表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/3

メリーさん

 母がその人形を捨てたのは、冷たい雨の降る朝だった。

 赤いドレスを着た、五十センチほどの西洋人形。陶器のように白い頬と、細かく波打つ金色の髪。青いガラスの目は瞬きをせず、どこから見てもこちらを追ってくるように見えた。

 名前は、メリー。

 二年前、母と付き合っていた相川浩二という男が、私の十一歳の誕生日にくれたものだった。

 最初のころ、相川は優しかった。母が仕事で遅くなる日は夕飯を作り、私の宿題を見てくれた。

 しかし、母と別れてからは、何度も職場へ押しかけるようになった。家の前で待ち伏せをしたこともある。知らない番号から、母のスマホへ一晩に何十件も着信を残したこともあった。

 警察へ相談したあと、母は玄関の鍵を替え、防犯カメラを取りつけた。

 それでも、メリーだけは捨てられずにいた。

 人形には罪がないと思っていたからだ。

 けれど、その朝、母は私の部屋へ入るなり、棚の上に座っていたメリーを持ち上げた。

「これも、もう捨てよう」

 断る間もなかった。

 母は人形を黒いごみ袋へ入れ、口をきつく縛った。薄いビニール越しに、赤いドレスと白い顔がぼんやりと透けている。

「まだ持ってたら、あの人とつながってるみたいで嫌なの」

 そう言った母の指は、結び目から離れたあとも小さく震えていた。

 私は何も言えなかった。

 やがて母が袋を持ち上げると、中で硬いものが擦れた。メリーの靴が、廊下の壁に一度だけ当たった。

 こつん。

 まるで、袋の中から誰かが返事をしたような音だった。


          ◇◇◇


 その日の夜、母は仕事へ出かけた。

 本当なら休むつもりだったらしい。しかし、夜勤の職員が急に一人来られなくなり、代わりを頼まれたのだという。

「どうしても嫌なら、休むよ」

 母は玄関で靴を履きながら、何度も私の顔を見た。

「大丈夫だよ。もう子供じゃないし」

 そう答えると、母は困ったように笑った。

「玄関は、私が出たらすぐチェーンを掛けて。インターホンが鳴っても、絶対に開けないこと。お母さんだって言われても、先に電話で確認して」

「わかってる」

「何かあったら、一一〇番。私より先に警察へ電話するのよ」

 念を押してから、母はようやく外へ出た。

 扉を閉め、鍵を回し、言われたとおりチェーンを掛ける。鎖が金具に落ちる乾いた音が、人気のない家の中へ思った以上に大きく響いた。

 窓の外では、朝から降り続いている雨が、細い筋になってガラスを伝っていた。

 母の車のエンジン音が遠ざかる。

 すると、それまで家の中に残っていた生活の気配まで、一緒に消えてしまった。

 居間の時計が秒を刻む音。

 冷蔵庫が低く唸る音。

 屋根から落ちた雫が、ベランダの手すりを叩く音。

 どれも普段なら気にも留めない音なのに、その夜は、誰かが家の中を歩き回っているように聞こえた。

 私はテレビをつけ、わざと音量を少し上げた。

 けれど、九時十七分。

 居間の固定電話が鳴った瞬間、テレビの音など聞こえなくなった。

 画面に表示された番号は、非通知だった。

 母からではない。

 そうわかっているのに、呼び出し音は一定の間隔で鳴り続けた。音が途切れるたびに、今度こそ切れたのかと期待する。けれど、短い静寂のあとには、決まって同じ音が家じゅうへ響いた。

 このまま無視しても、相手は諦めない。

 そう思い、私は受話器を取った。

「もしもし」

 返事はなかった。

 代わりに、ざあざあという雑音が聞こえた。風の音にも、遠くを走る車の音にも聞こえる。

「もしもし?」

 もう一度呼びかけると、雑音の向こうから、幼い女の子の声がした。

「私、メリーさん」

 背中が冷たくなった。

「今、駅前にいるの」

 そこで電話は切れた。

 受話器の向こうには、何の音も残っていなかった。

 それでも私は耳から離せず、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 メリーさんの電話。

 捨てた人形が少しずつ家へ近づいてきて、最後には背後へ現れるという、古い怪談。

 もちろん、本物のはずがない。

 母が人形を捨てたことを知っている誰かが、悪ふざけをしているだけだ。

 そう考えて、無理に受話器を戻した。

 ところが、電話機から手を離した途端、家の静けさがさっきよりも濃くなった。

 駅前からここまでは、歩いて十五分ほどだ。

 私は反射的に時計を見た。


          ◇◇◇


 次の電話は、九時二十四分にかかってきた。

「私、メリーさん。今、コンビニの前にいるの」

 今度は、すぐには切れなかった。

 声の後ろで、自動ドアが開く電子音が聞こえた。続いて、聞き覚えのある店員の声がする。

 ――ありがとうございました。

 近所のコンビニの店員は、最後の「とう」だけ妙に高い声を出す。

 電話の向こうから聞こえた声も、同じだった。

 私は窓へ近づきかけて、足を止めた。

 カーテンを開けてはいけない。

 こちらから外が見えるということは、外からもこちらが見えるということだ。

 そこで、スマホから母へ電話した。

 だが、呼び出し音が続くだけで出ない。仕事が始まったばかりなら、スマホをロッカーへ入れているのかもしれなかった。

 私は短いメッセージを送った。

〈変な電話がかかってくる。メリーさんって言ってる〉

 送信済みの表示を見つめていると、固定電話が再び鳴り始めた。

 時計は九時三十一分を示していた。

 今度は、呼び出し音を聞くだけで胸が苦しくなった。

 出たくない。

 それでも、このまま鳴らし続けられるほうが怖かった。

 私は唾を飲み込み、受話器を耳に当てた。

「私、メリーさん」

 声は、前より近かった。

「今、あなたの家の前にいるの」

 通話が切れた直後、玄関のチャイムが鳴った。

 私は悲鳴を噛み殺した。

 インターホンのモニターが自動で点灯する。

 雨に濡れたレンズの向こうに、一人の男が立っていた。

 黒いレインコート。額に張りついた前髪。雨に濡れ、青白く見える顔。

 相川だった。

 顔を見たのは一年ぶりだった。それでも、片側の口元だけを歪めるような笑い方は、すぐに思い出した。

『美咲ちゃん、いるんだろう?』

 スピーカー越しの声には、雨音が混じっていた。

『お母さんに頼まれて来たんだ。ちょっと開けてくれる?』

 私は返事をしなかった。

『聞こえてるよね。お母さん、忘れ物したんだって。俺が取りに来てやったんだよ』

 嘘だった。

 母なら、相川に頼み事などしない。それ以前に、連絡を取るはずがない。

 ところが、相川は私の沈黙を迷いだと思ったらしい。

『寒いんだよ。話だけでもしよう。ほら、昔みたいにさ』

 そのとき、固定電話が鳴った。

 モニターの中で、相川の目がわずかに動いた。家の中の音を聞き取ろうとしているようだった。

 私は身を屈め、玄関から見えない位置まで移動してから受話器を取った。

「私、メリーさん」

 幼い声が囁く。

「今、あなたの家の前にいるの」

 私は玄関のモニターへ目を向けた。

 映っているのは、相川だけだった。

「でも、そこにいるのは……」

「それ、私じゃないよ」

 声が、少し低くなった。

「その人、嘘をついてるよ」

 指先から血の気が引いた。

「知ってる」

「中に入れちゃ駄目」

「入れない。警察に――」

「あの人に、あなたを取られたくないから」

 そこで通話が切れた。

 取られたくない。

 助けたい、ではなかった。

 その言葉の意味を考える間もなく、玄関の向こうで相川が息を吐いた。

『そうか。開けないんだな』

 低くなった声には、さっきまでの笑いが残っていなかった。

 次の瞬間、モニターから相川の姿が消えた。

 雨に濡れた玄関先だけが映っている。

 私は画面を見つめたまま、耳を澄ませた。

 ほどなくして、外壁の向こうから、砂利を踏む音が聞こえた。

 濡れた靴底が、家の脇をゆっくりと進んでいる。

 音は居間の横を通り、やがて台所のある裏手へ回っていった。

 その直後、固定電話が再び鳴った。

「私、メリーさん。今、あなたの家の裏にいるの」

 その言葉と重なるように、台所の窓から、きい、と細い音がした。

 金属の枠を、硬いもので擦る音だった。


          ◇◇◇


 私はすぐにスマホを取り出し、一一〇番へ電話をかけた。

「はい、一一〇番警視庁です。事件ですか、事故ですか?」

「男の人が、家に入ろうとしています」

「男は、もう家の中にいますか?」

「まだです。でも、さっき玄関からいなくなって、家の裏へ回ったみたいです」

「裏へ回るところを見たんですか?」

「見てはいません。防犯カメラから消えたあと、家の横を歩く音がしました」

 まず住所を尋ねられた。

 慌てて番地を言い間違え、聞き返されてから、今度は一つずつ区切って伝える。続いて、私の名前と年齢、家に一人でいることを話した。

 さらに、男は母の元交際相手で、名前は相川浩二。以前から母の職場や家の前で待ち伏せを繰り返し、母が警察へ相談していることも説明した。

 住所を伝え終えても、確認は続いた。

 相川の服装と持ち物。窓を壊す道具や刃物が見えたか。今も外から音がするか。玄関や勝手口には鍵が掛かっているか。

 私は台所へ近づかないまま、わかることと、わからないことを順番に答えた。

「警察官を向かわせています。男の姿を確かめに行かないでください」

「はい」

「今は、家のどこにいますか?」

「一階の居間です」

「二階に、内側から鍵をかけられる部屋はありますか?」

「私の部屋があります」

「そこまで安全に移動できそうですか?」

 私は階段のほうを見た。

 居間から階段までは近い。台所の前を通る必要もない。

「行けると思います」

「では、スマホを持って、すぐに移動してください。部屋へ入ったら鍵をかけ、窓から離れてください」

「警察は、あと何分くらいで来ますか?」

「すでに警察官が向かっています。到着するまで電話は切らないでください。話せない状況になったら、無理に返事をしなくても大丈夫です」

「わかりました」

 通話をスピーカーに切り替えたところで、居間の固定電話が目に入った。

 メリーさんの電話は怖かった。

 それでも、あの声は相川の居場所を知っていた。

 もし再び電話がかかってくれば、どこから近づいてくるのか教えてくれるかもしれない。

 一瞬迷った末、私は親機の横に置かれた子機もつかんだ。

 スマホと子機を胸に抱え、足音を忍ばせて階段へ向かう。

 その途中、台所から、がりっ、と大きな音がした。

 何かを窓枠へ差し込み、無理やり捻っている。

 続いて、ガラスに細い亀裂が走った。

 ぴしっ。

 その音自体は小さかった。

 しかし、家の静けさの中では、薄い氷が足元まで割れてきたように聞こえた。

 私は階段を上り始めた。

 できるだけ足音を立てないよう、手すりにつかまりながら一段ずつ体重を移す。それでも古い木の段板は、足を置くたびに低く軋んだ。

 半分まで上ったところで、台所のガラスが砕けた。

 激しい音とともに、冷たい外気が家の中へ流れ込む。

 電話口の女性が、何が起きたのかを尋ねた。

「窓が……割れました」

「警察官に伝えます。そのまま二階の部屋へ移動してください」

 背後で、窓枠に残ったガラスがかちかちと鳴っていた。

 やがて、床へ重いものが落ちる音がした。

 そのあとで、濡れた靴底が台所の床を踏んだ。

 相川が、家の中へ入った。


          ◇◇◇


 二階へ上がると、短い廊下がまっすぐ延びている。その突き当たりが、私の部屋だった。

 部屋の扉と向かい合うように、階段脇の壁へ細長い姿見が置かれている。扉さえ開いていれば、部屋の奥からでも鏡が見える位置だった。

 私は自分の部屋へ飛び込み、鍵を掛けた。

 さらに勉強机を扉の前へ押す。机の脚が床を擦り、耳障りな音を立てた。

「部屋へ入りました。鍵を掛けました」

「わかりました。窓から離れて、できるだけ低い姿勢でいてください」

 私はベッドと壁の間へしゃがみ込んだ。

 固定電話の子機を床へ置こうとした瞬間、それが鳴り始めた。

 電子音が狭い部屋に響く。

 階下の相川にも聞こえたかもしれない。

 慌てて通話ボタンを押した。

「私、メリーさん」

 さっきよりも、声が近い。

「今、台所にいるの」

 電話の向こうで、何かが床を踏む音がした。

 同時に、一階からも同じ音が聞こえる。

 子機の奥と、実際の家の中。

 二つの足音が、わずかにずれて重なっていた。

「相川は、どこ?」

「今、階段の下にいるの」

 答えを聞いた直後、階段が低く軋んだ。

 私は口を押さえた。

 スマホから、電話口の女性が誰と話しているのかを尋ねる声がした。

 しかし、説明している余裕はなかった。

 階段の軋みが、少しずつ近づいてくる。

 一つ音がするたび、そのあとの静寂が長く感じられた。

 相川は急いでいなかった。私が逃げられないと知っているように、時間をかけて上がってくる。

 やがて足音が二階の廊下へ移り、私の部屋の前で止まった。

 しばらく、何の音もしなかった。

 それから、扉の向こうで相川が囁いた。

「美咲ちゃん」

 優しい声だった。

 昔、宿題を教えてくれたときと同じ声。

「怖がらなくていいよ。お母さんと話がしたいだけだから」

 私は返事をしなかった。

「開けてくれたら、何もしない」

 ドアノブが静かに回る。

 鍵に止められ、そこで動きが止まった。

「お母さんは、ここにいないよ」

 声を出した直後、言わなければよかったと思った。

 扉の向こうで、相川が笑った。

「知ってるよ」

 その一言で、胸の奥が凍った。

 相川は、母がいないことを知ったうえで来たのだ。

 次に、鍵の周辺で金属を擦る音がした。

 隙間から何かを差し込んでいる。

「美咲ちゃんが開けてくれないから、仕方ないんだよ」

 ねじ回しの先端が、鍵の金具を何度も引っかいた。

 扉が揺れるたび、押さえている机もわずかに動いた。

 私はスマホを握りしめた。

 遠くから、サイレンらしき音が聞こえた気がする。

 しかし、雨音と風に紛れ、確信は持てなかった。

 やがて鍵の金具が外れた。

 扉が数センチ開き、机の脚が床を擦る。

 隙間から、相川の目がのぞいた。

「いた」

 その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。

 相川は肩を扉へ押し当てた。

 机が少しずつ後ろへ滑ってくる。

 私はベッド脇にあった椅子をつかみ、両手で構えた。けれど腕は震え、椅子の脚が壁に当たって乾いた音を立てる。

 扉がさらに開いた。

 濡れたレインコートから、雨水と泥の匂いが流れ込んできた。その奥には、汗と煙草の混じった、覚えのある匂いがあった。

「大丈夫だよ」

 相川は息を切らしながら笑った。

「美咲ちゃんを連れていけば、お母さんもちゃんと話を聞いてくれるから」

 肩に掛けた大きな鞄が、扉の隙間を抜けて入ってくる。

 その中で、硬いものがぶつかり合った。

 相川が最後に強く身体を押し込む。

 机が倒れ、扉が開いた。

 私は椅子を振り上げた。

 ところが、その瞬間、相川の鞄の中からスマホの着信音が鳴った。

 相川の動きが止まる。

「誰だよ……」

 舌打ちしながらスマホを取り出す。

 画面には、番号が表示されていないらしかった。

 相川は一度切った。

 しかし、すぐにまた鳴り始めた。

 苛立った様子で通話ボタンを押し、スマホを耳へ当てる。

「誰だ」

 相川が耳に当てているはずのスマホから、幼い女の子の声がした。

 受話音量ではありえないほど鮮明な声だった。まるでスマホからではなく、この部屋のどこかから響いているように聞こえた。

『私、メリーさん』

 相川の顔から、笑みが消えた。

『今、あなたの後ろにいるの』

 相川が振り返る。

 廊下には誰もいなかった。

 少なくとも、鏡を見なければ、そう見えた。

 扉が大きく開いたことで、相川の肩越しに、階段脇の姿見が見えていた。

 その鏡の中だけに、女の子が映っている。

 赤いドレス。

 金色の巻き毛。

 陶器のように白い頬。

 そして、瞬きもしない青い目。

 捨てたはずのメリーが、相川の背後に立っていた。

 私は鏡から視線を外し、相川の後ろを直接見た。

 そこには、誰もいない。

 もう一度、鏡を見る。

 メリーは消えていなかった。

 鏡の中のメリーは、ゆっくりと両手を持ち上げた。

 その指先が、相川の肩へ触れる。

 現実の廊下には、やはり何もいない。

 それなのに、相川のレインコートが、見えない手につかまれたように背後へ引かれた。

「何だよ、これ」

 相川が腕を振り回す。

 身体が部屋から引きずり出され、濡れた靴が廊下の床を滑った。

「離せ! 誰だ!」

 相川は階段の手すりへ腕を伸ばした。

 しかし、指先が届く直前、身体が大きく後ろへ傾いた。

 鏡の中で、メリーが笑った。

 次の瞬間、相川の姿が階段の向こうへ消えた。

 身体を何度も段へ打ちつける鈍い音が、階下へ転がっていく。

 最後に、重い衝撃音が響いた。

 それきり、相川の声は聞こえなくなった。


          ◇◇◇


 サイレンの音が、今度こそ家の前で止まった。

 赤い光がカーテンの隙間から入り、暗い部屋の壁を何度も横切る。

 スマホから、電話口の女性の声がした。

「美咲さん、警察官が到着しました。玄関を開けに行かず、そのまま二階にいてください」

 すぐに、玄関を強く叩く音と、警察官を名乗る声が聞こえた。

 しかし、玄関には鍵もチェーンも掛かっている。

 返事をせずにいると、外の足音が家の脇を走り、裏手へ回っていった。

 ほどなくして、階下から複数の足音が響いた。

 割れた台所の窓から入ったらしく、靴が床のガラスを踏む音がする。

「警察だ! 動かないで!」

「両手を見える位置に出してください!」

 相川の呻き声が、かすかに聞こえた。

 続いて、手錠のものらしい金属音が鳴る。

「確保」

 その一言のあとも、すぐには誰も二階へ上がってこなかった。

 警察官たちは一階の部屋を確認し、ほかに人が潜んでいないか調べているようだった。

 やがて、階段の下から声がした。

「二階の美咲さん。警察です。聞こえますか?」

「はい」

「男は確保しました。今から警察官が二階へ上がります。手には何も持たず、その場で待っていてください」

 私は椅子を床へ置いた。

 足音が慎重に階段を上ってくる。

 開いた扉の前に現れた警察官は、まず私の名前を確認し、怪我がないかを尋ねた。それから、二階にほかの人がいないことを確かめて、ようやく無線を下ろした。

「もう大丈夫です」

 その言葉を聞いた途端、身体から力が抜けた。

 床へ座り込んだ私の手から、固定電話の子機が滑り落ちた。

 表示を見る。

 メリーさんとの通話は、いつの間にか切れていた。


          ◇◇◇


 相川の鞄からは、ロープと粘着テープ、それに折り畳み式のナイフが見つかった。

 警察官が中身を確認するあいだ、私は毛布を肩に掛けられ、パトカーの後部座席に座っていた。

 雨は弱くなっていたものの、家の前には赤い回転灯の光が絶えず流れていた。濡れた道路も、玄関の壁も、集まった近所の人々の傘も、同じ色に染まっている。

 やがて母が駆けつけた。

 制服の上にコートを羽織っただけで、髪は乱れ、息を切らしていた。

「美咲!」

 母は私を抱き締めた。

 冷えた頬に、母の涙が落ちた。

「ごめんね。ごめんね、一人にして」

 私は大丈夫だと言おうとした。

 けれど、喉が詰まり、声にならなかった。

 代わりに母の背中へ腕を回す。

 その向こうで、相川が担架に乗せられて運ばれていた。

 階段から落ちて脚と肋骨を折ったらしい。それでも意識はあり、警察官に両側を挟まれながら、しきりに何かを訴えていた。

「女の子がいたんだ」

 雨の中で、相川の声が響く。

「赤い服の女の子が、俺を押したんだよ。家の中にいたんだ!」

 警察官は答えなかった。

 私も何も言わなかった。

 ただ、二階の階段脇にある姿見を見上げた。

 赤い光が鏡の表面をかすめるたび、その前に小さな影が立っているように見えた。


          ◇◇◇


 母と私は、叔母の家で三日間過ごした。

 警察による現場の確認が終わり、割れた窓の応急処置が済んでから、ようやく自宅へ戻った。

 台所の窓には板が打ちつけられ、床に散っていたガラスも片づけられていた。しかし、部屋にはまだ湿った木と消毒液の匂いが残っていた。

 母は家へ入るなり、すべての窓と鍵を確認した。

 私は一人で二階へ上がった。

 自分の部屋の前で、足が止まる。

 扉には、相川が工具でつけた傷がいくつも残っていた。

 深呼吸をして、ゆっくり扉を開ける。

 メリーは、本棚の上に座っていた。

 捨てる前と同じ姿だった。

 赤いドレスには皺一つなく、金色の髪もきれいに整っている。

 ただ、白い靴の裏にだけ、黒い泥が付着していた。

「お母さん」

 呼ぶと、母が階段を駆け上がってきた。

 人形を見た瞬間、母の顔が強張った。

「どうして……」

「この子が助けてくれたの」

 私は、電話のことを最初から話した。

 メリーさんを名乗る声が、駅前から少しずつ家へ近づいてきたこと。

 家の前にいた相川を、自分ではないと言ったこと。

 そして、相川の背後に現れたこと。

 母は途中で口を挟まず、黙って聞いていた。

 話が終わると、しばらくメリーを見つめ、それから私の手を握った。

「助けてくれたとしても、安全だとは限らない」

「でも、また捨てたら……」

「そうね」

 母は人形に触れなかった。

「今は、ここに置いておきましょう」

 私たちはメリーを本棚から動かさなかった。

 捨てるよりも、見える場所に置いておくほうが、まだましだと思ったからだ。


          ◇◇◇


 それから三週間、何も起こらなかった。

 相川は住居侵入などの容疑で逮捕され、怪我の治療のため、警察官の監視下で病院に入院していた。

 一方、家には新しい防犯カメラと警報装置が取りつけられた。台所の窓も、以前より厚いガラスへ交換された。

 母は夜勤を減らし、私を一人にしないようにした。

 メリーは、毎日同じ場所に座っていた。

 朝、学校へ行くときも、夕方、帰ってきたときも、夜、眠る前も。

 青いガラスの目で、部屋の中央を見つめている。

 次第に、私はメリーがそこにいることへ慣れていった。

 少なくとも、そう思っていた。


          ◇◇◇


 午前二時十三分。

 固定電話の呼び出し音で目が覚めた。

 枕元の時計を確かめてから、私はベッドの上で身体を起こした。

 暗い部屋の中、本棚へ目を向ける。

 メリーがいない。

 人形が座っていた場所には、赤いドレスの裾がつくった小さな埃の跡だけが残っていた。

 階下では、電話が鳴り続けている。

 私は母を起こし、二人で居間へ下りた。

 母が照明をつけるあいだに、私は親機の受話器を取った。

「もしもし」

「私、メリーさん」

 あの声だった。

「今、病院の一階にいるの」

 電話は切れた。

 私は受話器を親機へ戻し、母と顔を見合わせた。

「相川のいる病院……?」

「わからない。でも、警察に電話する」

 母がスマホを取り出したところで、固定電話が再び鳴った。

 私はすぐに受話器を取った。

「私、メリーさん。今、エレベーターの中にいるの」

 電話の向こうで、到着した階を知らせる電子音が鳴った。

 続いて扉が開く音がしたところで、通話は切れた。

 私は受話器を戻した。

 母は一一〇番へ電話をかけ、相川の名前と三週間前の事件について説明し始めた。

 しかし、私たちは相川がどこの病院に入院しているのか知らない。母が電話口の相手に調べてもらっているあいだにも、固定電話は三度目の呼び出し音を鳴らした。

 私は親機のスピーカーボタンを押し、そのまま電話に出た。

「私、メリーさん」

 今度は、誰かに聞かれるのを避けるような小さな声だった。

「今、相川浩二の病室の前にいるの」

 電話の向こうで、靴音が止まった。

 ドアノブの回る音がする。

 やがて扉が静かに開き、硬い靴底が病室の床をゆっくりと進み始めた。

『誰だ?』

 眠気と警戒の混じった声だった。

 相川だ。

『そこに誰かいるのか?』

 靴音が止まった。

 短い沈黙のあと、メリーが囁いた。

「今、あなたの後ろにいるの」

 相川の悲鳴が響いた。

 何かが倒れ、金属製の器具が床を跳ね回る。続いて警報音が鳴り、廊下から複数の足音が駆け込んできた。

『どうしました!?』

『相川さん、聞こえますか!』

 誰かの叫ぶ声が重なった直後、すべての音が途切れた。

 通話が切れていた。


          ◇◇◇


 夜が明けて間もなく、警察から母へ連絡があった。

 相川が、病室からいなくなったという。

 窓は内側から閉まっていた。

 廊下には警察官がいた。

 防犯カメラにも、相川が病室から出る姿は映っていなかった。

 ベッドの上に残されていたのは、電源の切れたスマホだけだった。

 相川がどこへ消えたのか、今もわかっていない。


          ◇◇◇


 その日の夕方、学校から帰ると、メリーは本棚の上へ戻っていた。

 赤いドレスも金色の髪も、以前と何も変わらない。

 ただ、近づくと、病院の廊下のような消毒液の匂いがした。

 私は鞄を床へ置いた。

「おかえり」と言いかけて、やめた。

 この人形を迎え入れてはいけない。

 なぜか、そう思った。

 私は視線を逸らし、部屋を出ようとした。

 すると、背後から幼い声が聞こえた。

「ただいま」

 振り返る。

 メリーは動いていなかった。

 けれど、その青いガラスの目は、さっきまで見ていた部屋の中央ではなく、まっすぐ私を見つめていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ