第31話 運命の旅立ち
その日の夜。
暖炉の火がパチパチと音を立てて燃える、暖かな光に包まれた室内。
夕食を終えたファリンは、今日の出来事を母親に楽しそうに報告しながら、他愛もないお喋りに花を咲かせている。
母と娘の、穏やかで幸せそうな時間が流れている。
そんな光景を、俺――キリス・コーツウェルは、相変わらず窓の外からそっと覗き見ていた。
吸血鬼の視力は、暗闇の中でも昼間と変わらないほど鮮明に物を見ることができる。
『暗がりから部屋を覗き見るとか、ホラー映画の殺人鬼みたいで草』
『キリスたん、ストーキングも板についてきたな……もはやプロの犯行レベル』
『そろそろ通報されるぞw』
コメント欄では、俺の行動に対して、相変わらず辛辣な意見が飛び交っている。
分かってるっての! 自重してるつもりだけど、どうしても彼女のことが気になってしまうんだから仕方ないじゃないか!
「……ふふ。今日も色々なことがあったなぁ」
「ファリン、もう寝なさい。明日も早いんでしょう?」
「ううん、お母さん。ちょっと聞いてほしいことがあるんだ。……あたし、やっぱり、冒険者になるって決めたんだ!」
ファリンの瞳に、強い決意の色が宿った。
その言葉に、母親の表情が曇る。
どうやら、この話題は何度も繰り返されているようだ。
「あんた……また、そんな話をして……。何度言ったらわかるの!?」
そう言って母親は俯き、悲しそうな顔をする。
ファリンは、そんな母親の気持ちを知ってか知らずか、キラキラとした瞳を輝かせ、興奮気味に語り始めた。
「だって、お母さん! きっかけがあったんだもん! 数日前に、村に立ち寄った旅の吟遊詩人のお兄さんが、広場で歌いながら、こんな物語を語っていたんだよ。『外の世界では、恐ろしいモンスターが猛威を振るい、村や街が次々と襲われている。人々は、救いを求める勇者の出現を、今か今かと待ち望んでいるんだ』って……! あたしが、その勇者になるんだ!」
ファリンの口調は熱を帯びていく。
その言葉には、強い意志と、揺るぎない決意が込められていた。
「冒険者……? ファリン、そんな危ないこと……。まさか、お前、本当に村を出ていくつもりなの……?」
母親の声が、微かに震えている。
ファリンの決意は、彼女にとって、受け入れがたいものなのだろう。
「うん! シルバーホールドっていう街に、大きな冒険者ギルドがあるんだって! そこに行って登録するんだ! そして、モンスターをたくさん倒して、いつかはみんなを守る、立派な勇者になるんだ!」
ファリンは、胸を張り、力強くそう宣言する。
母親は、苦しそうに目を伏せ、絞り出すような声で呟いた。
「お父さんが……あんな目に遭ったのに……。お前まで、そんな危ない場所に……」
その言葉には、亡き夫を失った悲しみと、最愛の娘を危険な目に遭わせたくないという切実な願いが込められていた。
だが、ファリンはそんな母親の心情を察する様子もなく、太陽のような笑顔を向けて、彼女の手を優しく握った。
「お母さん、心配しないで! あたし、この村じゃ一番強いんだから! ほら、父ちゃんの形見の剣もあるし、絶対大丈夫だよ!」
そう言って、ファリンは母親を安心させようとする。
その言葉に、嘘はないのだろう。
彼女は、本当に自分が強いと信じているのだ。
だが……。
「……偉そうに語ってるけど、あなた、スライムより弱いんですよ!」
ファリンの言葉を聞きながら、彼女の弱さを知る俺は思わず心の声が口に出てしまった。
「……ん? 誰か、いるの……?」
ファリンは、突然聞こえてきた声に気づき、怪訝そうな表情で首を傾げた。
そして、窓の外に向かって視線を送る。
やばい! 見つかる!?
「……泥棒……!?」
彼女の母親も、何事かと身を乗り出し、窓の外を窺っている。
まずい、これはマズすぎる……!
俺は、咄嗟の判断でとっさに口を開き、ありったけの演技力を駆使して猫の鳴き真似をした。
「……んにゃあお! にゃ~ん……!」
少しでも、可愛らしい猫の鳴き声に聞こえるように、意識して高めの声を出す。
「……あら? 猫ちゃんかしら……?」
ファリンの母親が、少しだけ警戒を解き、そう呟いた。
ファリンも、辺りをキョロキョロと見回しているが、どうやら俺の姿には気づいていないようだ。
「なあんだ、猫ちゃんか~。驚かさないでよね」
そう言って、母親は再び椅子に座り、何事もなかったかのように裁縫道具を取り出した。
ファリンも、少しだけ警戒を解いたものの、まだ何か気になっている様子で、窓の外をじっと見つめている。
(セーフ……! なんとか、やり過ごせた……!)
俺は、安堵のため息をつく。
まさか、こんな状況で猫の鳴き真似をすることになるとは思わなかったが、咄嗟の機転が功を奏したようだ。
だが……冷静に考えると、夜中に民家の窓から中を覗き込み、怪しまれたら猫の鳴き真似で誤魔化す……って、完全に不審者じゃねーか!
我ながら、一体何をやっているんだ……。
『危なかったなキリスたんwww バレるかと思ったwww』
『猫の鳴き真似、可愛すぎかよ! 脳が溶けるわ!』
『いや、あれは可愛すぎた。反則だろ』
『ネコ耳キリスたんのファンアート、爆増不可避だな、これはっていうか誰か描いて。マジで』
コメント欄は、俺の決死の猫演技に大いに沸き上がっているようだ。
いや、別に可愛く演じたつもりはないんだけど!?
翌朝。
ファリンは、旅支度を始めた。
小さな革鞄に、非常食として使える干し肉と、貴重な飲み水を入れた水筒、そして着替えの下着や予備の布などを丁寧に詰め込んでいく。
身につけるのは、動きやすいように調整された革製の軽鎧。
そして、何よりも大切な、父親の形見である古びたショートソードを、誇らしげに腰に吊るす。
「よし、完璧!」
ファリンは、最後に自分の姿を確認し、満足そうに笑った。
その表情には、不安の色は微塵もない。
ただ、希望に満ち溢れた、輝くような笑顔があった。
その時、台所から母親の優しい声が聞こえてきた。
「ファリン……本当に、決めたの……?」
ファリンは、少しだけ寂しそうな表情を浮かべながらも、力強く頷いた。
「うん! あたし、行くよ。勇者になるためだもん!」
母親は、しばらく黙って俯いていたが、やがて覚悟を決めたように顔を上げ、ファリンに小さな包みを差し出した。
「……せめて、これだけは持っていきなさい。干しパンと、少しばかりの果物よ。……無茶だけは、絶対にしないでね」
母親の瞳には、涙が滲んでいる。
ファリンは、その包みを両手で大切に受け取ると、母親を安心させるように、いつもの明るい笑顔で言った。
「ありがとう、お母さん! 心配しないで! すぐに立派な勇者になって帰ってくるから!」
そして、母親にぎゅっと抱きつき、感謝の気持ちを伝えた。
その後、ファリンは家を出て、村の入り口へと向かった。
すると、そこには多くの村人たちが集まり、彼女の旅立ちを見送ろうとしていた。
老婆が「ファリンちゃん、一体どこへ行くんだい……?」と心配そうに尋ねると、別の老爺が「まさか、村を出ていくんじゃねえだろうな……?」と目を丸くする。
ファリンは、村人たち一人一人に笑顔を向け、背負った革鞄を肩に担ぎ、精一杯の大きな声で宣言した。
「あたし、勇者になるために、冒険者になるんだ! みんな、見ててね! きっと、すっごい勇者になって、この村に帰ってくるから!」
その言葉に、村人たちは驚きと、そして誇らしげな笑顔を浮かべた。
「頑張ってこい、ファリン!」「お前なら、きっとやれる!」「体に気をつけてな!」と、口々に励ましの言葉を贈る。
母親は、少し離れた場所で、涙をそっと拭っていた。
ファリンは、そんな村人たちの温かい声援を背に受け、深呼吸を1つ。
そして、赤髪を朝日にきらめかせながら、村へと続く森の道へ、力強く一歩を踏み出した――。
さあ、いよいよ始まる。
この光景を物陰から見守っていた俺――キリス・コーツウェルは、固く拳を握りしめ、いよいよファリンを守るための冒険が始まるのだと決意するのだった。
運命の歯車が、今、音を立てて回り始める――。