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【夜の海01/渇】


「なんであんなこと言っちゃったんだろ……」

 船べりに肘を乗せ、シズハは額に手を当てていた。

 妙な興奮と片意地とを、後悔していたのだ。急にめそめそとした沈んだ気分になっていた。


 気を静めるために夜風に当たるつもりだったが、肌に触れる風はいまいちぬるい。どことなく濁っているような気さえする。

 もとより、爽やかで清涼な風だったとしても今の彼の慰めになったとは言えないだろう。

 なにしろ苛立ちの源は自身の腹の底、暑さと冷たさが渦を巻く不愉快さなのだから。


 しばらく動く気もおこらず肘をついていたが、ふと視線を移すと前方に銀海流が見えた。


 月と星との空に、対抗して自己主張するかのように、海面にほの明るい銀が閃いている。

(不気味だ。静かで暗い海の方がどんなに美しかったか。昔はこんなものはなかったっていうのに)

 故郷に帰れば海流のはずれ。見ようと思えば光のない海を見ることもできる。シズハはとにかく銀の光がわずらわしい。腹がうずくのだ。


 ふと、借り物のブラウスをまくり上げて胃の辺りを見る。

 いつも通りの、肉付きの薄い腹だ。外見からは秘宝エリオンどころか、スープを三杯も飲み、たくさんの料理を食べたようには到底見えない。


 到底料理を食べたにも拘わらず……という点では、それだけではなかった。

 シズハは思わずつぶやく。

「喉が渇いた……」


 喉の奥に、ちりちりとした感覚がある。何か飲み物をたっぷりと喉の奥に流し込みたい衝動に駆られた。薬湯を振舞われたというのに。

 シズハの目線は自然と海へ向かった。


 夜空の下で輝く水へと、忌々しいのに飲みたいような。奇妙な衝動が起こる。

 あの海へ飛び込んで水をたらふく喉に流し込めたら、どんなに心地がいいだろう? そんな考えが浮かぶ。


(いいんじゃないか? いまから飲みに行ったって、そう、川遊びと変わらない――いや、川の水をそのまま飲むなんてことはダメだ――そうじゃないだろう? 目の前の渇きをどう潤うか。それが一番――)


 ――と、その時。

「おわっと!」

 男の声と、タルの転がる音がしてシズハはとっさに振り向いた。


「いてて……ああ、くそ。しょうもねえ」

 シズハの視線の先にいたドジな男、それはロウギだった。船内から上がってきたのだ。


 それまでぐるぐると頭の中を渦巻いていた、靄のかかったような思考はどこへやら。シズハは妙に冷静になって思わず言った。

「え……なに? タルに引っかかってこけたの?」

「ああ~~……そうだ。悪かったなあ、静かなところを邪魔ぁして」


 無精ひげの男は、よたよたと立ち上がってタルをもとの位置に戻すと、シズハの隣で船縁に身体を預けた。ぐったりと投げ出すような仕草だ。

 シズハの鼻を、酒の臭気がくすぐる。よく見れば、男の手には懐に収まるほど小ぶりな酒瓶が握られているのだ。


(うわー、酔っ払い……どうしよう。ほっとくと今度こそひどく転んで怪我をしないだろうな)

 眉根を寄せるシズハとよそに、ロウギは機嫌がいいのか悪いのかよくわからない物言いをする。


たかと思ったわ」

「うん? なにが?」

「お前がよ。女の船幽霊が佇んどるんじゃないかとよう」


「幽霊? ……この船、そんなのでるの?」

「俺ぁ一回見た。真夜中の見張りの時、肌のしろ~い乙女が、廊下を横切っていくのを……それと見間違えたわ」


(やたらに絡まれるよりはいいけど、どうにも扱いにくい酔い方だ)

 からかわれているのかといぶかしむシズハに向き直り、ロウギはろれつの回らなくなりながら、なおも言う。


「お、前は、アレだ。カシラが言っておったぞ。あの~~、アレだ、と。あんなふうだ、と。褒めておったわ」

「……へー、なんて?」


「おー、思い出した。『月が沈んで魚が落ちて、がんは恥じらい花も閉じる』だ!」

「はあ……それはどうも」

 それを言うなら「沈魚落雁閉月羞花」。美女の形容だ。

 酔っ払いゆえか聞きかじりゆえか。ちぐはぐである。


(どこからそんな言葉を引っ張り出してきたんだ?)

 シズハはさらっとやり過ごそうとしたが、ロウギは急にうなだれた。


「選ばれるやつってのは、まったくこういうもんだ」

 へえ……とため息をつく。


「……選ばれる? 僕が? 逆でしょ」

「選ばれたじゃあねえかあ。おカシラによお」


「僕はそういうんじゃない。選ばれた人ってのは、僕の妹とか、きみのお頭とか……そういう、生まれた時に何かを持ってた人のことだ」

「ばかいえ。生まれた時に持っててそれがなんだと。例えばよ、はじめっから耳が聞こえんとか、足を満足に動かせんとか、そういう生まれの者たちがいるだろう?」


「……いるね、確かに。生まれた時からそういうものを背負った人が」

「生まれついてなんぞいいもん持ってたってのはよ、それの逆方向・・・ってだけだ。本人自体にいいも悪いもあるかい」


「じゃあ、ロウギの言う選ばれるやつって、なに?」

「そらァおめえ、生きてきて培った『行い』で見出されたやつだろ。お前がそうだっつーんだ。おカシラがこんなにだれかに熱上げることなんてないんだぞ。ましてや、決闘で負けることもな」


 シズハは言葉に詰まった。いざこうしてほかの人の口からテンヌの事を聞かされ、後悔が募る。


「お前はうちのおカシラのことをよくわかっておらんようだ。すこおし、昔話をする。聞けい」

 ロウギは急にしゃんとして言う。

「この船にいるやつらは、ほとんどが落ちこぼれだわ。ぶっちゃけ棄民だ」

「棄民? この船のひとたちが?」


「ああ。俺らの民族、お前たちのいう『北蛮』は、狩りで身を立てる土地柄だがよ、天変地異のあとはどこも土地が不安定で獲物が減るわ、よそとの交易もガタガタだわと。これまでのままじゃ食っていけんと。で、土地を出ていくように、長から言い渡されたやつらがいたわけだ。外貨獲得ガイカカクトクだのなんだのと理由をつけてな。罪を犯したことがあるとか、一族の取り決めに従わなかったとか、狩猟の腕が悪いとか、そういうやつらばかりが振るい落とされた。まあエイラのやつみたいにそんなのとは関係なしにやってきたのもおるが」


 黙って話を聞くシズハにロウギは笑って付け加える。

「ちなみに俺ぁ、狩りの腕が悪く体力も劣る、筋金入りの落ちこぼれよ。ふはは」


 ずきりとシズハの胸が痛んだ。からっとした自虐は、どうしようもない立場だったことの表れだったと感じ取ったのだ。

「で、だ。そんままばらばらに、落ちこぼれだの罪人だの、里と折り合いのつかないのが乱世に放り出されそうになったわけだ。そこで待ったをかけたのが、長の娘のおカシラよ。てんでんばらばらに放り出されて野垂れ死ぬはずだったのを、船ひとつに収めてまとめ上げて、それどころか先頭に立って海に漕ぎ出そうってなもんよ。」


 ロウギは肩を組むようにしてシズハの首に腕を回し、ぐいぐいと力を入れる。

「おまえはよ、そのおカシラに選ばれたんだぞ! おいこのやろうめ!」


 抜け出そうと思えばすぐに抜けだせたが、シズハはされるがままだった。ロウギから気安い洗礼を受けながら、ひとつの決意をしていた。


(もう一度……話をしなくては。テンヌと)


 あきたロウギがシズハを開放し、酒瓶のフタに指をかけようとしたとき、櫓で見張り番が声をあげた。

「おいロウギ! ちょっといいか」


 なんだなんだとロウギが櫓を見上げると、見張り番は言葉を続けた。

「お前のいる右弦のうしろのほうから、海流でなにか流れてくる。このままだとこっちにぶつかりそうだ。確認してくれ」


 ロウギが船縁から身を乗り出して言われた5時の方角を見る。シズハもつられて身を乗り出した。

 流れてくるのは小舟だ。よくは見えないがから舟ではなく、なにかがある。

 やや山形のシルエットをしているのだ。


「なんぞ舟に載っとるな。布がかかって、だれぞ貨物を取りこぼしたか?」

「人が乗っているかも」

 シズハはわが身に起きたことからそんな考えが浮かぶ。


 ひとたび銀海流に乗ると、あっという間に物品は流れる。ちょっとした手違いでも起きれば小舟はするすると攫われていくのだ。

 シズハが追手から逃げて海に飛び込もうとしたときも、海流の中でこういう小舟や漂流物を見つけることに賭けた部分もあるのだった。


「モノにせよ人にせよ、いっちょ回収してみるか」

 ロウギは、先端にかぎ針のついたロープを持ち出してきた。


 停泊している無道丸に、小舟はみるみる迫ってくる。海流のはずれの方とはいえ、小舟は勢いがあった。

 そして、無道丸の横っ腹に小舟がぶつかる――


次回更新:5/16夜 (仮)

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