二
仄かな闇の中、目の前で精製されたばかりの丸く弧を描いたもの―――オリハルコンのティアラを前に、ジャファールたちは固まるばかりだった。
グリュフォーンが精製したオリハルコンがティアラだったのは、おかしなことではなかった。これまでも、装飾品が精製されたことは何度もある。
三人が声もなく固まってしまったのは、それが皇太子妃の着けるティアラの形式をとっていて、器の姫君であるディーナの名が刻み込まれていたためだった。
両端が渦状にくるりと巻かれ、渦の中心に涙型のかざりがふたつ。ティアラ中央に向かって三本の蔓草が伸びていて、それらは二匹の蝶を囲むようにして絡まり合っている。
皇太子妃のティアラ。
その裏側に、『ジャファールの妃 ディーナ・アルカヴァーレ』と刻まれている。アミナではなく、ディーナの名が。
「畏れながら、器の姫君は、グリュフォーンさまの花嫁であるはずですが」
尋ねるカマールの声は、震えていた。当然である。
「〈あのさ、ずーっと言ってなかったんだけどさ〉」
青ざめる一同の前で、うんざりとグリュフォーンは吐き捨てる。もちろんそうバハーバドル語で吐き捨てたのは、こちらの言葉に拙いディーナである。
「〈おれにゃあっちに愛する嫁さんがいんだよね。人間の娘が花嫁だなんてことアイツに知られたら泣かれるんだよ、困るんだよ、泣かれるとさ。冗談でもやめとくれ。いいな。はっきり言っとくけど、おれは、嫁さんひと筋。人間の娘にゃ興味ねぇんだよ、まったく、ホントに、これっぽっちも〉」
「……」
この天界の神獣は、そういえば言葉遣いが残念だったのだと、一同は思い出す。
「しかし、わたしには、既に婚約者が」
ジャファールが胸から重く押し出した言葉に、意味ありげな視線が返ってきた。
「〈ふぅん。本当に、それでいいのか?〉」
ぎくりとした。
グリュフォーンはティアラを顎で指す。
「〈それ、お前が欲しているものだろ?〉」
はっきり明言してはいなかったが、なにを言おうとしているのか判らない国王や宰相ではない。ふたりの胡乱な視線が、ジャファールに突き刺さる。
言い訳もできない空気が喉を通るばかりで、ジャファールは彼らの顔を見ることができない。
気まずい雰囲気のまま、カマールが問う。
「我々の間では、器の姫君はあなたさまの花嫁であるとされてきました。それゆえ、誰にも嫁いではならぬとなっております」
「〈ああぁ、んなのそっちが『箔がつくから』ってんで後になって勝手に決めたんだろが。おれが頼んだんじゃないよ。知らないのか? 最初の器は人妻だったし、次の器はなんとかって男とすぐに結婚したぞ〉」
「―――え」
思わず脇に控えていた神官長を見るカマール。彼も知らないことだったのか、真っ白な顔で固まっている。
「〈なんなら図書室があるだろ。そこの禁書ばっか集めた部屋の一番奥の棚。『創世記』って歴史書にしっかり書いてあるぞ。『誰とも結婚してはならぬという決まりはないが、ほとんどの者は結婚しようとしなかった』って〉」
音をたてて、自分の意識から余計な雑念が消えていき、澄んでいくのをジャファールは感じていた。緊張に凝り固まった胸の内に、期待と望みが入り乱れる。グリュフォーンが精製してくれたこのティアラに、縋ることができるのか? 器の姫君は、グリュフォーンの花嫁だとずっと、ずっと信じていた。
「〈他にもいろいろ書いてあるぞ。確認してこいよ〉」
神官長が控えていたふたりの神官を目で促した。よろけそうになりながらも彼らは階上へと駆けていく。図書室でその書物を確認するためだろう。
その場の人間たちは、困惑に顔を見合わせることしかできなかった。
「〈……。なんだ。不満そうじゃないかジャファール〉」
沈黙する彼らに、グリュフォーンはどこか面白そうだ。
「え。いや……そんなことは……」
ディーナは、グリュフォーンの花嫁では、ない、と?
彼女を縛りつける慣習は、なにもない、と。
(いったい……)
いったいグリュフォーンは、なにを言おうとしているのか。なにをしようとしているのか。
答えは、頭の中では既に見えている。
皇太子妃のティアラ。
いいのか?
判らない。―――本当に?
透明になった意識が指し示すたったひとつの答えに、足元が崩された思いだった。
「〈ふぅーん。そっか。じゃあ、お前ディーナいらないんだな。そっか、いらないのかぁ……〉」
残念そうにグリュフォーンは漏らす。「いらない」という突飛な発言に、ジャファールはぎょっとなる。
「〈だったらそっちの御希望どおりおれが貰っとくよ。こいついままでで一番相性いいしさ。ガキも生まれたばっかだから、ちょくちょくあっちに顔見に行きたいしよ。てか、このまま使ってりゃいいのか。そうすりゃ、しばらくあっちにいられるわけだし? いいよな、ジャファール。こいつのこといらないんだもんな。その間、オリハルコンの精製はできなくなるけど〉」
「……。―――えぇッ!?」
最後にさりげなく言われた言葉に、カマールが潰れた悲鳴をあげて一歩よろめいた。
オリハルコンの精製ができない?
「〈そうだろ。おれがいなくちゃ精製できないんだから。天界にいるのに、んなことできるかっての〉」
宰相アムジャドも、グリュフォーンの返答に、あえぐように口をひくつかせている。言葉も出ないようだ。
「〈それ、やるよ。使い道なくなったけど、ないよりマシだろ? とっとけ〉」
「ジャファール!!」
ものすごい形相で、カマールはジャファールの肩を摑んで揺さぶった。
「おっしゃるとおりに! バハーバドルにはオリハルコンの守護が必要なんだ。判るだろう!?」
本人は小声のつもりなのだろうが、かなりの勢いの叱責だった。
天界の金属、オリハルコンがグリュフォーンによってもたらされるからこそ、バハーバドルと周辺の国々は均衡を保っていられる。これが絶えたと知られれば、これ幸いと各国は攻め入ってくる。
バハーバドルにはオリハルコンの存在が、グリュフォーンが必要なのだ。
「わたくしからもお願い申し上げます。どうか、ディーナさまを正妃になさいませ」
執務中ですら見たこともないほどの真剣な顔でアムジャドもジャファールに迫る。
「しかし……アムジャド」
アムジャドの娘、アミナはジャファールと婚約している。アルナザール家当主として、王族と縁続きになることは、彼自身ライラに逃げられたことからも悲願だったはず。
「殿下。間違えてはなりません。バハーバドルあってこその栄耀栄華です」
「……」
「〈そうそう。そう言っときゃ親バカっぷりがばれることもないし〉」
ぼそりとこぼすグリュフォーン。
なんのことだと怪訝に眉をひそめるジャファールの前で、気まずく固まるアムジャド。
「〈おっと。悪い悪い、隠してたんだっけ〉」
反論も非難もしなかったが、せめてもと抗議の眼差しでアムジャドはグリュフォーンを睨む。
「〈どうせいずればれることだろが〉」
よく判らなかったが、アムジャドと親バカという単語は、縁がなさそうで縁があるということか。
おかしげにアムジャドの抗議の視線を受けているグリュフォーンが、ジャファールに首を向け、改めて訊いてきた。
「〈どうする? ジャファールよ〉」
ぐるるぐるるという唸りには、どこか優しさすら窺えた。
「〈おれが悪役になってやるなんて、きっと二度とないぜ?〉」
仄暗い部屋で響いたグリュフォーンの低い声が、ジャファールの耳にいまでも残っている。
「おれの妃になるのはアミナではなくディーナだと、グリュフォーンが決めたんだ。御子が生まれた喜ばしさと、天界から戻るのが遅れたお詫び。これからもディーナを器としてたびたび借りるためにずっとここにいてもらいたいからだ、と」
「―――そのために、わたしの名前を?」
喉の奥から出た声は、思った以上に硬いものになってしまった。
ディーナの胸にはちきれんばかりに膨らんでいた期待は、ジャファールの言った最後の部分に、すっとしぼんでいく。
最後の言葉が、すべてを説明していた。〝皇太子妃〟とは、自分を繋ぎとめるための、たんなる名目でしかなかったのか。事務的な契約。虚しいと判っていた期待でも、冷水を浴びせられた思いがした。
王族の血を引いているとはいえ、なんの身分もない異国人がグリュフォーンの器として居続けるためには、皇太子妃という都合のいい場所が必要だっただけなのだ。
このティアラは、その手形。
グリュフォーンが守護神獣という圧倒的な存在感で押しつけただけの妃の地位。彼の心が、自分に向いたわけではない……。
「そういう事情で、アミナとの婚約はなくなった。これでアミナも、ずっと想っていたヤツと一緒になれる」
「……。―――ご存じ、だったんですか?」
小さな瞬きのあとそう返したディーナに、ジャファールも目を丸くする。
「……知って、たのか?」
頷くディーナ。
「相手の方が誰なのかは、秘密だと言ってましたけど」
「秘密、か」
ちょっとおかしげに笑むジャファール。
「おれもアムジャドも相手を知ってるのにな。秘密にすべき相手に、しっかりばれてるのを知らないんだな」
「ばれてる、んですか?」
「―――知りたいか?」
好奇心を眼差しに浮かべたディーナに、もったいぶって訊いてくる。
「訊いても、大丈夫ならば」
「もちろんさ。相手は、おれの叔父。ナヴィードさ」
ナヴィード?
ディーナは記憶の引き出しをひっくり返す。
ナヴィード。
こちらに来たばかりの夜、みんなで会食をしたその中にいた。背が高くて甘い顔立ちの男性だ。ジャファールの叔父とはいっても、それほど年は離れていなかったはず。
「ジャファールさまより幾つか年上の? ヒゲがちょっと濃い目でタレ目の?」
「ああ。それがナヴィードだ」
「……。そうなんですかッ!?」
声が裏返ってしまった。
「意外か?」
「てっきり、なんとなくですけど、ハーフェズさまかなぁ、と」
ジャファールの弟のハーフェズ。彼も独身だったはずだし、あの食事会でふたりが親しく話しているのを何度も目にしている。
「ナヴィードさまだったんですか」
あの場でアミナが彼と言葉を交わしていた記憶は、ない。もしかすると、視線すら交わしていないかもしれない。
アミナが大切にしているあのキディスの贈り主は、ナヴィードだったのか。
「じゃあ、アミナさまは、好きだった方と結婚できるんですね。あ、いえ。えと、ジャファールさまを悪く言う意味ではなくて」
「判ってる」
気にしたふうもなく、ジャファールは遠い目をする。
「グリュフォーンのおかげで、みんな望む道を選ぶことができたんだ」
「みんな……?」
本当にそうだろうか、と、心の中で反論の声があがる。アミナとの婚約解消を、ジャファールがはいそうですかと納得したとは限らない。
「みんなが互いに無理をしていたんだ。あとに引けないくらいに」
「無理、していた、んですか?」
ジャファール、も?
「そうだ。アミナの家、アルナザール家が王家との繋がりを欲していたと話したことはあったかな。アムジャドとライラさまの婚約。でも、うまくいかなかったろ?」
そして今度は、そのアムジャドが娘を王家に嫁がせようと皇太子と婚約させたはいいものの、当の本人は別の男に恋をしていた。
「グリュフォーンが教えてくれたんだが、アムジャドは史上最強の親バカらしい。アミナを想う男に嫁がせるにはどうしたらと悩んでいたそうだ。全然、気付きもしなかった」
アムジャドは、いつもむすっとしたいかつい顔の宰相だ。まさかそんなことを考えていたとは誰も思うまい。
家の悲願のため、アミナはジャファールとの婚姻を拒絶できない。アムジャドは娘の願いを叶えたいが、アルナザール家から持ちかけた立場上、この婚約を破棄することはできない。
グリュフォーンが精製した皇太子妃のティアラは、渡りに船だったのだ。
けれど。
ジャファールにとってはどうなのだろう。
まるで他人事のように自分の婚約者と叔父との関係を話してはいるけれど、あんな素敵なアミナに対して、まったく男としての感情を抱いてないのだろうか。抱かなかったのだろうか。
それほどまでに、母ライラのことを慕っている、ということなのか。
今回のことでライラに会えるようになったことは、確かに喜ばしいことだろうけれど、ティアラに名を刻まれたから、しかたなくディーナを受け入れただけでは?
「ジャファールさまは、それでいいんですか?」
ジャファールが想う相手は、母のライラだ。グリュフォーンの命ずるまま自分を妃としても、ライラの面影を自分の中に探し求める眼差しをずっと受け続けなければならないのか。グリュフォーンの器だからと皇太子妃の地位を与えられ、愛もなく、届かない想いを抱え続けなければならないのか?
そんなの、嫌だ。
母の身代わりだなんて。
「君を妃に迎えることに、異論があるわけないだろ? ……―――ディーナは、違う、のか?」
ディーナの硬い表情が意外だったのか、ジャファールは軽い驚きを浮かべた。
「やはりエル・ザンディの婚約者のことを、想っているのか。おれの妃になるのは、苦痛なのか?」
「そんなことはッ!」
はっと顔を上げると、真剣な眼差しとぶつかった。
ジャファールの妃になれるだなんて、願うことすら大それたことだと思っていた。グリュフォーンの事情でそれが叶ったのだとしても、彼の気持ちがどこにあるのか、不安で不安でたまらない。彼のまっすぐな眼差しに貫かれ、想いは張り裂けそうで、言葉が続かなかった。
「おれは、―――グリュフォーンがこうしてくれたことに、感謝、した」
手にしたティアラに目を落とし、ディーナの名前を指でなぞるジャファール。聞いているこちらが切なくなるほどに狂おしい声だった。
「グリュフォーンは、見抜いていたんだ。おれの、願望を」
言って、自分の思念に沈んだかと思うと、すっと眼差しをディーナに戻した。
「グリュフォーンが君の名を刻んだのは、本当は、器として留めておきたいからじゃない。文句を言われる覚悟で現状を乱して、どうすることもできなかったあの状況を……。いや」
ジャファールは言葉を切った。
伝えたいのは、こんな言い訳じみたことじゃない。
「―――グリュフォーンが命じたからじゃない。おれがディーナを欲したんだ。誰よりも、おれが、こうなることを望んでいた。グリュフォーンはそれをただ形にしたにすぎない。ここにディーナの名前が刻まれていなくても、おれ自身がディーナを求」
「そうなのあなたたち!?」
突然、第三者の声が割り込んできた。
ぎょっとして声のしたほうを振り返ると、母ライラが部屋の中ほどで呆然と立ち尽くしていた。
ジャファールの顔が、ぱっと輝く。
「ライラさま!」
(え)
想像以上に顔を紅潮させたジャファールに、ディーナの顎が落ちる。
いまのいままで、いい雰囲気だったのは、気のせいだったのかと目を疑いたくなるほどの豹変っぷりだった。
「そういうことになっちゃってたの、あなたたちって!?」
「お。お母さん、えと、その、これは……その、ちょっとたぶん事情が……」
愛を打ち明けられたわけでもない。けれど気恥かしくて、しどろもどろなりにも釈明しようとするも、頭がぐちゃぐちゃになって説明にならない。母は、絶対に勘違いしている。ジャファールには迷惑に決まっている。ちゃんと説明しなければ……!。
「ええ。ライラさま。いま、求婚しているところなんです」
「!? !? !? !?」
満面の笑顔での爆弾発言に、耳を疑う以前にディーナの思考は停止した。
(きゅう、こん……?)
なにが、―――なにが起きた?
展開が読めなくて目を剥いたまま固まる娘の前でライラは、
「うっわぁ、そっかー。そうなんだー。あのちっちゃかった子が求婚ねぇ。しかもあたしの娘にねぇ。うわぁ、素敵、運命かしら!」
と、胸の前で指を組み合わせて少女のように感激している。
真っ白なディーナに、再びジャファールは向き直った。先程以上に、表情は澄みきっていて、だからこそ瞳の底に不安な色が揺れているのが窺えた。
「ディーナ」
「あの……。はい……」
もう、なにがなんだか判らない。
「これは、君への想いをグリュフォーンが形にしてくれたものだ」
ジャファールはティアラをそっと差し出す。
銀色のきらめき。皇太子妃のティアラ。
これは、現実、だろうか。
本当はまだグリュフォーンの器になったまま、あの部屋にいるのではないだろうか。
「グリュフォーンは、アムジャドやアミナの願いを叶えたわけじゃない。おれの願いに、望みを繋いでくれたんだ」
耳から入ってくる声は、本当に、現実のジャファールのものなのか。
「想いを寄せてはいけないと判っていた。だがグリュフォーン自身が許してくれた。君を、好きでいてもいいのだと。想い続けていいのだと。君が目覚めたら、真っ先に想いを伝えたかった」
視界の隅から、微笑みながらライラが消える。静かに部屋を出ていく気配があった。
そこに答えがあるわけでもないけれど、ティアラから目を離せなかった。
これが夢なのだとしても、夢だからこそ、最後のどんでん返しまで幸せな想いに浸っていたい。
でも、こんな都合のいい夢を見るだなんて、罰が当たるんじゃないだろうか。奈落の底に落とされるんじゃないだろうか。
「―――ディーナ?」
「あ。あの、えと、ああのあたし、えと都合良く聞き間違ってるみたいでして。エル・ザンディの言葉で話してくださりますと助かりますですけど」
混乱しながらも懸命にバハーバドル語で訴える。
一瞬の間のあと、ジャファールは苦笑した。
「君にはずっと、エル・ザンディの言葉で接してるけど?」
「えええッ。えと、えっと」
そう言われてみれば、目覚めてからずっと、無意識にエル・ザンディ語で話している気がする。もともとバハーバドルの言葉に疎いディーナに彼は――彼どころかまわりのひとたちには――、エル・ザンディ語で話してもらってはいたけれど。
いっぱいいっぱいで目がまわってしまう。
(落ち、落ち着かなきゃ、えっと、深呼吸をとにかくするのよ)
深く息を吸うディーナ。
落ちつけ落ち着けと、儀式の際、神官に教えてもらったやりかたで、ひとつずつ混乱をほぐし、それを風に流すさまを思い描く。
「えと、―――、訊いても、いいですか」
気持ちを落ち着かせてから、姿勢を正して向かい合う。
「どうぞ」
「あたしが、母の娘だからですか?」
「? というと?」
「あたしを想ってくれたっていうのは、母の代わりなんですか?」
息を呑むジャファール。ディーナの眼差しはあくまでも真剣だ。
彼女は、なにか誤解をしている。
「そんなことはない」
「だって、ジャファールさまは母のことが大好きだってみんな言ってますし、いまだって、母を見てすごく嬉しそうだった」
困ったようにひとつ吐息を落とすジャファール。
「ライラさまのことは確かに大好きさ。憧れている。みんなにからかわれているのも知ってる。だが、欲しいと心の底から感じたのはライラさまじゃない。ディーナ。君だ」
まだ、夢を見ている?
「……この夢、いつ、覚めてしまうんですか」
ほのかに笑むジャファールの顔が近付いた。
―――ぎし、と寝台がきしむ。
「まだ、夢の中かい?」
―――いま。
(いまあたし……)
目の前にいるジャファール。夢が覚めた感触なんてない。あるのは唇の感触だけ。
夢、じゃない。
唇。
なにが起きたかようやく頭が理解をし、顔が真っ赤に熱くなる。
絵物語で読んだことがある。眠りから覚めない姫を、王子がキスで目覚めさせる話を。
本当に? と、ジャファールを見つめる。
夢では、ない?
「だって……、だってずっと、お母さんのことが好きなんだって。アミナさまと結婚するんだって思ってた。あたしのこと、そんなふうに見てくれないんだって、そう思ってて」
「ん」
「これの名前も、迷惑だったんじゃないかって、思った……。想いが叶うなんて、思ってもなかったから」
「おれもだ。―――このティアラ、受け取って欲しい」
「でももし夢だったら! こんな夢見ちゃったら、罰が当たっちゃう」
どうも甘い雰囲気に浸れないディーナに、ジャファールは内心肩透かしを食らってしまう。
「これが夢で罰が当たるのなら、おれもともに受けよう。夢だったらね」
いやに自信に満ちた声音に、現実なのだと、思えてくる。
こわごわと頷きを返すディーナ。頭にそっとティアラを載せられた。
〈まったく、お前らめんどくせえったらねーよな。こっちが恥ずかしくなるぜ〉
「!」
ジャファールの顔が近付く中、頭に響いた声にディーナははっとなった。
「どうした?」
「いま、グリュフォーンさんの声が」
「なんて?」
息が触れ合うほどの間近から甘くジャファール。頭に響く続く声に耳を傾けていたディーナの顔が、ほころぶ。
「喜んでくれてます。半分、呆れてるみたいですけど」
ふ、と笑むジャファール。
「では、もっと呆れさせてしまおう」
後頭部に手がまわされたと思ったら、唇にジャファールの感触が重なった。
「!」
思いもかけない深いキスに、思考が止まりそうになる。
「ずっと、こうしたかった。愛してる、ディーナ」
キスの合間に、ジャファールが告げる。わたしもですと伝えたかったディーナだけれど、甘いくちづけに翻弄されて、なにも言うことができなかった。
そんなふたりの様子を、部屋の外から母ライラと兄はにこやかに、父ダンテはやきもきしながら見守っていたのだった。
了




