くねくね
「藤井。お前の後ろにいるのは誰だ?」
佐伯先生にそう聞かれたとき、僕はてっきり、祖母が座敷へ入ってきたのだと思った。
七月の終わりだった。
窓の外では、朝から鳴き続けている蝉の声が、ガラス越しでも耳に痛いほど響いていた。畳の上に置いた扇風機は頼りなく首を振り、生ぬるい風を送ってくる。座卓には、学校から支給されたタブレットと、氷の半分ほど溶けた麦茶が置かれていた。
画面には、二年三組の生徒たちの顔が格子状に並んでいる。
カメラを切って名前だけを表示している者もいれば、自室を見られたくないのか、南国の海や宇宙空間を背景にしている者もいた。寝起きなのか、画面の外へ顔を半分隠している者もいる。
その中で、僕だけが古い日本家屋の座敷から参加していた。
佐伯先生は自分の画面へ顔を近づけ、目を細めている。
「後ろって、ばあちゃんですか」
『いや、窓の外だ。白い服の人が立っているだろ』
反射的に振り返った。
背後の窓は開いていた。網戸の向こうに庭があり、その先には田んぼが広がっている。
夏の日差しを受けた稲が、細かな波を作りながら揺れていた。田んぼの中を横切る農道には誰もいない。道の端に立っているのは、錆びた標識と鳥除けの細い棒だけだった。
「誰もいませんけど」
『もう少し右だ。農道の手前』
言われた辺りを見る。
そこには、背の高い稲が密集しているだけだった。
「見えません」
すると、クラスメイトの新田が笑った。
『先生、それ、背景ぼかしの失敗じゃないですか。藤井の窓、白くにじんでるし』
僕は座敷の中を見られたくなかったので、背景を弱くぼかしていた。ただし、処理は柱や障子を曖昧にするだけで、窓の外まではうまく認識できていなかった。
『藤井、一度ぼかしを切ってみろ』
佐伯先生に言われ、設定を変更した。
輪郭の曖昧だった柱や障子が、急に鮮明になる。窓の外では、稲の一本一本まで見分けられるようになった。
やはり、人らしいものはどこにもいなかった。
「何もいないですよ」
『おかしいな。さっきは確かに立っていたんだが』
佐伯先生は納得していない様子だった。
そのとき、接続が一瞬だけ乱れた。
生徒たちの顔が四角い色の塊に崩れ、声が水中から聞こえるように歪んだ。僕の画面も停止し、窓の外の田んぼが静止する。
ただし、画面の右端にあった細長い白い染みだけは、止まらなかった。
腰にあたる辺りを一方へ折り、上部を反対側へ倒すように、ゆっくりと形を変えていた。
映像はすぐに元へ戻った。
同時に、白い染みも消えた。
『回線が不安定みたいだな。とりあえず授業を続けるぞ』
佐伯先生は咳払いをして、教科書へ視線を落とした。
僕もノートを開いた。
けれど、それから授業が終わるまで、背後の窓を意識せずにはいられなかった。
田んぼから吹いてくる風は生ぬるかった。
網戸が小さく鳴るたび、誰かが窓枠へ指をかけたように思えた。
◇◇◇
その夏、県内では記録的な猛暑が続いていた。
僕たちの通う高校では、古い校舎の空調設備が故障し、交換用の部品が届くまでの三日間、授業をオンラインで行うことになった。
僕が祖母の八重と暮らしている家は、町の外れにある。
母は僕が中学生の頃に亡くなり、父は仕事の都合で県外に住んでいる。そのため、高校へ通いやすい祖母の家で暮らすようになった。
家の表には細い県道が通っているが、裏手には田んぼと山しかない。夜になれば街灯もほとんどなく、窓の外は墨を流したように暗くなる。
祖母は、昔から日が暮れる前に雨戸を閉めた。
晴れた日でも、夏の夕方だけは必ず閉めた。少しでも遅くなると、夕食の支度を途中で止めてまで、家中の窓を確認して回った。
理由を聞いても、祖母はまともに答えなかった。
「暗くなったら、田んぼを見る必要はないからね」
いつも、そう言うだけだった。
子供の頃の僕は、祖母が暗闇を怖がっているのだと思っていた。
しかし、実際に祖母が恐れていたのは、暗闇そのものではなかった。
暗くなることで、遠くにあるものの形が分からなくなること。
そして、人がその分からない形を想像で補ってしまうことだった。
◇◇◇
オンライン授業が終わると、クラスのグループチャットへ一枚の画像が投稿された。
投稿したのは新田だった。
『先生が言ってたの、これじゃない?』
授業中の画面を保存した画像らしい。
中央には、先生に呼ばれて少し困った顔をしている僕が映っていた。背景には座敷の柱と障子があり、その向こうには開いた窓がある。
そして窓の外、田んぼの中に、白いものが立っていた。
輪郭は背景ぼかしによって大きく崩れている。
白い布を縦に裂き、稲の上から垂らしたようにも見えた。しかし、下部には二本に分かれた脚のような形があり、上部は人間の頭ほどの大きさに膨らんでいた。
クラスメイトたちは、案山子ではないか、白い服を着た人間ではないかと好き勝手に書き込んだ。顔があるように見えると言う者もいた。
僕は座敷の窓辺へ行き、改めて田んぼを確かめた。
午後の日差しの下で、稲は一面に揺れていた。農道を、自転車に乗った近所の老人がゆっくり通り過ぎていく。
白いものは見当たらなかった。
それを伝えると、授業の録画に残っているのではないかという話になった。
学校のオンライン授業は、欠席者が後から見られるよう、自動的に録画されている。
やがて、映像研究部の小宮山奈緒が、授業の録画から該当部分を切り出して投稿した。
長さは七秒ほどだった。
再生すると、佐伯先生に呼ばれた僕が、背後の窓を振り返る。
その直前まで、白いものは田んぼの中に立っている。
しかし、僕が外を見ると、稲の中へ沈むように輪郭を失う。
僕が正面へ向き直る。
すると白いものは、先ほどよりわずかに窓へ近い場所へ現れる。
もう一度再生した。
僕が振り返るたび、白いものは見えなくなる。
そして、僕が目を離すたびに、少しだけこちらへ近づいていた。
映像が途切れているのではないかと尋ねると、小宮山は否定した。元の録画にはフレームの欠落がなく、編集もしていないという。
続いて彼女は、白いものの周囲だけを拡大した動画を投稿した。
画質が荒くなり、稲の葉は緑色の塊になっていた。
それでも、白いものが動いていることだけは分かった。
風に吹かれているのではない。
こちらが見ていない隙に、田んぼを進んでいる。
ところが、その脚らしき部分は一度も地面から離れていなかった。
身体を折り曲げるたび、立っている場所だけが変わっていた。
◇◇◇
「おばあちゃん」
夕食の支度をしていた祖母を呼んだ。
祖母は麦茶の入ったコップを盆に載せ、座敷へやって来た。
「どうしたの」
「今日、田んぼに誰かいた?」
「誰かって?」
「白い服を着た人」
祖母の手が止まった。
コップの中で、溶けかけた氷が小さく鳴った。
「どの辺りに」
「あの農道の手前」
「お前が直接見たのかい」
「僕は見てない。でも、オンライン授業の画面に映ってたらしくて」
「拡大したの」
「少しだけ」
祖母は、僕が差し出そうとしたタブレットから顔をそむけた。
「私には見せなくていい。今すぐ消しなさい」
「確認しなくていいの?」
「白くて、遠くにいて、風とは違う動きをしていたんだろう。それ以上は知る必要がない」
「ただのビニールかもしれないよ」
「だったら、ビニールのままにしておけばいい」
「でも、動いてるんだ。授業の録画にも残ってる」
「何度も見比べたのかい」
「うん」
祖母は深く息を吐いた。
「録画も、送られてきた写真も、全部消しなさい」
「どうして」
「遠くの白いものを、近くで見ようとしちゃいけない」
その言葉には、聞き覚えがあった。
暗くなってから田んぼを見るな。
白いものが動いていても、確かめるな。
案山子だと思って忘れろ。
「くねくねってやつ?」
子供の頃、同級生から聞いた呼び名を口にすると、祖母は険しい顔をした。
「名前をつけるんじゃないよ」
「そんな言い伝え、本当に信じてるの?」
「信じるかどうかの話じゃない」
「じゃあ、何なんだよ」
「分からないものを、分からないままにしておくための話だよ」
祖母は、タブレットさえ見ないよう視線を畳へ落とした。
「人の目は、遠くのものをはっきり見られない。白い布か、人か、獣か、それとも別のものか、決めずに済む。こちらが正体を決めないうちは、向こうも人の形を持てない」
「向こうって?」
祖母は答えなかった。
代わりに、タブレットを裏返すよう僕へ促した。
「けれど、その機械は違う。遠くにあるものを、すぐ近くまで持ってくる。見えないはずのものまで、見える形にしようとする」
「画像が荒すぎて、何かなんて分からないよ」
「なら、それでいい」
祖母は言った。
「分からないなら、分かろうとしないことだよ」
◇◇◇
しかし、すでに小宮山は動画の高画質化を始めていた。
彼女が使っているソフトは、荒れた映像から輪郭や細部を推測し、自然な画像へ補正するものだった。
もちろん、本当に元の映像を鮮明にするわけではない。欠けている部分を人工知能が予測し、それらしい形に描き足すだけだ。
僕はそう説明し、処理をやめるよう伝えた。
けれど、小宮山は深刻に受け取らなかった。
『本物を当てるわけじゃないよ。何パターンか出して、元の映像に近いものを探すだけ』
『探さなくていい』
『気になるじゃん』
『見えないものを、勝手に人の形にするかもしれない』
その文章を送ったあと、祖母が座敷の入り口に立っていることに気づいた。
「何をする機械だって?」
「荒くて見えないところを、たぶんこうだろうって予想して描くんだ」
「予想する?」
「本当の形が分かるわけじゃないよ。機械がそれらしく作るだけ」
すると、祖母の表情から血の気が引いた。
「それじゃ、一番悪い」
「どうして」
「人が見なくても、その機械が形を決めてしまう」
「ただの偽物だよ」
「正しいかどうかなんて、あれには関係ない」
祖母は座敷へ入り、開いていた窓を閉めた。
網戸の向こうでは、稲が風に押されて揺れていた。
「形を与えられたら、あれはその形に合わせてくる」
◇◇◇
一時間ほどして、小宮山から四枚の画像が投稿された。
どれも、同じ白いものを高画質化したものだった。
最初の画像では、白い農業用シートが棒に絡みついているように見えた。
次の画像では、白い服を着た人間が俯いていた。
三枚目は、両腕を広げた案山子に近かった。
しかし最後の画像だけは、既知の何かへ当てはめることが難しかった。
胴体らしきものは、途中で何度も折れ曲がっている。腕と脚の区別も曖昧で、細長い部分が互いに絡み合っていた。上部には人間の頭に似た白い塊があったものの、顔にあたる場所は滑らかで、目も鼻もなかった。
クラスメイトたちは面白がり、どの画像が元の映像に近いか意見を出し始めた。
白い服の人間だと言う者もいれば、案山子にしか見えないと言う者もいた。さらに、最後の画像が最も元の映像に近いという意見が増えると、小宮山は書き込まれた特徴を次の処理へ反映させた。
腕はもっと長く見える。
頭は右へ傾いている。
顔には黒い点が二つある。
口のような裂け目も見える。
そうした言葉が書き込まれるたび、次に作られる画像には、新しい特徴が付け加えられた。
曖昧だった部分から腕が伸びた。
傾いていた上部は、人間の首になった。
白い塊の中には二つの黒い目が生まれ、その下には横に長い口が描かれた。
それは元の映像を鮮明にしたものではなかった。
僕たちが口にした特徴を集めて、人の形へ組み立てたものだった。
それにもかかわらず、新しい画像が作られるたび、元の録画に写っている白いものまで鮮明になっていった。
僕は、最初に端末へ保存した七秒間の動画を開き直した。
そのファイルは学校のサーバーとはつながっていない。小宮山が処理を始める前に保存したものだから、上書きされるはずもなかった。
しかし、そこにも細い腕があった。
先ほどまで何もなかった顔には、黒い点が二つ並んでいた。口元には、笑っているような裂け目ができている。
ファイルの作成時刻も容量も変わっていない。
変わったのは、白いものの形だけだった。
僕はそのことをグループチャットへ書き込んだ。
けれど、誰も答えなかった。
皆は次の補正に使う特徴について話し合っていた。
白いものを人間へ近づける作業に、夢中になっていた。
◇◇◇
祖母は、日が沈む前に家中の雨戸を閉めた。
座敷の雨戸を閉めるときだけは、窓の外を見ないよう顔を伏せていた。
「昔、同じものを見た人がいるの」
僕が尋ねると、祖母は雨戸へ手を置いたまま動きを止めた。
「私の兄だよ」
祖母には、稔という五歳上の兄がいたという。
しかし僕は、それまで、その人の存在を聞いたことがなかった。
祖母が十一歳だった夏、稔は田んぼの中で揺れる白いものを見つけた。
初めは、風に飛ばされた布だと思ったらしい。
ところが、日が暮れて風が止まっても、白いものだけは動き続けていた。
そこで稔は、父親が持っていた望遠鏡を物置から持ち出した。
「見たあと、どうなったの」
祖母はすぐには答えなかった。
雨戸の隙間から、夕暮れの光が細い線になって差し込んでいた。
「笑っていたよ」
やがて祖母は言った。
「何が見えたのか聞いても、笑うばかりだった。分かった、分かったって、それしか言わなかった」
「何が分かったの」
「言わなかった。たぶん、言葉にできなかったんだろうね」
その夜、稔は夕食を食べなかった。
家族が寝静まってからも、部屋の中を歩き回っていたという。
祖母は隣の部屋で、その足音を聞いていた。
初めは、畳を普通に踏む音だった。
しかし、次第に一歩ごとの間隔が不規則になり、足ではない部分が床を擦る音まで混じるようになった。
祖母が襖の隙間から覗くと、稔は窓の前に立っていた。
月明かりの中で、兄の身体は腰から大きく曲がっていた。首は肩へ載せるように傾き、両腕が力なく垂れている。
それでも稔は、田んぼを見ながら笑っていた。
翌朝、姿を消した。
玄関は内側から施錠され、窓も閉まっていた。家の周囲には足跡一つ残っていなかった。
「見つからなかったの?」
「見つからなかった」
「田んぼにいた白いものは?」
祖母は雨戸の錠をかけた。
「次の日には、二つになっていた」
家の外では、蝉の声が続いていた。
雨戸を閉め切った座敷は、まだ夕方だというのに暗かった。
「でも、今回は画面の中だよ」
僕は言った。
「田んぼまで見に行ったわけじゃない。望遠鏡で見たのとも違う」
「画面の中だから遠いと思うのかい」
「少なくとも、実物を見るよりは」
「逆だよ」
祖母は首を横に振った。
「画面の中には、遠さがない。田んぼにいるものと、それを見る人間が、同じ大きさで並んでしまう」
◇◇◇
夜になってからも、小宮山は高画質化を続けていた。
ただし、グループチャットへ新しい画像は投稿されなかった。
皆も飽きたのだろう。
そう思い始めた頃、小宮山から個別にメッセージが届いた。
『藤井、まだ起きてる?』
『起きてる』
『補正が終わった』
『送らなくていい』
『でも、変なんだよ』
『何が』
しばらく返事はなかった。
やがて、文章ではなく画像ファイルが送られてきた。
僕は開かなかった。
『元の動画では田んぼにいたよね』
『そうだよ』
『補正すると、部屋の中にいる』
僕は画面を伏せかけた。
『AIが勝手に作っただけだ』
『私もそう思った。でも、処理するたびに近づいてくる』
『もうやめろ』
『ソフトを閉じても、勝手に続いてる』
入力中を示す印が現れた。
しかし、次の文章はなかなか届かなかった。
『藤井』
『何』
『あれが私たちの真似をしてるだけじゃない』
そこで文章が途切れた。
代わりに、ビデオ通話の着信画面が現れた。
小宮山からだった。
出るべきではない。
そう思いながらも、彼女が一人でいることを考えると、無視できなかった。
僕は応答ボタンへ触れた。
小宮山の部屋が映った。
照明は消えている。机に置かれたモニターの光だけが、彼女の横顔を青白く照らしていた。
小宮山は画面を見ていなかった。
椅子に座ったまま、背後の暗い部屋を凝視している。
『小宮山?』
呼びかけても反応しない。
彼女の映像には、自動で人物を追跡する白い枠が表示されていた。
最初、その枠は小宮山の顔を囲んでいた。
しかし、やがて彼女から外れ、背後の暗がりへ移動した。
部屋の隅には何も見えない。
それでも枠は、そこに人間が立っているかのように縦長に広がった。
『後ろに誰かいるのか』
「分かった」
小宮山がつぶやいた。
「何が?」
「あれが私たちの真似をしてるだけじゃない」
小宮山の首が、ゆっくりと右へ傾いた。
同時に、背後の白い枠も同じ方向へ歪んだ。
「私たちの方も、あれの動きを覚えさせられてる」
続いて、彼女の左肩が不自然に落ちた。
腰から上が反対側へ傾く。
椅子が軋み、片方の脚が床を擦った。
「あれが私の顔になる代わりに、私の身体があれになる」
小宮山は笑った。
喉の奥から、呼吸だけが漏れているような笑い方だった。
「あれの動きが、分かるようになってきた」
映像が大きく乱れた。
最後に見えたのは、カメラのすぐ前に立つ白いものだった。
それは、小宮山の制服を着ていた。
◇◇◇
通話が切れたあと、何度かかけ直した。
しかし、小宮山は出なかった。
グループチャットを確認すると、彼女が『高画質版』というファイルを投稿していた。
すでに複数の生徒が開いているらしく、画像を見た者たちの書き込みが続いていた。
白いものが僕の後ろに立っているという者もいれば、窓の外にいるという者もいた。画面へ顔を押しつけ、こちら側を覗いているように見えるという者までいる。
見る者によって、白いものの位置が違っていた。
ただし、画像を開いた者には、共通する変化が起きていた。
自分のカメラを起動すると、背景のどこかに白い染みが現れるのだという。
最初は、部屋の窓や開いたドアの向こうにいる。
けれど、画像を見直すたびに染みは大きくなり、カメラへ近づいてくる。
やがて新田が、グループ通話を始めた。
僕は参加しなかった。
しかし、通話のプレビューには、接続した生徒たちの小さな映像が並んでいた。
誰も会話をしていない。
皆、自分の背後へ視線を向けていた。
背景をぼかしている生徒の画面では、家具や壁は曖昧に処理されている。
それにもかかわらず、白い縦長の染みだけは鮮明に残っていた。
顔を認識する枠も、本人ではなく、その染みの方を囲んでいる。
しばらくして、新田がカメラへ顔を近づけた。
何かを理解したように、口元へ笑みを浮かべる。
その映像は突然消えた。
代わりに、白一色の画面が表示された。
画面の中央では、人間の指に似た細いものが、こちらを招くように曲がっていた。
◇◇◇
翌朝、小宮山も新田も授業へ現れなかった。
本来なら、オンライン授業の二日目だった。
しかし学校は、複数の生徒と連絡が取れなくなったことを受け、通常授業ではなく臨時ホームルームを開くと連絡してきた。
僕は参加するつもりはなかった。
ところが開始時刻になると、学校から支給されたタブレットが自動的に起動した。
『二年三組 臨時ホームルーム』
退出ボタンを押しても反応しない。
強制終了の操作をしても、画面は消えなかった。
祖母は通信を切ろうとして、居間にある無線機器の電源を抜いた。
タブレットから無線接続を示す表示が消える。
それでも会議の映像は続いていた。
「窓を背にするんじゃない」
祖母に言われ、僕はタブレットを持って壁際へ移動した。
画面には、クラスの生徒たちが並んでいた。
欠席している者も多かった。
参加している者たちも、誰一人として口を開かなかった。
多くの生徒が背景をぼかしていた。そのため、家具や壁は曖昧になっている。
けれど、どの画面にも、白い染みだけが鮮明に残っていた。
まだ窓の外にいるものもあれば、部屋の入り口まで来ているものもあった。高画質化された画像を繰り返し見た者ほど、白いものが近くにいるようだった。
やがて、佐伯先生が入室した。
先生は学校の教室にいた。
顔色が悪く、目の下には濃い隈ができている。何度も眼鏡を外しては、目元を押さえていた。
先生の背後にある電子黒板には、学校の校章が表示されていた。
『昨日の映像について話がある』
声は掠れていた。
『小宮山が作った画像を、ほかの場所へ投稿した者はいるか』
誰も答えない。
『あの画像は削除しろ。学校側でも、授業の録画を非公開にした。保存している者がいたら、絶対に開くな』
そのとき、先生の背後にある電子黒板が明滅した。
校章が消え、前日の授業映像が勝手に再生され始める。
佐伯先生は振り返り、操作卓へ手を伸ばした。
『誰が再生した。これは非公開にしたはずだぞ』
停止ボタンを押しても、映像は止まらなかった。
電子黒板には、座敷にいる僕が映っている。
背後の窓。
その向こうに広がる田んぼ。
しかし、白いものはもう田んぼにはいなかった。
座敷の中に立っていた。
画面の中の僕のすぐ後ろで、身体を幾重にも折り曲げている。
『先生、その映像を見ないでください』
僕が言うと、佐伯先生は電子黒板から顔をそむけようとした。
けれど、白いものの動きに引き戻されるように、再び画面を見た。
『どうして、窓の外にいたものが、藤井の部屋へ入っているんだ』
「それを考えたら駄目です」
『誰かに似ている』
「似ていても、名前を言わないでください」
『これは――』
佐伯先生が何かを言いかけた。
その瞬間、オンライン会議に参加していた全員の映像が乱れた。
画面の中で、一人の生徒が笑い始めた。
その笑いに呼応するように、別の生徒の肩が傾いた。さらに別の生徒が、椅子に座ったまま腰をねじった。
皆、同じ動きをしていた。
顔だけはカメラへ向けたまま、身体の各部分を互い違いの方向へ折り曲げている。
『画面を閉じろ!』
佐伯先生が叫んだ。
先生は教卓に置かれたパソコンを閉じようとした。
しかし、その直前、電子黒板の白いものが長い腕を伸ばした。
画面の中だけで起きているはずなのに、佐伯先生は肩をつかまれたように身体を震わせた。
白い手が実際に画面の外へ出たわけではない。
それでも、先生の肩には、白い指の形をした窪みができていた。
先生の動きが止まる。
『なんだ』
先生は電子黒板を見上げた。
恐怖に引きつっていた顔から、急に力が抜けた。
『そういうことだったのか』
先生は笑った。
そして、画面の中の生徒たちと同じように首を傾けた。
「見るな!」
祖母が座布団をつかみ、タブレットへかぶせた。
映像は見えなくなった。
しかし、無線接続が切れているにもかかわらず、音声は途切れなかった。
笑い声に混じって、椅子が倒れる音や、何かが床を擦る音が聞こえる。複数の生徒が、同じ言葉を繰り返していた。
分かった。
そういうことだったのか。
祖母は座布団の上から電源ボタンを押し続けた。
それでも声は止まらない。
やがて、オンライン会議への参加者を知らせる自動音声が流れた。
『新しい参加者が入室しました』
同時に、座敷の窓が鳴った。
こつ、と硬いものがガラスに触れる音だった。
もう一度、同じ音がする。
雨戸は閉まっている。
何が窓を叩いているのかは見えない。
音は、雨戸の右端から左へ、ゆっくり移動していた。
まるで、細長い指で窓の位置を確かめながら、座敷の中を覗ける隙間を探しているようだった。
◇◇◇
「どうすればいいんだよ」
僕の声は震えていた。
「向こうは、呼ばれたから来ている」
「誰が呼んだんだ」
「皆で形を作っただろう」
祖母は、座布団の下にあるタブレットを見た。
「腕がある。顔がある。目がある。人間みたいに動く。そうやって、一つずつ教えてしまった」
「じゃあ、もう消せないの」
「決めた形を忘れられれば、まだ戻るかもしれない」
「そんなの無理だよ」
「だから、見ちゃいけなかったんだ」
祖母は雨戸の前に正座した。
そして、外にいるものへ聞かせるように言った。
「ここには、お前を迎える者はいない。お前を人だと思う者も、お前が何者かを知る者もいない」
窓を叩く音が止まった。
座敷に、蝉の声だけが残った。
しかし直後、タブレットから祖母の声が流れた。
『ここには、お前を迎える者はいない』
今、祖母が言ったばかりの言葉だった。
『お前を人だと思う者もいない』
抑揚まで正確に再現されている。
最後に、祖母のものではない笑いが混じった。
『お前が何者かを知る者もいない』
「声まで覚えられた」
祖母がつぶやいた。
やがて、タブレットから若い男の声が聞こえた。
『八重』
祖母の表情が凍りついた。
『八重。開けてくれ』
「誰の声?」
僕が尋ねても、祖母は答えなかった。
若い男の声は、すぐ近くで話しているようにはっきりしていた。
『ずっと田んぼにいたんだ』
祖母は両手を膝の上で握り締めた。
『一人で寒かった。ようやく帰ってこられたんだよ』
「稔おじさん?」
僕が口にすると、祖母は激しく振り返った。
「名前を言うんじゃない!」
その声に応じるように、雨戸の向こうで何かが大きく身をよじった。
木の板が内側へ膨らんだ。
隙間から、白いものが入り込もうとしている。
「廊下へ行きなさい」
「ばあちゃんも一緒に」
「早く」
「でも」
「お前の声も顔も、もう向こうに知られてる。これ以上、形を渡しちゃいけない」
祖母は僕を座敷の外へ押し出した。
「目を閉じて、耳を塞ぎなさい。何を呼ばれても返事をするんじゃない」
襖が閉じられた。
直後、雨戸の留め金が外れる音がした。
僕は廊下へしゃがみ込み、両手で耳を塞いだ。
それでも、座敷から聞こえる声を完全には防げなかった。
若い男の声が祖母を呼んでいる。
祖母は何度も否定していた。
「違う。私は、お前が誰なのか決めない」
しかし、その声は次第に弱くなっていった。
「どんな声を使っても、私はお前を見ない」
その後、何か重いものが畳へ倒れる音がした。
続いて、雨戸がゆっくり開いた。
蝉の声と夏の熱気が、座敷へ流れ込んでくる。
最後に聞こえたのは、祖母の笑い声だった。
◇◇◇
気がつくと、翌朝になっていた。
僕は廊下に横たわっていた。いつ眠ったのか、あるいは意識を失ったのかは分からない。
座敷には、夏の光が差し込んでいた。
雨戸はすべて開いている。
窓の外には、昨日と変わらない田んぼが広がっていた。
祖母の姿はなかった。
座敷の畳には、誰かが長く座っていたような丸い跡が残っていた。
その跡から窓まで、白い粉のようなものが細く続いている。
学校のタブレットは、座布団の下で電源を失っていた。画面は熱を持ち、中央には内側から圧力をかけられたような亀裂が走っていた。
警察は、祖母が自分の意思で家を出た可能性が高いと判断した。
田んぼも、用水路も、裏山も捜したが、何も見つからなかった。
僕はオンライン授業の映像について説明した。
警察は学校から臨時ホームルームの録画を取り寄せた。
しかし録画には、佐伯先生や身体をねじらせる生徒たちの姿は残っていなかった。
佐伯先生は空の教室で、通常どおり連絡事項を読み上げていた。他の生徒たちも、黙って話を聞いているだけだった。
僕の映像にも、祖母は映っていない。
祖母がタブレットへ座布団をかぶせたはずの時刻になると、映像は確かに暗くなった。
けれど、それ以前から祖母の姿はなく、声も記録されていなかった。
録画の中で、僕は一人で会話をしていた。
誰もいない座敷で何度も頷き、何も載っていない畳へ向かって、そこに誰かがいるかのように手を伸ばしていた。
警察官は、心療内科を受診した方がいいと言った。
◇◇◇
祖母の捜索と、連絡が取れなくなった生徒への対応のため、学校は残りのオンライン授業を中止した。
空調設備の修理が終わっても、すぐには授業は再開されなかった。
一週間後、僕たちはようやく登校することになった。
二年三組では、複数の生徒が欠席していた。
小宮山も、新田も来ていない。
佐伯先生は体調不良を理由に休職した。
学校側は一連の出来事について、オンライン会議システムへ不正な映像が流された可能性があると説明した。悪質ないたずらや集団的な思い込みに、猛暑による体調不良が重なったというのが、学校の見解だった。
ただし、欠席した生徒たちがどこにいるのかは教えてもらえなかった。
家にあった学校のタブレットは、警察が証拠品として預かった。そのため、僕には代わりの端末が支給された。
新品のはずなのに、電源を入れると、以前の端末で使っていた壁紙や設定がすべて引き継がれていた。背景ぼかしの強さも、最後に使ったときのままになっている。
学校のアカウントに保存されていたのだろう。
そう考えれば、おかしなことではなかった。
ただ、授業用の録画も、グループチャットの画像もすべて削除されたはずなのに、写真フォルダには一枚だけ、見覚えのない画像が残っていた。
灰色の小さな画像で、何が写っているのかは分からなかった。
ファイル名は「背景」だった。
僕は開かずに削除した。
◇◇◇
その日の終礼で、佐伯先生の代わりに来た教師が、翌日の予定を電子黒板へ表示しようとした。
ところが、電源を入れた電子黒板には予定表ではなく、見覚えのあるオンライン会議の画面が現れた。
『二年三組 臨時ホームルーム』
一週間前に使われた会議だった。
「何だ、これは」
教師は操作卓を触り、画面を閉じようとした。
しかし、何度終了ボタンを押しても反応しなかった。
会議の参加者欄には、欠席している生徒たちの名前が並んでいた。
最初、誰もカメラをつけていなかった。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえていた。廊下を歩く生徒の話し声や、別の教室で机を動かす音もする。
以前と変わらない、放課後の学校だった。
だからこそ、電子黒板の中に並ぶ黒い画面だけが、不自然に静かだった。
やがて、小宮山のカメラがついた。
けれど、そこに彼女の部屋は映っていなかった。
見覚えのある田んぼが広がっていた。
風に揺れる青い稲の向こうを、細い農道が横切っている。その先には、祖母の家から毎日見ていた低い山があった。
田んぼの中央には、白いものが立っていた。
教室の誰も何も言わなかった。
皆、同じものを見ているはずだった。
それでも、見えていないふりをしていた。
教師だけが事情を知らないらしく、電子黒板へ近づいた。
「小宮山さん、そこにいるんですか」
返事はない。
白いものが、草の中で身体をねじった。
すると、新田のカメラもついた。
同じ田んぼが映っている。
ただし、白いものは、小宮山の画面より手前にいた。すでに農道を越え、画面のすぐ近くまで来ている。
ほかの欠席者たちの映像も表示され始めた。
どの画面にも、同じ田んぼが映っていた。
それぞれの映像で、白いものとカメラとの距離だけが違っている。
ある画面では、まだ田んぼの奥にいる。
別の画面では、窓の外に立っている。
さらに別の画面では、白い腕のようなものが、室内側から窓枠へかかっていた。
欠席者たちが、あの画像をどれだけ長く見たのか。
画面ごとの距離は、それを示しているように思えた。
最後に表示された映像には、田んぼも山も映っていなかった。
画面いっぱいに、白いものの顔らしき部分があった。
滑らかな表面に、人工知能が描いた黒い目と、横に長い口が浮かんでいる。
それは、カメラの向こうから教室を覗いていた。
教師が後ずさった。
「誰がこの映像を流しているんですか」
誰も答えなかった。
教師は教室を見回し、僕のところで視線を止めた。
「藤井君。何か知っていますか」
「分かりません」
僕は答えた。
「分からないままにしてください」
その瞬間、机に置いていた新しいタブレットが勝手に起動した。
背景ぼかし機能の設定画面が表示される。
ただし、そこに現れた確認画面は、これまで見たことのないものだった。
『背景に複数の人物を検出しました』
『背景として処理する人物を選択してください』
プレビュー画面には、教室に座る僕が映っていた。
その背後には、誰もいないはずの教室後方が見える。
ロッカーと掃除用具入れの間には、人一人が立てるほどの空間などない。
それでも、白いものはそこにいた。
狭い隙間へ身体を押し込み、天井につかえた上部を折り曲げている。
田んぼでも、画面の向こうでもない。
僕と同じ教室の中にいる。
僕は振り返らなかった。
タブレットの映像だけを見た。
白いものは、折れ曲がった身体をほどきながら、机の間を進んできた。
しかし、現実の教室では足音がしない。
周囲の生徒たちも、まだ気づいていないようだった。
画面の中だけで、白いものは僕へ近づいていた。
やがて、それは僕の椅子のすぐ後ろで止まった。
選択画面には、二つの人型が表示されている。
片方は僕。
もう片方は、背後の白いもの。
どちらかを選べば、一方が人物として残り、もう一方が背景としてぼかされる。
僕は画面に触れなかった。
それでも、機械は自動的に判断した。
プレビューの中で、僕の輪郭がぼやけていく。
一方、白いものは少しずつ鮮明になった。
絡み合っていた部分が手足へ分かれる。
白い塊だった頭には、目と鼻が作られる。
横に裂けていた部分は、笑った口の形になった。
その顔は祖母に似ていた。
しかし、瞬きをすると小宮山の顔になり、次には新田や佐伯先生の顔へ変わった。
最後に、白いものは僕自身と同じ顔になった。
僕の輪郭は、もうほとんど背景へ溶けていた。
画面に処理の完了を知らせる表示が現れる。
『人物を認識しました』
白いものの顔を囲む枠には、僕の名前が表示されていた。
その一方で、ぼやけた僕には、別の文字が重なっている。
『背景』
画面の中で、僕の顔をしたものが笑った。
ほぼ同時に、現実の教室後方から、湿った息を喉の奥で転がすような笑い声が聞こえた。
「藤井、後ろ」
近くに座っていた生徒が、掠れた声で言った。
それまで電子黒板を見ていた生徒たちも、一斉に僕の肩越しへ視線を向けた。
椅子を引く音が重なり、誰かが短い悲鳴を上げた。
教師の顔からも血の気が引いている。
画面の中だけにいたはずのものが、今は全員の目に見えている。
僕の右肩へ、冷たいものが触れた。
続いて左肩にも、細長い指が置かれる。
それでも、僕は振り返らなかった。
タブレットの映像では、僕の顔をした白いものが、背後から僕を抱え込んでいた。
その口が、耳元へ近づく。
「見れば分かるよ」
声は、タブレットのスピーカーからではなかった。
すぐ後ろから聞こえた。
「どちらが藤井なのか」
僕は目を閉じた。
すると教師が、震える声で呼びかけた。
「藤井君、聞こえますか。返事をしてください」
僕は返事をしなかった。
けれども、背後にいるものは、僕と同じ声で答えた。
「はい」




