8 聖女は北へ──別れと希望の旅立ち
「国王陛下! 何をなさっているのですか?」
「リータ、お前を抱きに来た」
国王が薄ら笑いをした。
「……天罰が下りますよ」
「もう下っておる。リータが十五、六になった頃、女らしくなって凌辱したくてたまらなかった。それを十年間ひたすら我慢しておったのだぞ。これこそ女神様の天罰じゃないか! 男女の関係になっても女神様の加護が無くならないのなら、もう我慢する必要がない」
バルティカ王の目が据わっていた。
リータは燭台をテーブルに置くと、バルティカ王の脇をすり抜けてドアに向かった。
だが、左手の手首をガシッと掴まれた。
「逃がすものか!」
リータは床に押し倒された。
馬乗りになったバルティカ王。
ビリビリとネグリジェを引き裂いた。
あらわになったリータの胸に、右手を伸ばそうとした。
グサッ!
手が止まった。
バルティカ王が視線を下げて、自分の胸から突き出た剣先を見た。
その剣が引き抜かれた。
ゆっくり振り向いたバルティカ王。
背後にいたのは、リータ聖女様の護衛騎士クリスピーノだった。
「……な、なぜだ?」
「聖女様を守るのが仕事です。王妃様に命じられた。誰であろうと構わない。命をかけて守れと」
「お前もわしと同じく聖女様の崇拝者か……ウゴッ」
バルティカ王は口から血を吐いた。
バルティカ王はうつ伏せに倒れて、ピクリとも動かなくなった。
クリスピーノは床に跪いたリータ聖女様の肩に上着をかけた。
「……国王を助けなくては」
クリスピーノはバルティカ王の首の頸動脈に指を当てた。
そして、首を振った。
リータには治療する力はあるが、蘇生させる力はなかった。
ドンドン!
ドアが叩かれた。
「聖女様、大丈夫ですか!」
衛兵の言葉に返事はなかった。
「仕方ない」
ドアノブの横を蹴り壊した。
衛兵は、空いた穴から手を伸ばして、かんぬきを外した。
衛兵五人が部屋の中に入った。
床に血まみれで倒れている男を見て、驚愕した。
「国王陛下!」
無惨な国王の死体を見て、衛兵は固まった。
「ここは聖女様の部屋だぞ? なぜ国王が……」
「そんなことより国王が殺されて聖女様がいないということは、誘拐されたのではないのか」
「何事である。騒動しいぞ」
玄関ドアから現れたのは、ベネデッタ王妃であった。
「王妃様、国王陛下が……」
前に出た王妃は、国王の亡骸を一瞥して言った。
「リータ聖女様は?」
「行方不明です。おそらく他国の間者に誘拐されたものと思います」
「いいか、ウーゴ国王陛下は【心臓の病】で急死した。決して他国の間者ごときに殺されはしない。救国の将軍から王の座に付いた国王陛下の名誉を守らなければいけない。わかったか」
「はい、わかりました。国王陛下は病死であります!」
衛兵の一人が叫んだ。
「よろしい。それでは死体を王の部屋に運びなさい。ベッドに寝かせて、侍女長を呼んで身体を綺麗にするように進言しなさい」
遅れて、侍医がやって来た。
ことのあらましを聞いた侍医が言った。
「私に検案させてくださいませ」
「ならぬ、お主の出番はない。これは高度な政治的判断である」
「──しかし」
「国王陛下の名誉を傷つけるならば、国家反逆罪で投獄するぞ。それでもいいか?」
「いえ、申し訳ありませんでした。王妃様」
侍医の額から汗が一筋流れた。
出て行った侍医のあとに、宰相のベルトリーノがやって来た。
「ベルトリーノ、聞いたか? 王は亡くなった」
王妃が言った。
「お悔やみ申し上げます」
「ふん、結婚式を挙げて以来ずっと白い結婚であった。高級娼館の女がお気に入りで、私を飾り物のように扱っておったわ。ともあれリータの行方を探して連れて帰るのです」
「はい。リータ聖女様の行方を探りたいと思います」
すぐさま宰相は部屋を出て行った。
ベネデッタ王妃はベランダに出た。
眼下の薄暗い王都を見て思った。
リータはこのバルティカ王国の希望そのものだったと。
(リータ、戻っておいで。あなたがいないと愚痴を聞いてくれる人がいなくなるのよ。寂しいわ。私の愛する娘、リータ……)
遠くの丘の上で王宮を見ているリータとクリスピーノ。
傍らに二頭の馬がいた。
クリスピーノは目を細めて、王宮のシルエットを目に焼き付けた。
『クリス、今夜が危ない。あの男の毒牙からリータを守っておくれ』
ベネデッタ王妃の言葉が頭の中に蘇った。
(王妃様、ご命令通り聖女様を守りました。またいつかどこかで会いましょう)
リータは鐙を踏んで馬に乗った。乗馬は地方で患者を見るために習っていた。
それを見てクリスピーノも馬に乗った。
「クリス、行くわよ」
「……シェフィールドへ?」
「まさか。今頃、早馬で国境の警備はアリの子も通さないわよ」
「では……」
「独立国家になりたいと、バルティカ王に進言した“北の辺境伯”のところに身を寄せるつもりよ」
「……わかりました。どこまでもお供いたします」
二人は街道から外れた道を行った。
馬の手綱を取ったリータは、後ろ髪を引かれる思いだった。
――本当は今すぐにシェフィールド海洋国家に飛んで行きたい。ジェラルド王太子の顔が見たい。でも、私が行くことでバルティカ王暗殺の背後にシェフィールド海洋国家が関わっていると思われてはいけない。それこそ戦争になってしまう。ごめんなさい、ジェラルド。いつか、きっとあなたの元に帰るから。その日まで、絶対に離縁しないでね。
リータは夜明けの東の空を見た。
その向こうには、シェフィールド海洋国家があった。
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