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【夜の海03/泳ぎ流れてその果てに】



 銀海流に囚われたシズハと、彼をいだいて抗うテンヌ。

 無道丸はすでに遠く、位置が定かではない。

 すでにあたりには灯りひとつ見えない。底の知れない大海原で、まさしく寄る辺なきふたりぼっちだ。


「身体が動かない……」

 すでに泳ぐ力の限りを泳いだシズハは、全身がぐったりと重い。テンヌが抱いていなければ、見る間に銀海流に囚われて沈んでいくことだろう。


 テンヌはしばらく、シズハを片手で抱いたまま、波に抗い泳いでいた。方角を感知し、本拠たる無道丸まで戻ろうとしていたが、じきにそれが悪手であると知る。


 海流の流れはあまりにも強いのだ。いくら膂力りょりょくと持久力に優れるテンヌといえども、腕ひとつを動かせぬままに抗えるものではない。

 シズハの身には、異常なほどに水底に引き込まれる力が働いている。テンヌにとっては、実際の重み以上の重荷として働くのだ。


「ええい、らちが明かぬのう!」

 テンヌは水中で身体を回し、自らの身体のうえへとシズハを持ち上げた。背泳ぎするテンヌに、シズハが横たわるような姿勢だ。しばしの間、身体を沈ませないことだけに注力して波に任せる。

 シズハは、テンヌのサラシを巻いた胸を枕にする形となった。本当なら狼狽のひとつもしようが、それさえも自分の身に起きたことでないかのように朦朧もうろうとしている。水に濡れるまぶたが瞳の中ほどで上下していた。


「シズハよ、気を確かにもっておるか!」

 水を掻き、沈む身体を浮かび上がらせながらテンヌは呼びかける。


「ごめん、きみがあったかくて……眠いんだ」

「しゃんとせぬか! 腹の上で死ぬには気が早い!」

 彼女の言葉でさきほどまで直面していたそれを今一度意識し、シズハの意思ははっきりとした。

 妹の下へ帰るためにも、テンヌと再び向き合い、真剣に対話するためにも、眠ってはいられない。

「そうだ、まだ早い……!」


 シズハが顔を上げると、なにか首の後ろに引っ張るものを感じた。三つ編みがなにかにかかっている。

 その先とはテンヌの髪だった。白い髪のひと房が、シズハの黒い三つ編みと絡み合い、結びつけられている。テンヌはいたずらっぽく言う。

「これで一蓮托生よのう? この海原で、ひとりにしてくれるなよ?」

「いいね……うん。それがいい」

 安直なほどに物質的なつながりは、今この時において何より心のつながりを強くした。


 しかし。状況としてはなにひとつ光明がない。

 波に揺られるばかりでは、いつか力尽きて溺れる。それは遠くない未来だ。


 シズハは周囲に視線を巡らせるが、月明かりではなにも見えない。船影も島影も漂流物も、なにもだ。せめてなにか浮力の助けになるものがないかと考えた時、ふと思いついた。

 命を預けている相手が、生まれ持った祝福のことを。

「ねえ、氷は水に浮くよね。小舟くらいの大きさのを作り出せない?」

「舟だと? ……簡単に言ってくれるのう。いやしかし、よいことを考えたな!」


 テンヌの手首、腕輪の如き紋様が薄く光を放つ。

 彼女は仰向けになったまま、身体の周囲の海水をゆっくりと凍らせていく。


 海の中で揺れるたっぷりの白髪を媒介にして、背面に氷の塊を作り出した。彼女の身体の下で浮子フロートの役目を果たしている。その身をいかだにしたようなものだ。

 氷を避けて足を上げたシズハは完全に海水から離れ、テンヌの腕の中だ。冷気によってシズハは凍えたが、触れ合うテンヌの肉体はむしろ熱が高まるようだ。自然なうちに、よりいっそう身を寄せ合っていた。


「この祝福、この大きな骨肉、なかなかのものじゃろう?」

「なかなか……なんて言葉じゃ、まったく足りないかな」

 祝福を受けて大事を成した勇ましきもの。まさにおとぎ話となるような存在に助けられているのだとシズハは自覚する。


 それからどれほど流されたのか。

 依然として銀海流はふたりを揺さぶり、捉えようとする力を弱めなかった。いくら浮力を得たと言っても転覆してしまえばまた体力を削られる。姿勢を維持するために、終わりの知れない努力が必要だ。

 命永らえさせるために、ふたりは波を受け続けて懸命に耐えた。


 シズハは、うねる波の合間に、身を寄せるテンヌの心拍を感じ取る。

 鼓動は早い。動き続けてきたがゆえか、置かれた状況ゆえか。


 脳裏にいくつもの不安がよぎる。いつまでこのままなのだろうか。海中から巨大な鮫やあるいは竜に襲われはしないだろうか。日が昇るまであとどれだけだろうか。あるいは上ったとして、水平線のどこまでも、なにも見えなかったら……


 不安に駆られて周囲を確認せずにはいられなくなり、身を起こしたとき、シズハは気づいた。ほんのわずかに空が白んでいること。

 だが水平線の右前方は()()()()ところがある。黒々としてなにも見えない。星も見えない。それはすなわち……


「テンヌ、島の影だ!」

「なに! ……いまのままでは見えぬ。距離はどうだ?」

 テンヌは髪を凍り付かせているため首の動きに自由が利かない。


「わからない。けど僕から見て右手の方角だ。このままの向きで流されると、過ぎ去ってしまう!」

あい分った……ならばここがギリギリ、踏ん張りどころのようじゃな!」


 途端に氷の力が解除された。周囲の海水が急速に溶けて、ふたりは海中に没する。

 テンヌはシズハを片腕に抱いて浮上し、水平線の向こうの巨大な影をしかと見た。


 そして猛烈な勢いで泳ぎ出す。これまで温存してきた、渾身の力で全身を動かしているのだ。シズハは必死にしがみつき、息継ぎをしながら襲い来る水の抵抗に耐え続けた。


 そしてある瞬間から、急に背を押すような水の流れが生じた。

 島に近づいたため、海底の岩礁によって海流の働きが変わったのだ。


 泳ぎ、流れて、もうひと掻き、もうひと足掻あがき、もうひと頑張り……それが続いたある瞬間。


 ずん、と重い感触がふたりの身体に響いた。


 テンヌの足が、海底の砂を踏んだのだ。


「ふはあ……! 到着だ……愛しの大地よ」

 テンヌはシズハを抱きながら、一歩一歩砂を踏みしめて、ついには浜辺へと踏み入った。


 周りを岩場に覆われた、小さな浜辺だった。

 桟橋も釣り小屋も、人の気配はない。

 天変地異の地殻変動でひとの領域から分断された、地図にない断島だと思えた。


 シズハはそっと浜辺に下ろされ、昨日昼振りに地に足をつけた。

 そびえたつ恩人を見上げて言う。

「テンヌ、本当にありがとう」

「なァに。言ったはずじゃ。誇りに……かけて……」


 テンヌは笑おうとするが、荒く息をついて言葉がとぎれとぎれだ。表情に力がない。

 そして、髪以外の全身が真っ赤だ。もともと血色で桃色を帯びているが、もはや紅に近い。全身運動で身体中の血という血が急速にめぐっているのだ。

 そばにいるだけで熱を感じ取れるほどだった。


「しかし……いささか、疲れた……のう」

「テンヌ、だいじょうぶ? ……わあ!」

 今度はテンヌの身から力が失われる番だった。巨躯がぐらりと揺らいだかと思うと、砂地に膝をついてシズハへ覆いかぶさるように倒れてきた。

 もろとも転びかけたところを、シズハは必死に支えた。柔らかく、熱く、重い。彼自身も今にも寝転びたいような疲れだったが、決して離しはしなかった。


 彼女はすでに意識を失っていた。

 だらりと垂れた腕を見ると、手首にあった祝福の紋様が薄れてほとんど消えている。

(そうか。祝福の力も、人間の頭と体を使って行うひとつの運動。祝福と体力の両方に限界が来ていたのか……)


 と、その時。

 異変が起きた。


 テンヌの全身が、じんわりと光りだした。祝福を行使するときの光と同じようだった。

 だが氷が作られるわけでもなく、そもそも彼女自身が意図して力を行使しているのではない。


 光は徐々に徐々に強くなっていったが、眩いほどの強さになった刹那、急速にそれが弱まった。


「え? え!? テンヌ……!?」

 シズハはとまどいの声を上げた。

 光が弱くなっていくほどに、彼女の肉体が小さくなっていくのだ。

 雪が融けていくかのようだった。

 重みも次第に軽くなり、シズハは今度こそ平衡を崩し、尻もちをついた。


 彼に覆いかぶさるように倒れこんだその女性――もとい、少女・・

 その顔が、シズハと鼻先が触れそうなほどの目の前にきた。


 シズハその顔を確かに知っていた。

 真白な髪、アルビノと思わしき白い肌。

 港で追われているときに匿ってくれた、あの麗しい少女だった。


例の一件→3話にて

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次回予定:6/7夜。(仮)

今回で一区切り。次回から新たな章となります。


特定の嗜好ヘキをお持ちのかたは今回ラストの展開に思うところがあるかもしれませんが、もうちょっと見ていてほしい。

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