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第39話 終章『新しい扉の前で』

【4月30日(木)昼休み/学校屋上 河田かわだ亜沙美あさみ


フェンス際のベンチに並んで座り、気づけば四人で弁当を広げていた。


春の風が、屋上を転がるように吹き抜けて、

お弁当の匂いをふわっと運んでくる。


(……わたし、ちゃんと“ここ”にいられてるんだ)


ずっと――

ずっとどこかで夢みたいに思っていた時間。

その真ん中に、いま、私も座ってる。


「見て見てっ!今日のブロッコリー、めっちゃ元気なんだよ〜っ!」


犬神さんが箸を掲げて誇らしげに笑い、

神田くんは「……野菜に元気とかあるのか」と呆れ声。

そんな何気ないやりとりが、屋上の空気をゆっくりとあたためていく。


そのとき、越智くんが静かに弁当のフタを外した。


ウインナーは全部ハート型。

にんじんも、卵焼きも――なぜかぜんぶハート。


配色も配置も、妙に整っていて。隙間ひとつない完璧さ。


そして、ご飯の上には海苔で、

『( ˘³˘ )♡』


――そんな“くちびるを突き出したキス顔”に、

小さなハートまで丁寧にデコレーションされていた。


「……え、ちょっ……なにコレ……」


固まった私の隣で、


「ひゃああああああ!?!?

越智くんっ!!これ完全に愛妻弁当じゃんっ!!」


犬神さんの声が全力で跳ね、神田くんが腕を組んでため息を落とす。


「……おまえ、誰と新婚生活してんだよ」


「やめろ。」


越智くんの即答は淡々としてるけれど、弁当の“愛”の主張は圧倒的だった。


(……これ、誰が作ったんだろ)


胸の奥がざわつく。

ウインナーも卵焼きも、どれも“特別”に見えてしまって。


(……家族?

 それとも……恋人……?)


そう思った瞬間、息が詰まりそうになる。

……その直後だった。


「姉だ」


短い声が落ちた瞬間。


「……お姉さん、なんだ」


ほとんど音にならない声だった。

張りつめていたものが、スッと消えていく。


(……え?なんで、こんな……

 息が、少しだけ楽になってるんだろう……)


自分の反応が分からなくて、一度だけ視線を落とした。


でも――

そのまま、目を伏せているわけにもいかなくて。

そっと、もう一度顔を上げる。


ちょうどそのとき、犬神さんが声を弾ませた。


「そういえばっ!柴犬弁当の時もすごかったよね〜っ!!」


神田くんも渋い顔で頷く。


「……オレの見たやつは妙にリアルすぎた」


「わたしのは、にっこり柴犬だったよ〜〜っ!」


「……ベクトルが真逆すぎるんだよ」


犬神さんは勢いそのまま、越智くんの弁当をのぞき込みながら続けた。


「ねぇねぇ、あれってさ〜……越智くんのお姉さんが作ったんでしょ?

 このキス顔もだけど、あの柴犬の再現度……ほんとプロ級なんだけど〜っ!!」


神田くんも腕を組んでため息をつく。


「……確かに。あのセンスはちょっと常軌を逸してるレベルだな」


その“お姉さん”という単語に、私は思わず反応してしまった。


(……越智くんのお姉さん、どんな人なんだろう)


こんなお弁当を作るくらいだから、きっとあたたかい人なんだろう。

私は一人っ子で……

“お姉さん”って存在を、どこか羨ましく思っていた。


その気持ちが、静かにほどけていく。


「そんな器用な人なら……

 わたしも、一度、お姉さんに会ってみたいな」


私は、ぽつりと口にしていた。


その瞬間――

越智くんが、ふっと空を見上げた。



「……会えるさ。

 そのうち、“きちんと向き合える日”が来るだろう」


横顔が、ほんの一瞬だけ優しくほどけた。


それを見た途端、

どくん、と心臓が跳ねる。


(……ああ。やっぱり、わたし……)


目を逸らしたら、

その気持ちごと消えてしまいそうで。

逃げずに、見つめたままでいた。


(……わたしは、越智くんのことが――)


続きを言う前に、春風がそっと通り抜けていった。

その気配が言葉の先をさらっていく。


しんと静かに、それでも胸の底ではっきり響いた。


(……好き)


その一文字が、

私の中にすとんと落ちてくる。


だけど今は――この気持ちは、ここにしまっておく。

まだ伝えるときじゃないから。


深呼吸をして、3人の方へ向き直る。


「みんな……聞いてくれる?」


犬神さんがぱっと顔を上げ、神田くんの手が止まり、

越智くんがこちらを見る。


屋上の風が、そっと背中を押した。


「――わたしね。

 部活、決めたよっ」


* * *


5限目のチャイムが終わって、

廊下にざわざわとした足音が流れ始めた。

教室の喧騒が、背中に遠ざかっていく。


保健室前の角を曲がったあたりで――


「……河田さん」


橘さんの、少し力の抜けた声が背中を呼び止めた。


「ちょっと……歩こ」


「……うん、分かった」


二人で窓側の渡り廊下へ出る。

午後の光が、柔らかく満ちていた。


しばらくの間、靴音だけが続く。


「……うちさ、離婚することになった」


その言葉は、私の胸に静かに落ちた。


「母さんの実家で……しばらく暮らすって」


橘さんの歩幅が、ほんのわずかに軽くなる。

その変化だけで、

抱えていた重さと安堵が伝わってきた。


「そっか……良かった、ね」


一拍おいて、

橘さんが、そっと息を整える。


「……この前のこと、まだ夢みたいだけどさ。

 ――あなたが、手を離さなかったから」


廊下を抜ける風が、午後の光を抱えて、

橘さんの髪をそっと揺らした。


「あたし、生きてていいんだって……

 初めて思えた」


私は、少しだけ足を止めた。

返したい言葉はあるのに、なかなか出てこなかった。


「……謝って済む話じゃないかもしれないけどさ」


「今まで……本当に、ごめんなさい」


そこにあったのは、

強がりも見栄もない、痛いほどまっすぐな声だった。


「……橘さん」


名前を呼ぶと、

橘さんがわずかに肩を揺らした。


「“謝って済む”とか、

 そういうふうには思ってないよ」


自然と、言葉がこぼれる。


「わたし……

 展望台で泣いてた橘さんを見て、思ったの」


「“誰かの力になりたい”って。

 本気で、そう思ったんだ」


一瞬、橘さんが言葉を失ったみたいに、

わずかに目を見開いた。


「それが……わたしの答えなの。

 橘さんを見て、決めたこと」


廊下の向こうで、誰かの笑い声が弾んだ。

その音がやけに遠く聞こえて、

ここだけ、時間の流れが違っているみたいだった。


橘さんは前を向いたまま――

ふっと笑うように息を吐いた。


「ふふっ……河田、

 前よりずっと強くなったじゃん」


あっさりした言い方なのに、

その奥にある温度は、やさしくて。


自分の中で、何かが確かに変わった気がした。


* * *


放課後の三階の廊下は、

夕日の光だけが、静かに満ちている。


その真ん中――

〝生徒会室〟のドアの前に、私は立っていた。


胸の内は、静かに凪いでいる。

迷いも、ためらいも、もうどこにもない。


(……橘さんの言葉。

 科学部で過ごした、背中を押してくれた時間。

 そして――犬神さんと、あの時に誓った約束。)


今日、わたしが選んだ答え。


全部が、自然とここへ繋がっていた。

ひとつひとつが、確かだった。


ドアプレートが夕日に照らされて、

ほのかに浮かび上がる。


その瞬間、ふっとよみがえった声――


『“新しい扉”って、

 意外と静かに開いているものですのよ』


高橋玲奈先輩の、あの落ち着いた声。

背筋をすっと伸ばしてくれるような響き。


(……うん。

 これは、わたしの“新しい扉”。)


私は迷いなく取っ手へ手を伸ばした。


指先が触れた瞬間、

胸の奥からじんと熱が広がる。


(わたしは進む。

 “誰かの力になりたい”って思えた今日を、

 ちゃんと形にするために)


静かに力を込める。


カチャリ。


夕暮れの廊下で、その音はまるで小さなスタートラインみたいに――やさしく響いた。



―― 第一章 完 ――

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