最終話 新たなる旅立ち
アメリカに行くと、父に宣言してからしばらく経った。
私はヒナの眠っている病室にいる。
今日は私一人。
ほぼ毎日、こうして練習の合間を縫っては見舞いに来るのが日課になってしまった。
ヒナの左膝の包帯はなくなっていた。
「左膝、やはり障害が残ったみたいで以前のようには曲がらなくなったらしい。でも、運動ができないほどじゃないってお医者さんが言ってた」
それでも、以前と同じように、ファイターとして活躍することは簡単ではないと言われた。
私は日課である近況報告をした。
「ヒナのお父さんとお母さんも元気、だと思う。たまに病院で会う。私は恨まれても仕方ないのに、二人は見舞いに来る私にありがとうと言ってくれる」
「前に言ってた話のつづきだけど、美香さんはプロを目指すって」
美香さんはプロになるかどうか迷っていた。
でも、この間、お見舞いでばったり会ったとき、プロを目指しますとはっきりとした口調で言っていた。
沙世さんに聞いたけれど、以前の美香さんは人の顔色を気にしておどおどしていたらしい。それが、ヒナの試合を間近で観てから、自分の言いたいことをはっきりと口にできるようになったという。
きっとヒナの勇気が伝染したのだと思う。
麗艶が言っていたけれど、ヒナはみんなにプラスの力を与える、というのは本当のようだ。
そうだ。麗艶とジュリのことを言わなければ。
「麗艶とジュリがストロー級のタイトルマッチをすることになった。私が返上したベルトを懸けて闘う」
王座を返上しても、原田代表はさほど残念そうではなかった。
私がアルティメットフォースで勝てば、RFCの評価も上がり、日本の格闘技界も盛り上がると考えているからだろう。
普段、話し慣れていないから疲れを感じた。
でもひと呼吸おいて、再開した。
「この間、ジュリに会った。ジュリから聞いたけど、青田さんは就活の準備で忙しいらしい。でも合間を縫って練習に来てるって。堀山さんは別居中だった家族と仲直りして一緒に暮らし始めたって。練習も週二回でしてるみたい。米田さんはRFCに参戦をはじめて現在二勝一敗と勝ち越してる。そして、ジュリとの結婚を考えてるらしい。麗艶とのタイトルマッチで勝ったタイミングで、ジュリが会場で宣言するというプランらしい」
話の途中で、ヒナがかすかに動いた気がした。
気のせいだろうか。目は閉じたままだ。
淡い期待を抱いたが、気のせいだったようだ。
話を続けることにした。
「私はあまり気を遣う話し方ができない。だから、この間、米田さんに単刀直入に聞いた。ジュリのどこがいいんですかって。もちろんジュリのいないときに。米田さんも正直に答えてくれた。最初は顔だった。でもいっしょに練習するうち、ガサツななかにも仲間へのやさしさや思いやりが垣間見えて、何より自分にまっすぐで正直なところが好きだと言ってた。たぶん、米田さんはジュリに本気なんだと思う。二人には幸せになってほしい」
私のお父さんとお母さんは離婚しているし、幸せな夫婦というのが想像できないけれど、きっとそれは良いものなのだろうと思う。
そうだ。お父さんとお母さんのことも話そう。
「私のお母さんと私は、たまに会ってる。でも金の無心はしてこなくなった。お父さんにきつく言われたのもあるだろうけど、きっとお金だけが目当てで私に近づいたわけじゃないんだと思う。そう思いたい。私のお父さんは、新しいジムの運営で大忙し。練習生、最初五〇人くらい集まったんだけど、今では四人。お父さんの練習、厳しすぎるらしくてみんな辞めていってしまった」
そんな父とも、もうすぐお別れだ。
「私はお父さんとも日本とも離れ、アメリカのUSAトップチームに行く。最大手の総合格闘技ジムで、限られた者しか入門の許可が下りないけれど、私はRFCの王者ということで、入門試験を免除された」
渡米のための手続きや準備がある。
今日はヒナに別れを告げに来たのだ。
その前に言いたいことがあった。
「ときどき、思う。意味はあったんだろうかって。私たちが出会ったこと、格闘技をしていること。そしてあなたとのタイトルマッチ。こんなことを思うのは、練習に身が入っていないからだって、父に怒られたけど、考えてしまう。私は頭が悪いけど、悪いなりに考えてきた。それを話すね」
私は大きく深呼吸した。
「私は、息を吸うように格闘技をしてきて、それが当たり前だと思ってきた。でもこうして目の前で眠っているあなたを見て、決して当たり前じゃないんだといまさらながら気づいた。格闘技は熱くて激しくて楽しいけど、怖さや痛み、苦しみもある。それでも続けてこれたのは、格闘技が好きだから以外にないのだろうけれど、それもいつまでも続けられるわけじゃない。いつかは引退する日が来る。選手としていられる時間は長くないけど、一生懸命頑張って殴り合って、傷つけあって、終わったら笑顔で健闘をたたえ合う。その時間は永遠の宝物になると思う。その宝物は私たちが、あるいは試合を観てくれたファンたちが挫けそうになったとき、希望の光になってくれるんじゃないかって。それがあなたと試合をした意味だったんだと思う。結果としてあなたを眠らせることになってしまって、それはつらいけれど」
つばを飲み込み、話を続けた。
「私にとっての希望の光はもう一つある。それは、ヒナ、あなただよ。あなたに出会っていなかったら、私の人生は寂しいものになっていたと思う。あなたと愛に出会う前の私は、殴り合う以外の人との関わり方を知らなかった。人はみんな敵だ、くらいに思っていた。でもそうじゃなかった。世界は私にも優しかった。それにね、ヒナ、言ってなかったことがある。恥ずかしいけれど、言うね。お父さんの手術のとき、いっしょに待合室で話をしたね。そのとき、付き合っている人がいるか、という話が出たとき、男の人から声をかけられても断ったって言ったよね。あれは、格闘技に集中したいというのもあったけど、それ以上に、私には他に好きな人がいたから」
私は座っていたパイプ椅子から立ち上がり、ヒナに近づいた。
「ヒナ、私はあなたが好き! 他の誰よりも」
意を決して、さらに近づき、私は眠っているヒナの前で、かがみ、唇を重ね合わせた。
静かに眠るヒナとは対照的に、彼女の唇は熱かった。
唇を離した私は、立ち上がる。
名残惜しいけれど、行かなければ。
「行ってくるね、ヒナ。必ずアルティメットフォースのチャンピオンになって戻ってくるから。私が戻ってきたら、あなたが目を覚ましたら、また……」
最後まで言えなかった。
私は、王者になったときにもらった勝利者トロフィーを病室のテーブルに置いた。
償いではない。
ただ、ヒナに持っていてほしかった。
ヒナになら、私の勲章を預けられると思ったのだ。
私は背を向け、病室を出ようとした。
そのとき。
「いって、……らっしゃい」
空耳ではなかった。絞り出すような、か細い声。
振り返ると、病院のベッドで横になっているヒナの目がうっすらと開いていた。
そしてゆっくりとぎこちなく私に笑いかけた。
「ヒナ、……ヒナ!」
テーブルとぶつかりトロフィーが床に落ちた。
かまわずに私はヒナに駆け寄った。
そしてヒナのそばでうずくまり、すがるように泣きじゃくった。
ヒナの口がゆっくりと動いた。
「アスカちゃん、必ず、チャンピオンに、なってね」
私は泣きながら何度もうなずいた。
「私も、格闘技を、まだ、続ける。そしていつかまた……」
私は涙で顔を濡らしながら答えた。
「うん、いっしょにがんばっていこう」
可能性はある。
希望もある。
私たちのなかに。
<了>
これにて完結です。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。




