〔3〕
店と店の間にある路地裏に入り込んだところで瑞樹が立ち止まった。男に腕を掴まれ、必死に言い募っている。
「大丈夫だ、なんでもない。なんでもないから」
「いやまあ、とりあえず一緒に来て――って、おおおお?」
「え?」
暗い表情で俯いていた瑞樹が、ぱっと顔をあげた。
男の腕を掴んで瑞樹から引き離した葦厨を眼鏡越しの瞳が捉えと、唖然としたように小さな口が開かれ、そのまま固まった。
「誰だあんた。彼女になにか用か?」
「はあ? あんたこそ誰だよ? なに、この人の知り合い?」
胡散臭そうに問いかけられ、一瞬、答えに詰まる。けれど、次に飛び出た言葉は、自分でも予想外だった。
「彼氏だよ」
「――は?」
あんぐりと口を開けた男が、自由な方の腕を上げ、震える指先で葦厨を指し示す。
その後、唐突にぐるっと首をめぐらせたかと思うと、なぜか瑞樹を凝視した。
「あ、あんた彼氏なんかいたんですか!?」
声まで震えている。その気迫に飲まれたのか、こちらも目を白黒させていた瑞樹が曖昧にうなずいた。
「え、あ、ああ。うん?」
「は――マジか!? ええええ、マジかよ!? うはははは!」
突然、笑い出した。腹を押さえながら、瑞樹と葦厨を交互に見遣る。なにがそこまでおかしいのか、目じりに涙まで浮かべるありさまだ。
「おい」
とうとう痺れを切らして声をかけると、男は葦厨の不機嫌顔にも怯むことなく「いやーすみません」と実に軽く謝った。
「やべえ、今年一番の笑いだったわ。あ、怪しいものではないし、一応、この人の知り合いなんで、離してもらっていいですかね?」
ちらりと瑞樹をみると、小さくうなずいている。知り合いというのは確からしい。
拘束を解くと、男はやれやれと言いたげに腕をさすって瑞樹に向き直った。
「なんとなく状況はわかりました。オレはこれで帰ります。打ち合わせの時間はまた連絡しますんで」
「え、ちょっとま」
「色惚けおおいに結構ですが、締め切り破りはかんべんですよ、じゃ、お疲れでーす」
まったく未練を残すことなく、男は言いたいことだけを言い切って、さっさと立ち去ってしまった。どちらかというと瑞樹の方が名残惜しそうに去っていく背中を見送っている。実際には瑞樹の彼氏でもなんでもない自分がこんなことを思うのはお門違いとわかっていても少し悔しい。
「すみません、余計な真似をしてしまったみたいで」
「え、いや、そんなことは……その、助かった。ありがとう」
ようやく振り向いたと思った瑞樹が、どこか慌てたように俯いてしまった。
意地の悪い言い方をしてしまったことを途端に後悔した。二週間ぶりの姿は、少しやせたように思える。
「ちゃんと食事、されてますか?」
「……あ、その……ええと……栄養補助食とか、は……」
食べていた、と口ごもりながら呟く。どうやらやせたと思ったのは気のせいではなかったらしい。
「店に来てくれなくなったのは、この間、おれがおかしな真似をしたからですか? でしたら、ホールにはもう出ないので食べに来てください」
ふっと口元に苦い笑みが浮かぶ。厨房から出なければ瑞樹と店で会うことはほぼ無くなるはずだ。それなら瑞樹も店に来やすいだろう。振られる覚悟はとっくに出来ている。
「ちが……違うっ、そうじゃない!」
「……瑞樹さん?」
瑞樹が声を荒げるのはかなり珍しい。自分でも戸惑っているのか、前髪をくしゃりと握り泣き出しそうな顔をする。
「あの、さっきの人は担当編集者で」
「え、ああ……編集者?」
編集者ってあの編集者か? そういえば、祖父が出版社の株主だといわれたことを思い出す。
瑞樹も出版関係の仕事についているのだろうか? と、霞む頭でぼんやり考えるものの、どうにもうまく思考がまとまらない。
「葦厨さん……突然こんなことをいっていいものかすごく、悩んだんだが――きいて欲しい」
「……? はい」
先ほどから急に身体を動かしていたのがよくなかったのか少し眩暈はしたが、瑞樹のただならぬ様子に拒否することはできなかった。
ぱっと振り仰いだ瞳は、言葉とは裏腹に不思議なほど迷いがない。
「葦厨さんに会うと、うれしくて、でも……苦しくて。こんな風に思うのは初めてで。だから、そのつまり……」
言いよどむ瑞樹の白い頬がみるみる紅くなっていく。
まさか、という気持ちはたっぷりあったが、さすがに何を言われているのか察せないほどに葦厨も鈍くはなかった。
「葦厨さん――わたしは、あなたのことが、好きなんだ」
思わぬ告白は、あまりにも葦厨にとって都合のよすぎる展開だった。ふと疑惑がよぎる。
――まさか、熱のせいだったりしないよな? つまりこれは――夢か?
そう思ってしまえば、自分の願望が見せた都合のよい夢としか思えなくなる。頭は相変わらずぼんやりしているし、どうにも現実感が薄い。
瑞樹はこわばった様子で黙り込んでいる。思考に霞がかかったようだ。ぼんやりと見下ろすさきには俯いた瑞樹のつむじがある。
ふと、魔がさした。そうとしか思えない。
「キスしたい」
「――え?」
零れ落ちるんじゃないかというほど見開かれた目に見上げられた。
「するのは駄目? じゃあ、してくれる?」
「え? ええ……っ」
葦厨の無茶な要求におろおろとする瑞樹の頬は真っ赤だ。元凶である葦厨はといえば、ああ可愛いな、等と暢気に考えていた。
しばらくの後。おもむろに眼鏡を外した瑞樹が、ふいに葦厨のシャツを掴んだ。控えめだったが、確かに引き寄せられ、葦厨は為されるがままに上体をかがめる。柔らかな感触が掠めるように唇にあたった。
どうにか保っていた理性の糸が、完全に焼ききれた。
離れていこうとしていた瑞樹の後頭部を左手で押さえ、噛み付くように口付ける。
「……っ、……ん!? んん……っ」
葦厨の胸を細い腕が押し返そうとしていたが、わずかに開かれた唇に舌を差し入れたところで抵抗が止んだ。
淫靡に響く濡れた音が、葦厨の欲を煽っていく。ほんの数歩先、人の行き交う街路とは隔絶されたかのように薄暗い路地裏で、葦厨はまさに熱に浮かされていた。
「ふ……んん」
苦しそうな吐息に違和感を覚えたのは、甘い唇を散々に味わった後だった。
そういえば、おずおずと反応してはくれているものの、積極的とは到底言いがたい。
腰にまわした腕はそのままに少しだけ体を離す。どうにか会話できるだけの距離。普段では考えられないような近さだ。
「……?」
潤んだ瞳が困惑したように葦図を見上げている。
ちょっと首をかしげる瑞樹にますます違和感は増していく。ああ、眼鏡か、と思い至る。
夢に見る瑞樹はいつも眼鏡姿だったのだが、いまは裸眼だ。いつも眼鏡を掛けている瑞樹しか見ていなかったから、夢でも自然とその姿だったのだろう。
なんだかひどくまずい予感がした。
「……えーと……瑞樹、さん?」
「……はい」
小さく肯き返す姿はどこまでも控えめだ。
――これは、現実だ。
事此処に至ってようやく、己がとんだ失態を犯してしまったことを悟った。ざっと血の気が引く。
「――葦厨さん? あの……なんだか顔色が悪い気がするんだが……ちょっと失礼」
そっと伸ばされた瑞樹の手が、葦厨の額に触れる。小さな手のひらは、ひんやりと心地よい。気遣われていることに、心のどこかでほっとしていた。
「葦厨さん、あなた、熱があるだろう……っ、しかもすごく。どうして出歩いているんだ! ああもう、なんでわたしもいままで気づかなかった、阿呆かっ」
とにかく病院へ、という瑞樹に、さっき行ってきたばかりだと、処方された薬の袋をみせる。ならタクシーを捕まえてくるから、と離れていこうとした瑞樹の腕を咄嗟に掴んでいた。
振り向いた瑞樹は、少し咎めるように眉根を寄せている。けれど心底、葦厨のことを心配してくれているのだとわかった。
とんでもない勘違いで無体を強いてしまった。反省しても反省しきれないし、瑞樹にはきっちり謝るつもりだ。
――ああ、でも、好きだ、と。
自分は彼女に好かれているのか、と思えば自然と口元が綻ぶ。
「葦厨さん? だいじょう……葦厨さんっ」
どうにも無理が祟ったのか、塀に背中を預けてずるずると座り込んだまま、今度は葦厨が身動き出来なくなっていた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「いやあの、頭をあげてほしい……です」
フローリングの床のうえで、葦厨は平身低頭、生涯ではじめての土下座をしていた。傍に座っていた瑞樹が慌てたように手を振っている。
路地裏の出来事から既に四日が経っていた。
あの日、身動きの取れなくなった葦厨が巨大な置物と化した後、救急車を呼ぼうとした瑞樹をどうにか止め、月沖へ連絡をしてくれるよう頼んだのだ。
店の整備点検があり、定休日ではあったが幸いなことに月沖夫妻は店に来ていた。
近場だったため、すぐに車でやってきた月沖に回収してもらい、無事、家に帰ることが出来たのだが、瑞樹とは中途半端な状態のまま別れることになってしまった。完治するまで出勤するべからず、とのオーナー命令により、その後三日間を寝て過ごし、四日目の朝、ようやく出勤した葦厨を待っていたのは瑞樹からの手紙だった。
にこにこと笑う月沖が差し出してきた薄い浅黄色の封筒には、同じ紙で出来た便箋が二枚入っていた。一枚目には、仕事が終わった後に時間があれば私の自宅に来て欲しい、と達筆な字で書かれ、二枚目には瑞樹が住んでいるマンションまでの道筋と部屋番号がこちらも手書きされていた。
仕事を終えた葦厨は夜分に女性の部屋を訪ねることに迷いはあったものの、結局は言われたままに瑞樹の自宅を訪ね――現在に至る。
「大事に至らずなによりでした」
「重ね重ね申し訳ありません。瑞樹さんにうつしてなくて本当によかったです」
「うん、わたしは大丈夫。葦厨さん、もう身体の方は」
「おかげさまですっかり良くなりました」
頭を上げて頷くと、瑞樹がほっと息をついた。
通された客間は、全体的に和風のインテリアでまとめられていた。落ち着いた色合いの中に瑞樹はしっくりとなじんでいる。
だが、女性の一人暮らしにしては間取りが広い。内装や家具も質の良いものが揃っている。
ふと、眼鏡の奥で瑞樹の視線が泳いだ。どうしたのかと思っていると、やけに緊張した面持ちで口を開き――。
「――具合が悪い時に……その、おかしなことを言ってすまなかった。……あの……それで、わたしは……振られたんだろうか」
「――は?」
しおしおと俯いた瑞樹から何を言われたのか、一瞬本気でわからなかった。
「あの後、色々考えたんだが、葦厨さんはわたしを誰かと勘違いしていたのではないか、と思い至った」
間違いではないが、間違っている。勘違いは確かだが、しっかり瑞樹だと認識していた。ただ、夢ではないかと思っていただけだ。
「違います」
「違うのか」
心底驚いていると言わんばかりに目を見開かれ、頭を抱えたくなった。とんでもない誤解だ。
「ちゃんと瑞樹さんだとわかっていて抱きしめたし、キスもしました」
ずいぶんみっともないところを既に見せてしまったし、もうこれ以上取り繕ったみても仕方がない。
「……そ、そうか」
瑞樹の頬が見る見るうちに赤くなっていく。葦厨は深く息を吸い込んで居住まいを正した。
「瑞樹さん、もしまだ気持ちが変わっていないのなら、おれを貴方の彼氏にしてくれませんか?」
「……かれ、し」
潤んだ瞳が呆然と葦厨を見返している。強い意志に、まっすぐ見つめてくる迷いの無い一途さ。その中に滲む追いつめられたような焦燥感。
――ああ、変わらないな。
最初の出会いで葦厨が心惹かれた瑞樹だ。
「わたしは、友人に言わせると、いや、自分でもわかっているんだが、かなり面倒くさい奴らしい。それでも、良いだろうか?」
「他の人にとっては面倒でもおれにはそうじゃないかもしれないし、そうだとしても瑞樹さんがいい」
「……いまさら、こんなことをいうのは卑怯なのかもしれないが、この間の人は編集者で」
「ああ、たしかにそう言ってましたね」
もしかすると出版関係の仕事をしているのかもしれないが、別段、付き合う上で問題はないはずだ。
しかし、こくりと咽喉を鳴らして口を開いた瑞樹から飛び出したのは予想外の告白だった。
「椿将然という名で、小説を書いている。――つまり、椿将然はわたしなんだ」
「――椿将然? ええと……瑞樹さんが?」
生真面目な面持ちでまっすぐに葦厨を見つめる瑞樹が冗談を言っているようにはとても思えない。
間違いなく事実を話しているのだろう。あまりにも最近聞いた作家名に、しばし呆然とする。
だが、これまで頑なに職業を言おうとしなかった理由がようやくわかった気がした。 そういえば店で椿将然の名前が出たときにも、瑞樹の様子は少しおかしかった。
「プロフィールは完全に非公開だし、一社でしか書いていないから担当さんはこの間の人――片倉さんというんだが、一人だけだし、私の素性を知っている人はほとんどいないから証明は難しいんだが――これを」
ローテーブルの天板下に設えられた引き出しから取り出された紙の束が、すっと葦厨の前に差し出された。
右端に紐を通してまとめられた四百字詰め原稿用紙の一番上に目を落とす。
[猿は密林で啼く 椿 将然]
間違いようもなく、黒インクでしっかりくっきり書かれていた。達筆な文字は、手紙に書かれていたものと同じだ。
「新作なんだ。この間、片倉さんに渡したものの原本で、多分、三ヶ月後くらいには出版されるはずなんだが」
やっぱり真偽の証拠にはならないかな? と自信なさげに瑞樹が呟く。
「いや、なんというか――大丈夫です。色々納得しました。店に来られなかったのは仕事が忙しかったからですか?」
驚きつつも尋ねると、くしゃりと前髪を握り締めて、どこかばつが悪そうに瑞樹は苦笑した。
「うん、葦厨さんに抱きしめられて、頭の中がまっしろになって――それで原稿がまったく手につかなくて――葦厨さんのことばかり考えてることに気がついた。でも仕事はやらなきゃいけないし、けれど、とうとう締め切りが過ぎてしまって引きこもっていた。実は締め切りを破ったのは初めてだったんだ。どうにかあの日、仕上げたんだが、片倉さんに色々尋ねられて、でも答えられずに逃げ出したところで葦厨さんと出くわした」
つまるところ諸々の原因は葦厨自身だったわけだ。が、しでかしたことのツケを払った葦厨とは違い、瑞樹はとんだとばっちりだ。
「それは、なんというか――すみません」
「謝らないでくれ、葦厨さんはなにも悪くないよ」
慌ててた様子で瑞樹が手を振る。こうしているとごく普通の二十代女性だ。血と暴力に彩られた骨太なバイオレンスを書いているのは少し不思議な気がした。
「ひとつ聞いても良いですか?」
「なんでも聞いてくれ」
「瑞樹さんは、どうしてバイオレンス作家に?」
「どうして、か……」
不躾な質問かと思ったが、瑞樹は特に不快そうにするでもなく、真剣に考え込んでいる。
素性を知る人間が限られているのなら、あまりこういう問いには慣れていないのかもしれない。
「――うん、月並みだけど書くことが好きだから、だと思う。バイオレンスを書くようになったのは、たぶん祖母が好きだった影響だな。昔から読むのも書くのも好きだった。読んで、見て、きいて、考えて、書きたくなる。それは私にとって息をすることに等しかったから」
衒いなく、好きなものを好きだと瑞樹はきっぱり言いきる。どこまでもまっすぐな気性は、決して自分には持ちえないものだ。だからこそ、こんなにも焦がれるのかもしれない。
「芯から作家さんなんですね」
「うーん、それがそうでもない」
困ったように苦笑する瑞樹に、首をかしげる。
「実は、デビューしてしばらく経った頃、家人に小説を書いていることがばれてしまったんだ。まあ、色々あって家を出たんだが、その後なにを書いても気に入らなくて。どうにか締め切りだけは守っていたけれど、駄目な時期が一年くらい続いたかな」
「スランプですか?」
「そうだったと思う」
「どうやって抜け出したか聞いても?」
瑞樹の瞳がやや見開かれ、ついで、ふっと笑い出した。
「――それは葦厨さんが一番知っている」
「おれが?」
葦厨が瑞樹に関して思い当たることといえば――。
「まさか、カッサータ?」
「正解。最初に言っただろう? 葦厨さんのカッサータは私に幸せをくれた、と」
確かに言われた気がする。たが、込められた意味の重さがそこまでとはさすがに思ってはいなかった。
「あの、わたしはこんな風だし、多々迷惑をかけることになると思う。それでもいいだろうか?」
決意したようにぐっと顎をあげた瑞樹は、葦厨に問うと、きゅっと唇をかみしめた。膝に置かれた両の拳が微かに震えている。
その小さな手を、葦厨はそっと握りこんだ。
「瑞樹さんが好きだ」
紅く染まった滑らかな頬の上を涙の雫がひと粒転がり、葦厨の手の甲にぱたりと落ちた。
「わたしも葦厨さんが好き、です」
まさにとろけるような至福の笑み。
咄嗟に湧いた貪りたいという衝動を押さえ、華奢な体を腕の中に囲い込む。
大人しくされるがままになっている瑞樹から眼鏡を外し、薄く開いた紅い唇にゆっくりと口付けた。
「いやあ、よかったねえ、葦厨くん」
瑞樹の自宅に呼ばれた次の日、開店の準備をしながらにやにや笑う月沖に、葦厨は仕込みの手をとめることなくちらりと一瞥をくれた。
凄みが増す、とよく言われる苦い顔をしてみるが、長い付き合いの月沖はどこ吹く風だ。
「なにがですか」
「だってほら、瑞樹さんと上手くいったみたいだから。一時はどうなることかと思ったけど、よかったよかった」
何故わかる、と言いたいところだが、月沖の勘のよさなら当然か、と軽く息をついた。
「今回は色々ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「どうしたしまして。葦厨くんの荒れっぷりを知ってる身としては、ほんと感無量だよ」
布巾を握り締め、しみじみ呟かれる。高校時代、月沖の悪友がこっそりと、あいつ実はおかん属性なんだよ、と密かに耳打ちしてきたことがあったのだが、まさにその通りだ。
鼻歌交じりの上機嫌でホールへ向かう背中に、普段なら決していえないだろう言葉を口にする。
「月沖さん。ありがとうございます――感謝してます」
肩越しに振り返った月沖が、首をかしげた。
「ん? 何か言った?」
「いえ、なんでも」
ふっと笑って葦厨が仕込みに戻ると、月沖もまた、何事もなかったようにホールへと出て行った。
――月沖に拾われなければおそらくいまだに荒れた生活をしたままだったろう。月沖夫妻に受け入れてもらい、瑞樹と出会い――くだらないと思っていた自分の人生だが、そうそう捨てたものではないのかもしれない。
そうして今日もランチの客足が落ち着いた頃。
「いらっしゃいませー」
からりと扉の開いた音に続き、柚流の弾んだ声。
「こんにちは」
それに答える控えめな瑞樹の挨拶が厨房に届き、葦厨の口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
椿 将然のまったく作風の異なる新作が一部のマニアを良い意味で騒がせるのは――これよりも少し後のことだ。