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ふたりの散歩道  作者: 須藤
Season 1 埼玉編
6/6

幕間:「シークレット・コード」

 九月も後半に入り、オフィス街を抜ける風にはわずかながら秋の気配が混じり始めていた。とはいえ日中はまだ気温が上がるため、巨大なオフィスビルの空調は微かに冷たい風を送り出し続けている。


「水野さん、よろしいですか? こちらのデザイン案ですが、クライアントから少し修正の要望が入っていまして……」

「わかりました。構成の基本軸は崩さず、タイポグラフィの配置で空間を持たせる形で再調整しましょう。明日の昼までにはラフを上げます」


 三階の、制作部とデザイン部が共存しているフロア。PCのモニターが放つ均質きんしつな光の中で、水野凛みずのりんは無駄のない動作で後輩からの相談をさばいていた。

 凛の今日のよそおいは、糊のきいた真っ白なスタンドカラーのブラウスに、ネイビーの薄手カーディガン。冷房対策と季節の変わり目を意識したそのコーディネートは、彼女の細身でしなやかなシルエットをさらに引き立てていた。


「ありがとうございます。水野さんはいつも冷静で助かります。僕なんて、急な修正依頼が来るだけでテンパっちゃって」

「仕事ですから」


 淡々と短く返す凛の横顔を見て、後輩は敬意と少しの緊張をにじませて自席へと戻っていった。


『冷静』『隙がない』『感情が読めない』。

 社内での「水野凛」に対する評価は、概ねそのあたりに集約されていた。凛自身、そのように見られるための仮面を被って、これまでそつなく立ち回ってきた。……立ち回ってきたはずだった。


 (……冷静、か)


 マウスを操る右手の指先を見つめ、凛は内心で自嘲じちょう気味に息を吐いた。

 彼らが今の凛の頭の中を覗き見たら、さぞかし滑稽こっけいに思うだろう。仕事のスケジュールやデザインの構図よりももっと深い、頭のど真ん中を占拠しているのは、つい二週間ほど前の「秩父の夜」の記憶だった。

 さまよう凛の手を握り返してくれた手の温もり。ほんの少しの間握っていただけなのに、今でもあの時の感触が蘇る。


 仕事中であっても、ふとした瞬間にあの時の匂いや温度が蘇り、凛の胸の奥を甘く締め付ける。心の奥底に封印していたはずの、強すぎる感情が眠っていたことを思い出し、凛自身が一番戸惑っていた。その熱を必死に理性の鎖で縛り付けているからこそ、表立ってはより一層「冷たい」ように見えているだけなのだ。


「あれ、水野さん? 『観音様』のポスター、配色変えたんですか? ……この暖色の差し色、百五十年目の夜明けって感じでいいですね。さすが水野さん」


 同僚の小野里おのざとさんが、モニターを覗き込みながら感心したように漏らした。


「えっ……あ、……そう、かな」


 凛は、自分の指先が選んでいたパレットを見て、鼓動こどうが激しくなるのを感じた。

 ディスプレイに広がっていたのは、深い闇のようなネイビーを侵食しんしょくする、柔らかなミルクティーのグラデーション。それは、冷たい土の下で眠る観音様の孤独を表現するはずの画面に、無意識に混ぜ込んでしまったあの子の面影だった。

 プロとしてあるまじき混同。仕事の記憶が、一瞬だけ白く波打つ。慌てて他のページも見直したが、幸いにも致命的なミスはこれ一枚きりのようだった。


「やっぱり……少し調整するわ。今のままだと、少し甘すぎる気がするから」

「そうですか? 僕はこれ、すごく好きですけど」


 小野里さんの言葉を背中で聞きながら、凛は逃げるように席を立った。

 コーヒーでも飲んで、少し頭を冷やそう。

 凛は席を立ち、フロアを歩き出した。


 四階とをつなぐ吹き抜けの階段を登る。

 フロアの外側、大きな窓際の共用の休憩スペースの向かいに、ガラス張りのパーテーションに仕切られた総務・経理部のエリアがある。


 凛は、決して足を止めることはしない。ただ休憩スペースへ向かう通りすがりの人間として、視線だけを滑らせた。

 ——いた。


 オフィスの中ほどにあるデスク。あの子――高柳結衣たかやなぎゆいは、受話器を耳に当てながら何度も小さく頭を下げていた。他部署の人間と話しているのだろうか。穏やかな表情で頷いている。

 今日の結衣は、淡いベージュのトップスに、ミルクティーのような色のフレアスカートを合わせている。少し前まで着ていた夏服とは違う、ふんわりとした秋の装いが、彼女の持つ柔らかい雰囲気によく似合っていた。

 受話器を置いた結衣が、小さく安堵あんどの息を吐いて伸びをする。少し不器用で心配性なところがある彼女が、あの場所でどれほど一生懸命に自分の役割を果たそうとしているか、凛にはよくわかっていた。

 彼女がそこで微笑むだけで、周囲の空気が数度上がったように和らぐのが見える。

 経理部の社員たちとも馴染んでいる。数ヶ月前の頼りなさはどこに行ったのやら。少し馴れ馴れしい男性社員が結衣に話しかけに行っているのも、ガラス越しに見て取れた。確か斎藤君だっただろうか。当然のことながら結衣は誰にでも優しく接している。ガラス越しに眺める斎藤君と笑顔で話している結衣の姿に、なぜかちくりと胸が痛んだ。


(……私だけが、知っているのに)


 凛の胸の奥で、他の人が知らない結衣の一面を知っている優越感ゆうえつかんと、今まさに笑顔を向けられている相手への、どう言い表していいかわからない感情が渦巻いていた。

 彼らは結衣の表層の温かさしか知らないはずだった。ふたりでの旅で見せた、あの笑顔も、手の温もりも誰も知らない。自分だけが知っている。


(あれ? なんでこんなに落ち着かないの?)


 最近導入された、コンビニにあるようなコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを手に、窓際のテーブル席に座った。濃いめに淹れたコーヒー。一口ずつゆっくりと味わう。


(そういえばデザインの修正依頼って、どうしたっけ? 明日で良かったよね)


 頭の中を整理しようとするが、なかなかうまくいかない。  

 落ち着かせるためにここに来たのに、かえって落ち着かない。コーヒーを飲み干し、凛は席を立った。


「あ……」


 書類の束を抱えた結衣と、不意に鉢合わせた。

 距離にして、わずか数十センチ。

 廊下には、立ち話をしている営業部の社員や、すれ違う他部署の人間が何人も歩いている。完全にパブリックな「会社」という世界。


 結衣の丸い目が、わずかに見開かれた。

 しかし彼女は、抱えていた書類を胸に抱き直すと、少しだけ背筋を伸ばして「他部署の先輩」に対する完璧な礼を取った。


「お疲れさまです、水野さん。……資料のお届けですか?」

「……高柳さん、お疲れさま。いえ、休憩の帰り」


 凛もまた、抑揚を抑えた低い声で、感情を一切乗せずに言葉を返す。はたから見れば、関わりの薄い、ただの先輩と後輩の挨拶にしか見えなかっただろう。

 凛はそのまま、結衣の横を通り過ぎようとする。

 お互いの肩が、すれ違う。


 その、ほんの一瞬だった。


 会釈して顔を上げた結衣の瞳と、至近距離で視線が重なる。

 緊張で少し強張っていた彼女の表情が、ふっと緩んだ。それは計算されたものではなく、目の前に凛がいることに、心からの安心を覚えてしまったかのような、無防備むぼうびで柔らかい微笑みだった。

 資料を抱える彼女の手が、持ち直す拍子にわずかに震え、凛のブラウスの袖口をかすめる。

 触れたか触れないか、錯覚かと思うほどのわずかな接触。しかし、そこに確かに結衣の熱があった。結衣は「あ、」と小さく唇を動かし、慌てて指を引っ込めると、顔を伏せてそそくさと凛の横を通り過ぎようとする。


「……週末、楽しみにしてます」


 すれ違う瞬間に落とされた、消え入りそうなほど小さな声。

 凛が何かを返す前に、結衣は顔を真っ赤に染めたまま、抱えた書類をさらに強く握りしめて、逃げるように経理部へと戻っていった。


 自席に戻った凛は、モニターを見つめたまま、微かに震える指先を固く握りしめた。


 水野凛は完璧な仮面を被っている。誰の目にも、先ほどまでと同じ「冷静」で「感情の読めない」クールなデザイナーのままだろう。

 だが、その仮面の下では、心臓が痛いほどに脈打みゃくうち、顔には隠しきれない熱が朱となって昇り始めていた。


(……なんでこんなに胸が苦しいんだろう)


 袖口に残るわずかな引力の余韻よいん

 誰も知らない、ふたりだけに通じる秘密の合言葉(シークレット・コード)

 あんな風に笑みを向けられて、静かでいられるわけがない。


(今週末。……か)


 あの子はなんで、こんなにも私の心を揺さぶるんだろう?

 このままずるずるといっていいの? また傷つけてしまうんじゃないの? また壊してしまうんじゃないの?

 心の奥底に頑丈な鎖で封印していた気持ち。いつの間にか鎖が緩んでいたのだろうか? 凛は静かに息を吐く。


 でも今の凛は、秋の空の下、彼女とふたりで歩く『次の散歩道』が、待ち遠しくて仕方がなかった。



―― Season2 開幕 ――


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