水梨凉子1
PM3:35
その日は、北海道らしい寒い日だった。十二月も中盤を過ぎ、あとはクリスマスを残すだけという時期であるため、窓の外はすっかりと雪化粧をし、窓ガラスも表面が固く凍っていた。もう暫くすると降った雪が根雪となり、銀世界が当たり前のものになる。
こんな寒い日だから、ベッドから出たくなくて休んだのかもしれない。
水梨凉子は頬杖をつき、二、三日前から空席になったままの隣席をぼうっと眺めた。
授業に身が入らず、肩まで伸ばした黒髪を揺らしながら、なんとなく凍った窓ガラスの向こうの景色を見る。
だが、湿気と表面に張り付いた氷に阻まれ、風景などまともに見えはしない。
代わりに、自分と同じ紺のセーラー服を着た少女たちが視界に映る。毛を染めたり、スカート丈を短くしたりと一般的な女子高生らしい姿をした少女はほとんどおらず、ただひたすらに黒々とつやつやした髪たちがまっすぐに黒板を眺めている。
無駄口を叩いたり、よそ見をする人間もいない。極めて静謐に保たれた教室だな、と人ごとのように水梨凉子は感じた。
「水梨さん、何か気になることでもあったんですか?」
あんまりぼんやりとし過ぎたからだろう、担任の女性教師から大きな声をかけられる。
「何でもありません、宮腰先生」
そうは言いつつも、凉子はそれから先もなんだかぼんやりとしていた。
そのままチャイムが鳴り、その日のすべての授業は終了した。木で作られた机を後ろに下げて掃除に備えた後、凉子はぽんと肩を叩かれた。
「リョウコさんではありませんか」
「どうしたのさ、水梨。元気ないじゃん」
黒々とした髪ばかりの中、ロングを茶髪に染め、少しスカート丈を短くしているリョウコの姿は、集団の中では少し浮いていた。だが、リョウコは一向に気にしない。鞄をぶら下げながら、一緒に帰ろうとでも声をかけたのだろう。
「同じ『リョウコ』同士じゃん、何あったのさ、言ってみ?」
茶髪の女の子は水梨涼子。そして、凉子は水梨凉子という名前である。同じリョウコでありながら、にすいとさんずいの違いがある。しかし音では同じであり、水梨涼子はかなり気楽に凉子に話しかけてくることが多かった。凉子は割と気楽に話をできる水梨涼子とタイプは違うがよく話をしていた。
「実は、隣に座っている津森さんのことなのですが、この二、三日学校に見えられていないようなのです。何かあったのか、と思ったのですが」
「ああ……」
リョウコの顔が曇った。事情を知っているようだ。
「お風邪でも召されたのでしょうか」
「あのさ、凉子ってば結構、ひなと仲良かったよね?」
「そうですね、お昼はいつも一緒に食べていました」
リョウコはうーん、と考え込むと、切り出した。
「ここで話すのは、ちょいとまずいと思うんだよね、噂が立つと、アタシが悪いみたいじゃん」
リョウコは小声で話した。
「よもや、あまりいい話ではないのでしょうか」
凉子も口に手を当て、眉を顰めた。
「……まあね。どうせ帰り道一緒だし、途中に喫茶店あるじゃん、そこで話すよ」
「了解しました」
学校で話すのを渋るほどに大変なことに巻き込まれているのだろうか。凉子は津森が少し心配になった。
津森ひなは、同級生にしては少しばかり背丈が低く、どこか幼い印象を受ける少女だった。あどけない表情とけがれを感じさせない印象で、凉子とも馬が合い、サイドにお団子にまとめた髪がとてもかわいいと凉子は思っていた。
だが、ここ二、三日どころか、一ヶ月ほどは様子がどこかおかしかった。
授業中、机に隠れて携帯電話のメールを打っていたり、休み時間中誰かと電話をしていたり。そして、時々、以前は見せたこともない大人びた表情を見せたりもしていた。だがその変化を面と向かって指摘するのもどうかと思い、凉子は先送りにし続けていたのである。それが、この二、三日続いた休み。ただの風邪ならいいのに。そう凉子は思っていた。
だが、喫茶店に入ってからリョウコが言った事実は、凉子にとってはあまりにも衝撃的だった。
「き、休学とおっしゃいましたか?」
「うん、そう言ったよ。津森ひなは二日前に休学したよ」
リョウコは落ち着いた様子で返した。だが、動揺した凉子は水をこぼしてしまった。慌てて店員が拭きにやってくる。
「驚きました。学校ではし辛い話というのも、よくわかります」
「そうでしょ。ただでさえ転入生だからあんたは目立つんだし、アタシもこんな格好だから浮いてるしで、これ以上嫌な材料を作りたくなかったんだよね。菫女の連中は噂好きだしさ」
はあ、と凉子は溜息をつき、チョコレートパフェを注文した。
「確かに、津森さんに不利な材料を作るのは、好ましくありませんね」
「……まあ、アタシたちも、なんだけどね。で、あんた何注文するの?」
「目下考え中です。ゆるりとお待ちを」
「了解。ここは何食べても割とおいしいんだよね。ま、ウェストには優しくないけどさ」
ははは、とリョウコは苦笑した。
「そんなことより、津森さんはなぜ休学なさったんです? 私には皆目見当が付きません」
「だよね。様子がおかしかったってのは、知ってた? まあ、理由まではわからなかったと思うけどさ」
「はい。この一ヶ月ほど、何だか以前の津森さんとは違う印象を受けました」
「そうさ、あの子が『ラヴガン』に関わり始めたのが、だいたいそのくらいだから、いい線行ってるよ」
じっとリョウコは凉子の顔を見た。
「なるほど。そして、『ラヴガン』とは何でしょう、リョウコさん」
「『ラヴガン』てのはさ、すすきのにライブハウスとクラブの合いの子みたいなトコがあってさ。そこの名前が『LoveGun』って言うんだけど、そこでやってるサークル活動っていうか、そういう連中のことさ」
凉子は眉を顰めた。あまりいい話ではないと感じたからだ。
「あ、私は木イチゴのワッフルにします。そして、その活動は何を」
「条件、ワッフル一口。あ、こっち食べる?」
そう言ってリョウコはスプーンを差し出した。
「それでは一口貰いますね」
「どーぞどーぞ」
チョコレートパフェはしつこくない甘さで、あまり甘党ではない凉子の舌にもよくあった。
「おいしい」
「でしょ」
そう言うとリョウコは携帯電話をいじり始めた。凉子は携帯電話にどうにもなじめず、テーブルに携帯電話を出して応対されると、何を切り出していいかわからずにおろおろした。結果、黙って水を飲む。
その内に木イチゴのワッフルが運ばれ、すぐさまリョウコに差し出した。
「あー、おいしいじゃん。今度はこれ頼もう。で、『ラヴガン』が何をやってたか、って話だよね」
「そうです」
「あのさ、願いごとを叶えてくれるんだってさ」
「え?」
凉子はリョウコの言っている意味がわからなかった。
「だから、願いごとを叶えてくれるサークルなんだってさ。でも、一つ条件があってね」
眉唾ものだなあ、と凉子は思いつつも、リョウコに言葉を返す。
「条件とはなんでしょうか」
「キス、だよ。アタシたち女子高生の、キ、ス」
またも焦って凉子は水をこぼしてしまった。慌ててまた店員が水を拭きに来る。
「い、いやらしい」
「そう? でもキスだけでどんな願いでも叶うって話だよ。たとえば、高級車一台とか、すっごい大会社に就職してる彼氏とか、遊園地の貸し切りとか」
占いとか、宗教の類いかと思えば、やけに具体的な話だった。どうやら嘘じゃないようだ。
「たしかにそう考えると、キス一回とは見合わないようなよい話ですね」
「でしょ。割り切りとかじゃなく、キスだけだからね。キスするだけですっごい対価が得られるんだよ。そして、特に菫女が人気あってさ」
「津森さんが、それにハマッた、ということでしょうか」
リョウコは頷いた。
「そう。相手は大会社の社長とか、議員とかが多くてさ、中には割とイケメンな奴とかがお金積んで頼むってこともあるらしいけれど、基本的にはキス以外にリスクがないんだよね。そしてその上ですっごいちやほやしてくれるし、お金もくれるし。かなりいい感じみたいだよ」
そうは言いつつも、リョウコはどこか不満を宿した口調だった。
「でも、そのようなおいしいだけの話では、ないのでしょう?」
リョウコはゆっくりと頷く。
「二度、三度とすっごいお願いを叶えてくれるとさ、だんだんとキスだけでいいのかなって思うんだってさ。もしくは、もっとすごいことをしたら、もっとすごい思いをできるんじゃないか、って」
自分と同い年の女の子が考えるもっとすごいこと。それは……。
「そうやってズルズル行くとさ、まあ、最後まで行っちゃった上、愛人っていうか、まあそういう状態になる子も多いみたいで。ひなが休学したのは、そういう状態になったからだって話だよ」
その瞬間、凉子はかっとなった。同時に突然その場に立ち上がる。黒くつややかな髪が揺れた。
凉子は、津森ひなの頬を張って目を醒まさせよう、そう思った。
「私、決めました。その『LoveGun』に参ります」
リョウコは唖然とした顔をした。そして、少し声を荒げた。
「ちょっと、やめときなって! そもそも行ってどうするのさ!」
「津森さんを連れ戻します!」
リョウコは頭を抱えた。凉子は目が二重でぱっちりとし、顔の作りも非常にきめ細かく、整っており、どこか魔性を感じさせるほどにうつくしい少女だった。だが、見た目と裏腹に、凉子は言い出したら頑として聞かない頑固な面がある。
「『ラヴガン』はさ、『ドゥエンデ』っていうグループの、畦原あゆみって女がやってるんだよ。って言っても知らないか……」
「存じません」
リョウコは溜息をついた。
「『ラヴガン』はだいたいちょっとでも耳ざとい女子高生ならみんな知ってることさ。でも、それを畦原あゆみがやってるって話は、全然知られてない。いいかい、畦原あゆみは、狂ってる」
「狂っている、と申しますと……」
「事実かどうかは知らないけどね、『ラヴガン』から娘を取り返そうと両親が揃って『LoveGun』にどなり込みに行ったら三日後に、公園のトイレで二人仲良く首を吊ってたってさ。踏み台も何もない上、遺書もなかったって話だよ」
凉子は青ざめた。
「こういう話、一つや二つじゃないんだよね。だから言ってから言うのもなんだけど、関わらない方がいいよ。ひなは諦めなよ。本人の責任だと思うしかないよ」
重苦しい口調でリョウコは言った。無理もない。情報を知っていればいるほどに、この件に関わるのは危険だとわかる。それでも凉子は、自分の考えを曲げなかった。
「よくわかりました。本日はお話、どうもありがとうございました」
にこりと凉子は笑うと、そのまま会釈して喫茶店を出た。
さて、これからどうしよう。とりあえず、『LoveGun』の場所を見つけなければ。
マフラーを巻き、手袋を身につけ、凍えそうな寒さの中、凉子は雪が舞う最中を歩き出した。歩く度に、雪は軋んだような音を立てた。
ここから少し歩いたところに本屋がある。そこで地図を買うのが手っ取り早い。ついでに本の立ち読みもしていきたい。
しかし、寒い。コートを通しても寒さが伝わってくる。思わず足を止め、息を吐いて手を温める。
すると、かなり後ろの方で足音が止まったのがわかる。雪道であるために踏みしめられた音がかなりはっきりとわかるのである。
気のせいだ、と思った。だが背後の足音は神経を凝らせば凝らすほど、自分にぴったりと付いてきているように感じた。
その内に信号が赤に変わる。もし、意図的に距離を離して付いてきているのなら、自然に歩が少しは詰まるはずだ。
目の前を車が横切っていっても、そちらには一切気を払わず、凉子は自分の後ろにばかり気を向けた。
気のせいかも知れない。それでも、先ほどのリョウコの話が妙に現実味を帯びてくる。
「公園のトイレで二人仲良く首を吊ってたってさ」
それはつまり、自殺ではなく、殺されたということ。もしかして、それを知ったために自分も殺されるかもしれない。そんな妄想めいた恐怖が、いつのまにか凉子の中にうず巻いていた。
怖い。
恐怖から逃げ出したい。
その感情が、追われているかもしれないという恐怖と綯い交ぜになり、まだ赤だというのに、飛び出そうとした。
しかし、その時、凉子はがっちりと肩を掴まれた。手袋越しでもわかる、大きく分厚い手。
見れば、かなりの年配で、ゴムの長靴を履き、分厚そうな帽子を被った男性が、凉子を制していた。
「危ないよお嬢ちゃん。滑ったのかい?」
優しそうな風貌。どう見ても凉子を追いかけ回すようには見えない。
「ごめんなさい。気をつけます」
凉子は軽く会釈する。
そして、青になった瞬間、凉子は猛然と走り出した。
空気は鉛のように重く、冷たく、肺を刺す。そんな空気を肺腑いっぱいに吸い込みながら、凉子は走った。
しかし、次の瞬間、走り出したことが間違いでなかったことがわかる。
背後から、走って雪を踏みしめる音が聞こえてきたのだ。
そう、本当に追われていたのだ。
振り返ると、そこには二十代そこそこの女がいた。茶髪は肩口まで伸び、二重で目が大きく、やや色素が薄い。そして、どこか白く艶めかしい感じがした。
そんな女性が、ブーツを踏みしめ、猛然と走ってきていたのである。
凉子は焦りに焦った。何ごとが起きたのかはわからない。それでも、非常にまずいことが起きたことはわかる。
だが、運が助けてくれた。
「おおい、待ってくれー!」
背後から声がする。見れば、先ほどのお爺さんが走ってきているではないか。何かあったのだろうか。しかし、今は追われている身だ。追いつかれるわけにはいかない。
百メートルほども走っただろうか。運がさらに助けてくれたのだろう、交番がある。交番の手前でなら、相手も手出しはできないだろう。
凉子は立ち止まると、お爺さんに駆け寄った。いつの間にか、女はいなくなっていた。
「突然、走り出さなくてもいいじゃないか。お嬢ちゃん、落としものだよ」
見れば、鞄に入れていたお守りをお爺さんが握りしめていた。
「ありがとうございます」
「いやいや。いいんだよ。気をつけなさいね」
そう言って、お爺さんは人の良さそうな笑みを浮かべると反対方向へと歩いて行った。
手間を掛けてしまった。凉子はその足で書店によると、地図を買った。そこには、『LoveGun』の場所が書かれていた。