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 どきん。


 どきん、どきん、どきん。


 鼓動が煩い。

 どうしてこんなに心臓が落ち着かないんだろう――。


「……うぅ。眠れない」


 お屋敷での一日目、昼過ぎからは、ユーノスに島を案内されながら、色々な場所に連れていかれた。

 景色のいい砂浜や、神秘的な泉。どこか不気味な洞穴などが、島にあって、探検するだけでも楽しめそうだとイオンは思った。

 そうして夕方には屋敷に帰宅すると、セドリックが夕飯の用意をしてくれていた。イオンはセドリックに申し訳ありません、と手伝えなかったことを詫びたが、セドリックは寧ろ料理の腕を披露したかったと言って、イオンと共に夕食を摂ってくれた。

 ユーノスはそんな二人を眺めながら、食事は摂らないものの、笑顔を浮かべて、団らんの場を作り上げていた。


 それから、お風呂を沸かしてイオンは汗を流した。湯船に浮かべた花びらから、何とも言えない香りがして、イオンは至福の空間に、暫し華奢な体を寛げたのであった。

 心地よいままに、寝室に入り、後は寝るだけという状況で、今に至る。


 いざ、ベッドに横になってみたものの……、どきんどきんと鼓動が煩く鳴り響いて、まったく眠れなかった。

 理由はたった一つ。

 隣の部屋の寝室で眠る、ユーノスのことを考えてしまっていたからだ。


 朝方に聞いたユーノスの言葉が脳裏に何度も反響しているようで、イオンはまるで寝付けなかったのである。

 もし、本当に、ユーノスが愛に飢えて、毎夜イオンの寝室にやってきたとしたら……。


 そう考えると、いつ、すぐ傍の寝室の扉が開くのかと、緊張してしまう。

 思わず耳を澄ませて、隣の部屋の物音に気を配ってしまう自分がいることを隠せないでいた。


「……ごくり」


 もしユーノスがやってきたら、どうしたらいいのだろう?

 逃げるべきか。それとも、差し出すべきか。


(冷静になるのよ、イオン――)

 昼過ぎにユーノスと植物園で会話した時のことを思い出せ、とイオンは揺れる自分の弱い心に鞭を打った。

 雷駆を抱きしめ、涙を流しながらユーノスは、天のキザシに誓ったのだ。イオンのことは心配無用だと。

 彼は本当の英雄で、その心も清らかな青年なのだと理解した。その身に邪神の呪いを受けてはいても、彼の本質は、心優しい一人の青年に何も違いない。

 イオンを襲うかもしれないぞ、と脅して来たのは、イオンの身を案じてのことで、本心ではなかったはずだ。


 だから、ユーノスが本当に寝室にやって来て、イオンの身体を餌食にすることなどありえないのだ。


(そうよ……ユーノス様を信じよう)


 イオンは乱れている己の心を落ち着けるため、一度呼吸を整えて、身体を布団に沈めた。瞼を落とし、闇に身を委ねる。

 ざぁざぁと静かな波の音が遠くからしているのが、なんだか心地いい。このまま寄せては返す波の歌に耳を澄ませていれば、ゆっくりとまどろみが手を引いていってくれるだろうと思えた。


 そうして、イオンはぼんやりと考える。このままではまたいつか、ユーノスは飢えてしまうだろう。世の中の人々のユーノスに対する感謝の念を、もっときちんと届けるような、そういう物が必要なのではないか。教会が掲げる神への信仰のように、ユーノスに対する感謝を忘れないようにするためのそんなものが。

 人々の感謝や、愛情を集めることが主君であるユーノスのためにできる奉仕になるだろう。

 そうしなければ、彼をまたケモノに変えてしまう。あの時のユーノスの悲しみと苦しみに満ちた顔は、もう見たくない。


 イオンは、そんなことを思案しながら、やがて波の揺り篭に揺られる夢を見ていた。心地よい世界で、ユーノスがイオンを抱き、憂いを帯びた瞳で、そっと耳たぶを甘噛みする――。

 やがてその口元は滑るように首筋にたどり着き、ちゅうぅ、と甘い吸引が始まる――。


「んっ――……」


 イオンはその、ぞくりとした夢の中で、思わず声を漏らした。そして、自分が夢を見ているのだと気がついて、瞼を開いた。


 かたん――。


「……?」


 扉が閉まる気配がした。イオンは思わず、寝室の扉を見つめた。

 まるで、今、戸を閉じたばかりのように感じられたのは気のせいだろうか。


(……今の、夢……だよね?)


 自分の夢が見せた錯覚だろうとイオンは思いたかった。

 しかし、首筋に何か、じんとする感覚が張り付いているようで、イオンは身体が熱くなっていることに気が付く――。


 まさか、ユーノスがやってきて、首筋にキスをしていったのだろうか――。

 イオンにはそれが本当にあったことなのか、夢で見た錯覚に過ぎないのか、呆けた頭では判断できなかった。

 結局、その夜はもう誰かが部屋にやってくるような気配全く感じることはなかった。

 ただベッドの中で、イオンは暫し、首元に遺る甘ったるい痺れに、小さく吐息を漏らすしかなかった。



 ※※※※※



 翌朝、イオンは早くに寝床から出て、手早く支度を整えると、雷駆を持って屋敷の外へと出た。

 玄関の正面の開けた広場で、心地よい早朝の空気を肺の中に取り入れて、夜中感じた感覚を振り払う。

 イオンの朝の日課である素振りの稽古だ。祖父から、これは毎日欠かすな、と言われ続けて生活して来たので、イオンにとっては当たり前の習慣になっていた。


 乱されがちな精神に喝を入れようと、イオンは気を張って雷駆を握り、素振りを開始した。


「一、二、三。一、二、三――」


 脚の踏み込みと共に高く持ち上げた剣を振り下ろしてまた掲げなおすのをセットにし、イオンは額に心地よい汗を浮かべて雷駆を振る。


「可愛い声がすると思ったら、随分と早いのだな」

「ユーノス様、お早うございます。……起こしてしまいましたか?」


 イオンが玄関に振り向くと、そこにはラフなシャツ姿のユーノスが扉を背に寄りかかり、こちらを見ていた。


「お早う、イオン。起こされたわけではない、気にするな」

「……あれから、お身体の方は宜しいのですか?」

「ああ、『飢え』のことか? 安心してくれ。まだそう簡単に飢えたりはしないさ」

 はにかんだユーノスは、玄関から歩み出ながら伸びをして朝日を身体に受ける。


「こんな呪われた不死の身体になっても、生ある人間だった習慣で、朝日を見ると伸びをしたくなるというのは、皮肉かな」

「いえ、人であれば当たり前のことです。ユーノス様」

「フフ、私を人だと言ってくれるのか。嬉しいな」

「私には、ユーノス様が同じ人間にしか見えません。だから、ユーノス様自身が、自分を死人だとおっしゃるのは……哀しくなります」


 イオンの率直な言葉に、ユーノスは少しばかり驚いた貌をして、それからニコリと笑んだ。


「ありがとう。お前を悲しませることは、流儀に反するし、私のためにもならないな。私は、イオンから、喜びと感謝を頂かなくてはならないのだから」

「差し出がましいことを申し上げました」

「それにしてもその雷駆を、自分の手足のようによく振り回せるものだ。日頃から鍛錬は欠かさないのだな」

「はい。祖父の教えで剣技の腕にも自信はありますよ」


 イオンは自慢げな顔をして、ユーノスにアピールして見せた。ただの少女ではないぞ、と剣技を示すことで、暴漢などにも対応できるのだと教えて見せた。


「ならば一度手合わせをしてみようかな?」

「ゆ、ユーノス様とですかっ?」


 イオンは思わず、声が上ずってしまった。まるで少年のような眼をしてユーノスを覗き込んでしまう。あの英雄のユーノスと手合わせができるなんて、一生叶わない夢であると思っていたのに、それが容易く実現できてしまうのだから。


「少年のような喜びようだな。今、イオンの感謝を受けて、少し空腹が満たされた気分だ」

「あっ……す、すみません」

「いや、もっと悦ばせたい、と思った」


 そう言うと、ユーノスはイオンの顎を持ち、くい、と上げさせた。

 目の前の美麗な男性の顔に、イオンは思わず赤らんで、視線を外してしまう。


「昼にでもどうだ。ひとつ、手合わせと行こうじゃないか。キザシの孫の腕、私も楽しみだよ」

「は、はい……。よろしくお願いします……」


 そんな試合の申し込み方があるだろうか。まるで淑女を惑わせるようなやり口で、ユーノスは恥じらう少女に剣の手合わせを申し込むのであった。

 イオンは、この脈打つ心音が相手に気が付かれないようにと願って、赤い顔から稽古で出た汗とは違うものをひとつ流した。

 やがて、セドリックが朝食の支度をする手伝いがあるからと、イオンはユーノスに頭を下げて、逃げるようにその場から立ち退いた。


 屋敷に駆けこんでいくイオンを見送り、ユーノスは、小さく独り言ちた。


「――本当に、美味だな。イオン」


 少女の純粋な感謝が思いがけずに味わえた呪われた英雄は、赤い瞳を妖しく細めて笑みを浮かべた。

 喜ばせることで、こんなにも美味しい『愛情』を楽しめるなら、彼女の悦ぶ姿を見てみたい、と思ったのだ。

 これから彼女を悦ばせ、愉しませることで、極上の情を注いでくれるのであれば、ユーノスはイオンに全身全霊で可愛がるのも悪くないと考えた。


 ユーノスは、これからのことを考えると面白くなって、脈動していない心臓が弾む思いだった。

 呪われた人生に浮かび上がった束の間のモラトリズムを最大限に味わうため、死人英雄は、イオンへの愛撫を企て始める――。

 石竹色の長い髪が朝の風になびき、淡く色を輝かせたように見えた――。

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