、この場で燻るよりはよほど試してみる価値はあるでしょう」

「……現国王に、掛け合ってもらえるか。どうせなら国のお墨付きで宗教化して広めたい」

「承知致しました。明日にでも城へと書状を送りましょう」


 イオンの発案に、二人は深々と頷き合い、本格的に動き出すことを決定した。

 イオンは少しばかり緊張した顔をしていたが、ユーノスが柔らかい笑みを返して来た。


「イオン、ありがとう。そんなにも私のことを考えていたとは思っていなかった」

「ユーノス様は、ご自身を捨て鉢に考えすぎだと思います」

「ははは、参ったな。昼のお返しのつもりか?」

「そのつもりです」


 きっぱりと言ってのけたイオンに、一瞬、ユーノスは目を丸くして、それから高らかに笑った。セドリックもその笑いにつられ、品のいい初老の笑顔を浮かべていた。


「イオンよ。お前は本当に可愛いな」

「な、何を言うのですか!」

「いいや、本当に……。好きだよ、イオン」

「…………揶揄からかうのはおやめください」


 恥ずかしくなって、消え入りそうな声になるイオンは、少しだけ俯き気味に、上目遣いでユーノスに抗議の視線を向ける。

 それさえ、ユーノスの紅い瞳が、愛しそうに見つめ返すので、イオンは愛玩動物になったような気持ちだった。


 そして、イオンの発案が、形となって動き出す――。

 未来に向かって、死んだ心が脈打つように、ユーノスの神聖化計画が始動するのであった。



 ※※※※※



 イオンはその夜、寝室で自分の大それた行動に、少しだけ興奮が冷めず眠れぬままに横になっていた。

 ほとんど思い付きからの発言であったが、ユーノスを救いたいのは本当だ。例えそれが自分を重ねた想いだったとしても。自己犠牲の果ての残酷な結末など、イオンは見たくない。


 トントン――。


「……?」


 寝室のドアが静かにノックされた。

 ユーノスだろうかとイオンはベッドから起き上がり、ドアを開くと、そこにはセドリックが立っていた。


「イオン様、就寝中にすみません。緊急の事態となりまして」

「緊急?」

「何者かがミラファルカ島に向かっております。恐らく略奪者かと思いますので、念のため、屋敷から出ないように」

「ユーノス様は?」

「迎撃の支度をしております。ご安心ください。ユーノス様が無法者を撃退してくださいます」


 セドリックの真剣な声に、イオンは完全に睡魔を吹き飛ばした。


「私も何かできることがありませんか?」

「ご安心をユーノス様が全て対処してくださいますよ」

「しかし……相手はどの程度なのですか?」

「船が三艘。おそらく五、六名の連中でしょうな」

「ユーノス様お一人で、六名も相手されるのですか?」

「ユーノス様はお一人で魔族十体を相手にしたこともございます。何も不安になる必要はありません」


 イオンが自分がただ屋敷に閉じこもっているだけなのが不甲斐なく思っているのを察したか、セドリックは大したことではないとイオンに言い聞かせる。


「何より、ユーノス様は不死身です。ですが、イオン様はそうではない。ユーノス様はあなた様が怪我をなさることの方が余程怖いとおっしゃるはずです」

「そ、それは……。そうかもしれませんが」

「ともかく、屋敷の外には出ないように、念のため身辺に注意をしていただければ十分ですので。では、私も支度してまいります」


 念のため、屋敷に侵入された時のための警戒だけはしておくと言い、セドリックは準備を整えるために立ち去った。

 イオンも寝間着姿から着替え、雷駆を握り、窓の外を窺った。


 空には月が上っているものの、黒い雲がぼんやりとかかり、影を生み出していた。

 ざぁざぁという波の音色は変化がないが、時折吹く風の声が何かの動物の鳴き声みたいに聞こえて、不気味だった。


「……ミラファルカ島は国が管理する島だと分かっているのに、略奪者はやってくる……。今の世の中がまだ混沌から抜け出せていないせいなんだ……」


 世界は平和を取り戻したとはいえ、まだまだ各地には生活に苦しむ人がいる。そういった人々は、食い扶持を稼ぐために、犯罪者に身を落としてしまうこともある。

 混沌の時代は、まだまだ癒し切れていないのだと良く分かる。まるで、ユーノスの呪いのように、安寧の裏側にある闇が存在しているのだ。


「……私、ここでじっとしているだけで、本当にいいのかな……」


 イオンは独り立ちを考えて家を出てきた少女だ。それがこのような事態に何もできないでいるのが、己の心と矛盾して葛藤を生む。

 セドリックの言うように、ユーノスに任せた方がいいだろうし、自分が出ていくことで返って迷惑になる可能性もある以上、イオンは悔しく思いながらも、自室で雷駆を握るしかできることがなかった。


 長い夜が始まるのか、それとも一瞬の茶番になるか。

 今のイオンには分からずに、朧月を見つめるばかりであった――。

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