第40話『夜を待つ、Lunaria 』
【4月30日(木)常盤町 某高校・午前の中休み/Lunaria】
教室の窓から、日差しが差し込んでいた。
……陽の光は、苦手だ。
生きてる人間向けに設計されすぎてる。
日焼けするし眩しいし、いいことない。
外が明るいだけで元気出る人って、ほんと便利な体してると思う。……そう思ってるうちに。
始業のチャイムが鳴る。
ああ、もう始まった。
あたしは席に着いたまま、黒板をぼんやり見る。
……見る、というより、見てる“フリ”。
先生の声は聞こえてるし、
黒板の字も手が勝手に追ってる。
ノートだって、それなりに埋まっていく。
だからたぶん、
「ちゃんとした生徒」なんだと思う。
……中身はスカスカだけど。
それで困るのは多分、あたしだけだ。
*
昼休み。
教室は、やけに賑やかだった。
前の席で、誰かが小さく笑う。
後ろでは机を寄せる音や、名前を呼び合う声が
あちこちで弾んでいる。
あー、はいはい。
今日も元気ですね。
……居心地は、よくない。
あたしは鞄を肩に掛けて、教室を出た。
向かう先は、もう決まってる。
一階、階段裏の死角。
人の視線が届かない、ちょうどいい“空白”。
ここなら、ちょうどいい。
壁に背中を預けて座り込み、鞄の中を探る。
取り出したのは、小さな紙袋。
朝、コンビニで買ってきたチョコクロワッサン。
三日連続。安定。
どうしてか、今日もこれでいいと思った。
理由をつけるほどじゃない。
ただ、間違えない選択。
紙袋の奥から、もうひとつ水筒を取り出す。
中身は、黒豆茶。今朝、自分で沸かしてきたやつだ。
甘くない。刺激もない。ただ、やさしい。
――昔から、なぜかこれが好きだ。
まずはクロワッサン。
包みを開けて、ひと口。
「……ん〜……ぼっち飯、最高やね〜♪」
もちろん、小声。
誰かに聞かせる気なんてない。
どうして、クロワッサンとチョコって
こんなに合うんだろう。
甘すぎず、くどくない。軽いのに、ちゃんと残る。
続けて、水筒の蓋をひねる。
小さな音が、この場所の静けさを際立たせた。
黒豆茶を、ひと口。
(……うん。これこれ)
甘さも強さも、主張もない。
静かに息が整う味。
クロワッサンをもう一口。
サクッ、という音が、思ったより大きく響く。
軽い甘さが口に広がって、頭の中のざわつきが少しだけ遠のいた。
誰とも喋らなくていい。
気を遣わなくていい。
あたしはクロワッサンを齧りながら、スマホを開いた。
クランフィールド。
スマホ版の簡易ログイン。
デイリー、消化済み。
放置探索、問題なし。
戦績ログも、異常なし。
……よし。
本気のプレイは、家に帰ってから。
これで十分だ。
理想のあたし――Lunariaは、
今日もちゃんと、ここにいる。
現実より、ずっと、確かに。
そう思った、そのとき。
階段前を通り過ぎる女子たちの声が、
廊下から耳に入った。
「午後から体育だよね〜」
……体育。
――ああ、そうだった。
そういえば、そんな予定あったっけ。
スマホの画面を見たまま、一瞬、指が止まる。
(……なんで現実まで同期してくんの)
* * *
体育館で、今日はドッジボール。
白線で区切られたコート。
内野と外野。
先生の説明は続いているけど、
理解する前に時間だけが進んでいく。
「はい、始めー!」
合図と同時に内野が動き出す。
――あたしは半拍遅れた。
(……ちょっと待って、状況が分からん……)
確認したその一瞬が、もう遅い。
正面から飛んできたボールが一気に距離を詰めてくる。
「……っ!」
身体は反応した。
避けた、と思った。
でも――
次にどう動くかを考えた、その間に。
ほんの一拍。
判断が追いつく前に、
ボールが、ぽすっと肩に当たる。
「アウトー!」
……え。
今の、当たった?
(当たる予定、なかったんやけど)
一瞬、実感が湧かなくて、
遅れてから、じわっと現実が追いつく。
「あ……はい……」
外に出る。コートの端。
誰も責めない。誰も気にしてない。
(ちゃんと失敗したはずなのに)
それが、余計に居心地悪い。
(……向いとらんのよね、こういうの)
……理由は分からんけど、いつも“一拍遅れる”。
考えた時点で、負け。
汗が首筋を伝って、呼吸が微妙にズレる。
早く、現実からログアウトしたい。
ふっと、そんな言葉が浮かぶ。
夜なら――逃げなくていい。
体を動かさなくていい。
声を出さなくていい。
考えるだけでいい。
指先だけで、世界を動かせる。
――そっちの方が、ずっと楽だ。
*
授業が終わり、教室に戻る。
着替えを済ませて席に座ったとき、ようやく呼吸が整った。
首の後ろで、まとめた髪が少し重い。
その感触が現実を引き戻す。
窓の外。
青かった空が、オレンジに侵食されていく。
(……今日は、ゲーセン寄って帰ろ)
それだけ考えて、
あたしは、机に頬杖をついた。
真面目に授業を受ける気力は――もうない。
* * *
【常盤町・放課後/ゲームセンター】
駅前の雑踏を抜けて、ネオンがにじむビルの前で足を止める。
ガラス越しに、聞き慣れた電子音とリズムが溢れてきた。
制服のまま、迷いなく自動ドアをくぐる。
クレーンゲームの電子音。
格ゲーの掛け声。
奥のほうから、一定のテンポで響く太鼓の音。
……あった。
――太鼓の超人。
なんて呼ばれてるやつ。
筐体の前に立った瞬間、肩の力が抜ける。
コインを入れて、画面に映る曲選択を指先で流すように飛ばす。
選ぶのは、テンポが速く最初から殴りに来るタイプの曲。
難易度――裏鬼。
「……これで」
その瞬間、周囲の空気がざわめいた。
どん。
一打目で、もう分かる。
反応速度、リズムの精度、迷いのなさ。
叩くというより、先に置いていく。
連打は流れの中に溶けて、
高速譜面は視線より先に、指が動く。
(ふふっ……やっぱ、これでしょ)
背景で歓声が上がっているのに、
耳に残るのは太鼓の音だけ。
あたしの世界には、譜面と音と赤と青しかない。
コンボが伸びる。
ミスがない。
最後の一音。
――ドン。
フルコンボ。
一拍遅れて、ざわっと空気が揺れた。
「……え、今の……」
「フル? マジで?」
「やば……」
いつの間にか、後ろに人がいる。
数人。さらに増える。
あたしは画面を一度だけ見て、
すっとバチを下ろした。
(……うるさいな)
そのとき。
「ねぇねぇ。
銀髪でツインテールってさ、反則じゃない?
めっちゃ可愛いんだけど」
振り返ると、知らない男が一人。
距離が近い。
(……ああ、そういうとこだけ見るんだ)
「ゲーム上手いじゃん。
よかったらさ――このあと、お茶でもどう?」
ため息をひとつ、飲み込んでから――
あたしは、太鼓の筐体をバチで叩いた。
「これに勝てたら、いいよ」
男が、きょとんとする。
「……は?」
「太鼓の超人で。あたしに。
……まあ無理だと思うけど」
一瞬の沈黙。
周りが、どっと沸いた。
「やれやれー!」
「挑戦者が出たぞ!」
男が苦笑いで前に出る。
「地方大会は何度か出ててさ。
優勝もしてる。
だからまあ……普通にやれば、負けないと思うぜ」
「へぇー。それで“勝てる側”だと思ってるのなら、
今日は運が悪いわね」
その一言で、もう勝負は決まってた。
結果?
――言うまでもない。
完勝。しかも、差がえぐい。
男は頭を掻いて、苦笑する。
「……参った。
名前、聞いても――」
あたしは、もう画面を見ていない。
「地方で勝てたからって、
世界を知った気にならない方がいいわ」
背中に向けて、一言だけ。
「……じゃあね〜、雑魚お兄さん♡
ナンパする前に、自分の腕でも磨いてきなさい」
そう言って、出口へ向かう。
ネオンの外気が、ひんやりしていた。
(……ああいう男は苦手やわ)
運動は苦手。
人混みも得意じゃない。
でも――太鼓だけは、裏切らん。
あたしを、ちゃんと別の場所へ連れていってくれる。
*
人通りの少ない路地に入ったところで、足音が増えた。
「さっきの、調子乗りすぎじゃね?」
――さっき、太鼓で叩き潰した男の声。
振り向く前に、囲まれる。
「ちょっと話そうぜ」
(……はぁ、めんどくさ)
「どいて」
「……嫌だと言ったら?」
距離が詰まる。
その瞬間、男の手が伸びた。
触れられる――その、ほんの手前で。
空気が、凍りついた。
音が消える。
ざわめきも、ネオンの明滅も遠のく。
男の足が止まる。
踏み出しかけた踵が、床に縫い留められたみたいに動かない。
掴もうとした腕が途中で固まる。
力を入れても応えがない。
「……っ、は?」
声にならない息が漏れる。
「……なんだ、これ……
身体が……動かねぇ……」
答えない。
あたしは、ただ指先をほんの少し持ち上げた。
それだけ。
――ぐ、と。
見えない重みが落ちる。
空気ごと押し潰されるみたいに、
男の身体が同時に崩れた。
膝がアスファルトに叩きつけられる。
「っ……!!」
触れていない。近づいてもいない。
――完全に、縫い留められている。
「雑魚は雑魚らしく、
負けた日は――静かにしておきなさい」
声は低くも高くもない。
ただ静かに落とす。
「……っ、ひぃ……!」
男の肩がびくりと跳ねた。
一拍。
「……次は、
どうなるか分からないかも、ね?」
言い終わる前に、
あたしは背を向け歩き出す。
後ろに残ったのは、荒い呼吸と、
床に縫い留められたままの――恐怖だけ。
*
街灯が一定の間隔で道を照らしていた。
夜の手前。
昼と夜の境目みたいな、どっちつかずの時間。
歩きながら、制服の袖を少し引き下げる。
さっきまで張りつめていた身体が、ようやく落ち着いてくる。
深く息を吐くと、胸の奥に残っていたざらつきが、
少しだけ薄れた。
(……ああいうの、ほんと多い)
別に、怖くはなかった。
驚きもしなかった。
――ああなることも、分かっていた。
自分より弱いと判断した相手にだけ、強く出る。
負けたら怒って、取り繕って逆恨みする。
そういう人たちを、
あたしはもう、何度も見てきた。
――でも、今日は。
太鼓の音。
ざわめき。
フルコンのあとに広がった、あの空気。
あれは、嫌いじゃなかった。
口元が、ほんの少し緩みそうになって、
慌てて視線を落とす。
(……浮かれすぎ)
そう言い聞かせて、歩く速度を少し早める。
家の明かりが見えてきたころには、
心拍はすっかり、いつものリズムに戻っていた。
* * *
夕方の名残みたいな薄いオレンジが、
カーテンの隙間から床に伸びている。
この時間は、嫌いじゃない。
夜が始まる直前。
世界が、少しだけ静かになる瞬間。
デスクに腰を下ろして、モニターの電源を入れる。
CLANFIELD/PLAYER:Lunaria
画面に並ぶ、いつもの戦績ログ。
勝率、ダメージ、詠唱成功率。
どれも想定どおり。
今日のログにも、乱れはない。
……はずなのに。
画面の隅に、通知。
《オフライン大会:決勝進出条件 更新》
――来月。
表示された名前を、あたしは一度だけ見る。
(……やっぱり、来た)
分かっとった。
当たる確率が高いことも。
そうなるってことも。
指先が自然とキーボードに置かれる。
言葉は、もう決めてある。
冷静で。
余裕があって。
“Lunariaらしい”文章。
――送信。
《クランフィールドのオフ会バトル──
来月の大会。
決勝まで行けば、あなたと対峙できるらしいわね。
……ずっと、その瞬間を待っていたの。
ロジカルリンク。
“本当の意味で”会える日を、楽しみにしているわ。》
送った直後、落ち着かなくなった。
(……ふぅ。落ち着け、あたし)
椅子の背にもたれて、天井を見る。
「……ちゃんと、Lunariaでおれたよね」
誰にともなく、そう呟く。
返事は、まだ来ない。
でも、それでいい。
だって――
本当に向き合うのは、来月の決勝なんだから。
一度、深く息を吐く。
それから立ち上がって、カーテンに手を伸ばす。
少しだけ開ける。
まだ夜になりきらない空に、月が静かに浮かんでいた。
淡い光。静かな輪郭。
(……たかちゃんも――
同じ月、見てるんやろな)
画面の向こうじゃなくて。
ログでもなくて。
同じ場所で。同じ空気の中で。
画面越しじゃない、あの場所で。
そう思っただけで、
胸の奥が、また少しだけ忙しくなる。
「……調子、狂うわ」
小さく言って、あたしはカーテンを閉じた。
夜は好きなはずなのに。
静かなはずの時間が――
今日は、うまく静まってくれなかった。




