メリーさん
母がその人形を捨てたのは、冷たい雨の降る朝だった。
赤いドレスを着た、五十センチほどの西洋人形。陶器のように白い頬と、細かく波打つ金色の髪。青いガラスの目は瞬きをせず、どこから見てもこちらを追ってくるように見えた。
名前は、メリー。
二年前、母と付き合っていた相川浩二という男が、私の十一歳の誕生日にくれたものだった。
最初のころ、相川は優しかった。母が仕事で遅くなる日は夕飯を作り、私の宿題を見てくれた。
しかし、母と別れてからは、何度も職場へ押しかけるようになった。家の前で待ち伏せをしたこともある。知らない番号から、母のスマホへ一晩に何十件も着信を残したこともあった。
警察へ相談したあと、母は玄関の鍵を替え、防犯カメラを取りつけた。
それでも、メリーだけは捨てられずにいた。
人形には罪がないと思っていたからだ。
けれど、その朝、母は私の部屋へ入るなり、棚の上に座っていたメリーを持ち上げた。
「これも、もう捨てよう」
断る間もなかった。
母は人形を黒いごみ袋へ入れ、口をきつく縛った。薄いビニール越しに、赤いドレスと白い顔がぼんやりと透けている。
「まだ持ってたら、あの人とつながってるみたいで嫌なの」
そう言った母の指は、結び目から離れたあとも小さく震えていた。
私は何も言えなかった。
やがて母が袋を持ち上げると、中で硬いものが擦れた。メリーの靴が、廊下の壁に一度だけ当たった。
こつん。
まるで、袋の中から誰かが返事をしたような音だった。
◇◇◇
その日の夜、母は仕事へ出かけた。
本当なら休むつもりだったらしい。しかし、夜勤の職員が急に一人来られなくなり、代わりを頼まれたのだという。
「どうしても嫌なら、休むよ」
母は玄関で靴を履きながら、何度も私の顔を見た。
「大丈夫だよ。もう子供じゃないし」
そう答えると、母は困ったように笑った。
「玄関は、私が出たらすぐチェーンを掛けて。インターホンが鳴っても、絶対に開けないこと。お母さんだって言われても、先に電話で確認して」
「わかってる」
「何かあったら、一一〇番。私より先に警察へ電話するのよ」
念を押してから、母はようやく外へ出た。
扉を閉め、鍵を回し、言われたとおりチェーンを掛ける。鎖が金具に落ちる乾いた音が、人気のない家の中へ思った以上に大きく響いた。
窓の外では、朝から降り続いている雨が、細い筋になってガラスを伝っていた。
母の車のエンジン音が遠ざかる。
すると、それまで家の中に残っていた生活の気配まで、一緒に消えてしまった。
居間の時計が秒を刻む音。
冷蔵庫が低く唸る音。
屋根から落ちた雫が、ベランダの手すりを叩く音。
どれも普段なら気にも留めない音なのに、その夜は、誰かが家の中を歩き回っているように聞こえた。
私はテレビをつけ、わざと音量を少し上げた。
けれど、九時十七分。
居間の固定電話が鳴った瞬間、テレビの音など聞こえなくなった。
画面に表示された番号は、非通知だった。
母からではない。
そうわかっているのに、呼び出し音は一定の間隔で鳴り続けた。音が途切れるたびに、今度こそ切れたのかと期待する。けれど、短い静寂のあとには、決まって同じ音が家じゅうへ響いた。
このまま無視しても、相手は諦めない。
そう思い、私は受話器を取った。
「もしもし」
返事はなかった。
代わりに、ざあざあという雑音が聞こえた。風の音にも、遠くを走る車の音にも聞こえる。
「もしもし?」
もう一度呼びかけると、雑音の向こうから、幼い女の子の声がした。
「私、メリーさん」
背中が冷たくなった。
「今、駅前にいるの」
そこで電話は切れた。
受話器の向こうには、何の音も残っていなかった。
それでも私は耳から離せず、しばらくその場に立ち尽くしていた。
メリーさんの電話。
捨てた人形が少しずつ家へ近づいてきて、最後には背後へ現れるという、古い怪談。
もちろん、本物のはずがない。
母が人形を捨てたことを知っている誰かが、悪ふざけをしているだけだ。
そう考えて、無理に受話器を戻した。
ところが、電話機から手を離した途端、家の静けさがさっきよりも濃くなった。
駅前からここまでは、歩いて十五分ほどだ。
私は反射的に時計を見た。
◇◇◇
次の電話は、九時二十四分にかかってきた。
「私、メリーさん。今、コンビニの前にいるの」
今度は、すぐには切れなかった。
声の後ろで、自動ドアが開く電子音が聞こえた。続いて、聞き覚えのある店員の声がする。
――ありがとうございました。
近所のコンビニの店員は、最後の「とう」だけ妙に高い声を出す。
電話の向こうから聞こえた声も、同じだった。
私は窓へ近づきかけて、足を止めた。
カーテンを開けてはいけない。
こちらから外が見えるということは、外からもこちらが見えるということだ。
そこで、スマホから母へ電話した。
だが、呼び出し音が続くだけで出ない。仕事が始まったばかりなら、スマホをロッカーへ入れているのかもしれなかった。
私は短いメッセージを送った。
〈変な電話がかかってくる。メリーさんって言ってる〉
送信済みの表示を見つめていると、固定電話が再び鳴り始めた。
時計は九時三十一分を示していた。
今度は、呼び出し音を聞くだけで胸が苦しくなった。
出たくない。
それでも、このまま鳴らし続けられるほうが怖かった。
私は唾を飲み込み、受話器を耳に当てた。
「私、メリーさん」
声は、前より近かった。
「今、あなたの家の前にいるの」
通話が切れた直後、玄関のチャイムが鳴った。
私は悲鳴を噛み殺した。
インターホンのモニターが自動で点灯する。
雨に濡れたレンズの向こうに、一人の男が立っていた。
黒いレインコート。額に張りついた前髪。雨に濡れ、青白く見える顔。
相川だった。
顔を見たのは一年ぶりだった。それでも、片側の口元だけを歪めるような笑い方は、すぐに思い出した。
『美咲ちゃん、いるんだろう?』
スピーカー越しの声には、雨音が混じっていた。
『お母さんに頼まれて来たんだ。ちょっと開けてくれる?』
私は返事をしなかった。
『聞こえてるよね。お母さん、忘れ物したんだって。俺が取りに来てやったんだよ』
嘘だった。
母なら、相川に頼み事などしない。それ以前に、連絡を取るはずがない。
ところが、相川は私の沈黙を迷いだと思ったらしい。
『寒いんだよ。話だけでもしよう。ほら、昔みたいにさ』
そのとき、固定電話が鳴った。
モニターの中で、相川の目がわずかに動いた。家の中の音を聞き取ろうとしているようだった。
私は身を屈め、玄関から見えない位置まで移動してから受話器を取った。
「私、メリーさん」
幼い声が囁く。
「今、あなたの家の前にいるの」
私は玄関のモニターへ目を向けた。
映っているのは、相川だけだった。
「でも、そこにいるのは……」
「それ、私じゃないよ」
声が、少し低くなった。
「その人、嘘をついてるよ」
指先から血の気が引いた。
「知ってる」
「中に入れちゃ駄目」
「入れない。警察に――」
「あの人に、あなたを取られたくないから」
そこで通話が切れた。
取られたくない。
助けたい、ではなかった。
その言葉の意味を考える間もなく、玄関の向こうで相川が息を吐いた。
『そうか。開けないんだな』
低くなった声には、さっきまでの笑いが残っていなかった。
次の瞬間、モニターから相川の姿が消えた。
雨に濡れた玄関先だけが映っている。
私は画面を見つめたまま、耳を澄ませた。
ほどなくして、外壁の向こうから、砂利を踏む音が聞こえた。
濡れた靴底が、家の脇をゆっくりと進んでいる。
音は居間の横を通り、やがて台所のある裏手へ回っていった。
その直後、固定電話が再び鳴った。
「私、メリーさん。今、あなたの家の裏にいるの」
その言葉と重なるように、台所の窓から、きい、と細い音がした。
金属の枠を、硬いもので擦る音だった。
◇◇◇
私はすぐにスマホを取り出し、一一〇番へ電話をかけた。
「はい、一一〇番警視庁です。事件ですか、事故ですか?」
「男の人が、家に入ろうとしています」
「男は、もう家の中にいますか?」
「まだです。でも、さっき玄関からいなくなって、家の裏へ回ったみたいです」
「裏へ回るところを見たんですか?」
「見てはいません。防犯カメラから消えたあと、家の横を歩く音がしました」
まず住所を尋ねられた。
慌てて番地を言い間違え、聞き返されてから、今度は一つずつ区切って伝える。続いて、私の名前と年齢、家に一人でいることを話した。
さらに、男は母の元交際相手で、名前は相川浩二。以前から母の職場や家の前で待ち伏せを繰り返し、母が警察へ相談していることも説明した。
住所を伝え終えても、確認は続いた。
相川の服装と持ち物。窓を壊す道具や刃物が見えたか。今も外から音がするか。玄関や勝手口には鍵が掛かっているか。
私は台所へ近づかないまま、わかることと、わからないことを順番に答えた。
「警察官を向かわせています。男の姿を確かめに行かないでください」
「はい」
「今は、家のどこにいますか?」
「一階の居間です」
「二階に、内側から鍵をかけられる部屋はありますか?」
「私の部屋があります」
「そこまで安全に移動できそうですか?」
私は階段のほうを見た。
居間から階段までは近い。台所の前を通る必要もない。
「行けると思います」
「では、スマホを持って、すぐに移動してください。部屋へ入ったら鍵をかけ、窓から離れてください」
「警察は、あと何分くらいで来ますか?」
「すでに警察官が向かっています。到着するまで電話は切らないでください。話せない状況になったら、無理に返事をしなくても大丈夫です」
「わかりました」
通話をスピーカーに切り替えたところで、居間の固定電話が目に入った。
メリーさんの電話は怖かった。
それでも、あの声は相川の居場所を知っていた。
もし再び電話がかかってくれば、どこから近づいてくるのか教えてくれるかもしれない。
一瞬迷った末、私は親機の横に置かれた子機もつかんだ。
スマホと子機を胸に抱え、足音を忍ばせて階段へ向かう。
その途中、台所から、がりっ、と大きな音がした。
何かを窓枠へ差し込み、無理やり捻っている。
続いて、ガラスに細い亀裂が走った。
ぴしっ。
その音自体は小さかった。
しかし、家の静けさの中では、薄い氷が足元まで割れてきたように聞こえた。
私は階段を上り始めた。
できるだけ足音を立てないよう、手すりにつかまりながら一段ずつ体重を移す。それでも古い木の段板は、足を置くたびに低く軋んだ。
半分まで上ったところで、台所のガラスが砕けた。
激しい音とともに、冷たい外気が家の中へ流れ込む。
電話口の女性が、何が起きたのかを尋ねた。
「窓が……割れました」
「警察官に伝えます。そのまま二階の部屋へ移動してください」
背後で、窓枠に残ったガラスがかちかちと鳴っていた。
やがて、床へ重いものが落ちる音がした。
そのあとで、濡れた靴底が台所の床を踏んだ。
相川が、家の中へ入った。
◇◇◇
二階へ上がると、短い廊下がまっすぐ延びている。その突き当たりが、私の部屋だった。
部屋の扉と向かい合うように、階段脇の壁へ細長い姿見が置かれている。扉さえ開いていれば、部屋の奥からでも鏡が見える位置だった。
私は自分の部屋へ飛び込み、鍵を掛けた。
さらに勉強机を扉の前へ押す。机の脚が床を擦り、耳障りな音を立てた。
「部屋へ入りました。鍵を掛けました」
「わかりました。窓から離れて、できるだけ低い姿勢でいてください」
私はベッドと壁の間へしゃがみ込んだ。
固定電話の子機を床へ置こうとした瞬間、それが鳴り始めた。
電子音が狭い部屋に響く。
階下の相川にも聞こえたかもしれない。
慌てて通話ボタンを押した。
「私、メリーさん」
さっきよりも、声が近い。
「今、台所にいるの」
電話の向こうで、何かが床を踏む音がした。
同時に、一階からも同じ音が聞こえる。
子機の奥と、実際の家の中。
二つの足音が、わずかにずれて重なっていた。
「相川は、どこ?」
「今、階段の下にいるの」
答えを聞いた直後、階段が低く軋んだ。
私は口を押さえた。
スマホから、電話口の女性が誰と話しているのかを尋ねる声がした。
しかし、説明している余裕はなかった。
階段の軋みが、少しずつ近づいてくる。
一つ音がするたび、そのあとの静寂が長く感じられた。
相川は急いでいなかった。私が逃げられないと知っているように、時間をかけて上がってくる。
やがて足音が二階の廊下へ移り、私の部屋の前で止まった。
しばらく、何の音もしなかった。
それから、扉の向こうで相川が囁いた。
「美咲ちゃん」
優しい声だった。
昔、宿題を教えてくれたときと同じ声。
「怖がらなくていいよ。お母さんと話がしたいだけだから」
私は返事をしなかった。
「開けてくれたら、何もしない」
ドアノブが静かに回る。
鍵に止められ、そこで動きが止まった。
「お母さんは、ここにいないよ」
声を出した直後、言わなければよかったと思った。
扉の向こうで、相川が笑った。
「知ってるよ」
その一言で、胸の奥が凍った。
相川は、母がいないことを知ったうえで来たのだ。
次に、鍵の周辺で金属を擦る音がした。
隙間から何かを差し込んでいる。
「美咲ちゃんが開けてくれないから、仕方ないんだよ」
ねじ回しの先端が、鍵の金具を何度も引っかいた。
扉が揺れるたび、押さえている机もわずかに動いた。
私はスマホを握りしめた。
遠くから、サイレンらしき音が聞こえた気がする。
しかし、雨音と風に紛れ、確信は持てなかった。
やがて鍵の金具が外れた。
扉が数センチ開き、机の脚が床を擦る。
隙間から、相川の目がのぞいた。
「いた」
その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
相川は肩を扉へ押し当てた。
机が少しずつ後ろへ滑ってくる。
私はベッド脇にあった椅子をつかみ、両手で構えた。けれど腕は震え、椅子の脚が壁に当たって乾いた音を立てる。
扉がさらに開いた。
濡れたレインコートから、雨水と泥の匂いが流れ込んできた。その奥には、汗と煙草の混じった、覚えのある匂いがあった。
「大丈夫だよ」
相川は息を切らしながら笑った。
「美咲ちゃんを連れていけば、お母さんもちゃんと話を聞いてくれるから」
肩に掛けた大きな鞄が、扉の隙間を抜けて入ってくる。
その中で、硬いものがぶつかり合った。
相川が最後に強く身体を押し込む。
机が倒れ、扉が開いた。
私は椅子を振り上げた。
ところが、その瞬間、相川の鞄の中からスマホの着信音が鳴った。
相川の動きが止まる。
「誰だよ……」
舌打ちしながらスマホを取り出す。
画面には、番号が表示されていないらしかった。
相川は一度切った。
しかし、すぐにまた鳴り始めた。
苛立った様子で通話ボタンを押し、スマホを耳へ当てる。
「誰だ」
相川が耳に当てているはずのスマホから、幼い女の子の声がした。
受話音量ではありえないほど鮮明な声だった。まるでスマホからではなく、この部屋のどこかから響いているように聞こえた。
『私、メリーさん』
相川の顔から、笑みが消えた。
『今、あなたの後ろにいるの』
相川が振り返る。
廊下には誰もいなかった。
少なくとも、鏡を見なければ、そう見えた。
扉が大きく開いたことで、相川の肩越しに、階段脇の姿見が見えていた。
その鏡の中だけに、女の子が映っている。
赤いドレス。
金色の巻き毛。
陶器のように白い頬。
そして、瞬きもしない青い目。
捨てたはずのメリーが、相川の背後に立っていた。
私は鏡から視線を外し、相川の後ろを直接見た。
そこには、誰もいない。
もう一度、鏡を見る。
メリーは消えていなかった。
鏡の中のメリーは、ゆっくりと両手を持ち上げた。
その指先が、相川の肩へ触れる。
現実の廊下には、やはり何もいない。
それなのに、相川のレインコートが、見えない手につかまれたように背後へ引かれた。
「何だよ、これ」
相川が腕を振り回す。
身体が部屋から引きずり出され、濡れた靴が廊下の床を滑った。
「離せ! 誰だ!」
相川は階段の手すりへ腕を伸ばした。
しかし、指先が届く直前、身体が大きく後ろへ傾いた。
鏡の中で、メリーが笑った。
次の瞬間、相川の姿が階段の向こうへ消えた。
身体を何度も段へ打ちつける鈍い音が、階下へ転がっていく。
最後に、重い衝撃音が響いた。
それきり、相川の声は聞こえなくなった。
◇◇◇
サイレンの音が、今度こそ家の前で止まった。
赤い光がカーテンの隙間から入り、暗い部屋の壁を何度も横切る。
スマホから、電話口の女性の声がした。
「美咲さん、警察官が到着しました。玄関を開けに行かず、そのまま二階にいてください」
すぐに、玄関を強く叩く音と、警察官を名乗る声が聞こえた。
しかし、玄関には鍵もチェーンも掛かっている。
返事をせずにいると、外の足音が家の脇を走り、裏手へ回っていった。
ほどなくして、階下から複数の足音が響いた。
割れた台所の窓から入ったらしく、靴が床のガラスを踏む音がする。
「警察だ! 動かないで!」
「両手を見える位置に出してください!」
相川の呻き声が、かすかに聞こえた。
続いて、手錠のものらしい金属音が鳴る。
「確保」
その一言のあとも、すぐには誰も二階へ上がってこなかった。
警察官たちは一階の部屋を確認し、ほかに人が潜んでいないか調べているようだった。
やがて、階段の下から声がした。
「二階の美咲さん。警察です。聞こえますか?」
「はい」
「男は確保しました。今から警察官が二階へ上がります。手には何も持たず、その場で待っていてください」
私は椅子を床へ置いた。
足音が慎重に階段を上ってくる。
開いた扉の前に現れた警察官は、まず私の名前を確認し、怪我がないかを尋ねた。それから、二階にほかの人がいないことを確かめて、ようやく無線を下ろした。
「もう大丈夫です」
その言葉を聞いた途端、身体から力が抜けた。
床へ座り込んだ私の手から、固定電話の子機が滑り落ちた。
表示を見る。
メリーさんとの通話は、いつの間にか切れていた。
◇◇◇
相川の鞄からは、ロープと粘着テープ、それに折り畳み式のナイフが見つかった。
警察官が中身を確認するあいだ、私は毛布を肩に掛けられ、パトカーの後部座席に座っていた。
雨は弱くなっていたものの、家の前には赤い回転灯の光が絶えず流れていた。濡れた道路も、玄関の壁も、集まった近所の人々の傘も、同じ色に染まっている。
やがて母が駆けつけた。
制服の上にコートを羽織っただけで、髪は乱れ、息を切らしていた。
「美咲!」
母は私を抱き締めた。
冷えた頬に、母の涙が落ちた。
「ごめんね。ごめんね、一人にして」
私は大丈夫だと言おうとした。
けれど、喉が詰まり、声にならなかった。
代わりに母の背中へ腕を回す。
その向こうで、相川が担架に乗せられて運ばれていた。
階段から落ちて脚と肋骨を折ったらしい。それでも意識はあり、警察官に両側を挟まれながら、しきりに何かを訴えていた。
「女の子がいたんだ」
雨の中で、相川の声が響く。
「赤い服の女の子が、俺を押したんだよ。家の中にいたんだ!」
警察官は答えなかった。
私も何も言わなかった。
ただ、二階の階段脇にある姿見を見上げた。
赤い光が鏡の表面をかすめるたび、その前に小さな影が立っているように見えた。
◇◇◇
母と私は、叔母の家で三日間過ごした。
警察による現場の確認が終わり、割れた窓の応急処置が済んでから、ようやく自宅へ戻った。
台所の窓には板が打ちつけられ、床に散っていたガラスも片づけられていた。しかし、部屋にはまだ湿った木と消毒液の匂いが残っていた。
母は家へ入るなり、すべての窓と鍵を確認した。
私は一人で二階へ上がった。
自分の部屋の前で、足が止まる。
扉には、相川が工具でつけた傷がいくつも残っていた。
深呼吸をして、ゆっくり扉を開ける。
メリーは、本棚の上に座っていた。
捨てる前と同じ姿だった。
赤いドレスには皺一つなく、金色の髪もきれいに整っている。
ただ、白い靴の裏にだけ、黒い泥が付着していた。
「お母さん」
呼ぶと、母が階段を駆け上がってきた。
人形を見た瞬間、母の顔が強張った。
「どうして……」
「この子が助けてくれたの」
私は、電話のことを最初から話した。
メリーさんを名乗る声が、駅前から少しずつ家へ近づいてきたこと。
家の前にいた相川を、自分ではないと言ったこと。
そして、相川の背後に現れたこと。
母は途中で口を挟まず、黙って聞いていた。
話が終わると、しばらくメリーを見つめ、それから私の手を握った。
「助けてくれたとしても、安全だとは限らない」
「でも、また捨てたら……」
「そうね」
母は人形に触れなかった。
「今は、ここに置いておきましょう」
私たちはメリーを本棚から動かさなかった。
捨てるよりも、見える場所に置いておくほうが、まだましだと思ったからだ。
◇◇◇
それから三週間、何も起こらなかった。
相川は住居侵入などの容疑で逮捕され、怪我の治療のため、警察官の監視下で病院に入院していた。
一方、家には新しい防犯カメラと警報装置が取りつけられた。台所の窓も、以前より厚いガラスへ交換された。
母は夜勤を減らし、私を一人にしないようにした。
メリーは、毎日同じ場所に座っていた。
朝、学校へ行くときも、夕方、帰ってきたときも、夜、眠る前も。
青いガラスの目で、部屋の中央を見つめている。
次第に、私はメリーがそこにいることへ慣れていった。
少なくとも、そう思っていた。
◇◇◇
午前二時十三分。
固定電話の呼び出し音で目が覚めた。
枕元の時計を確かめてから、私はベッドの上で身体を起こした。
暗い部屋の中、本棚へ目を向ける。
メリーがいない。
人形が座っていた場所には、赤いドレスの裾がつくった小さな埃の跡だけが残っていた。
階下では、電話が鳴り続けている。
私は母を起こし、二人で居間へ下りた。
母が照明をつけるあいだに、私は親機の受話器を取った。
「もしもし」
「私、メリーさん」
あの声だった。
「今、病院の一階にいるの」
電話は切れた。
私は受話器を親機へ戻し、母と顔を見合わせた。
「相川のいる病院……?」
「わからない。でも、警察に電話する」
母がスマホを取り出したところで、固定電話が再び鳴った。
私はすぐに受話器を取った。
「私、メリーさん。今、エレベーターの中にいるの」
電話の向こうで、到着した階を知らせる電子音が鳴った。
続いて扉が開く音がしたところで、通話は切れた。
私は受話器を戻した。
母は一一〇番へ電話をかけ、相川の名前と三週間前の事件について説明し始めた。
しかし、私たちは相川がどこの病院に入院しているのか知らない。母が電話口の相手に調べてもらっているあいだにも、固定電話は三度目の呼び出し音を鳴らした。
私は親機のスピーカーボタンを押し、そのまま電話に出た。
「私、メリーさん」
今度は、誰かに聞かれるのを避けるような小さな声だった。
「今、相川浩二の病室の前にいるの」
電話の向こうで、靴音が止まった。
ドアノブの回る音がする。
やがて扉が静かに開き、硬い靴底が病室の床をゆっくりと進み始めた。
『誰だ?』
眠気と警戒の混じった声だった。
相川だ。
『そこに誰かいるのか?』
靴音が止まった。
短い沈黙のあと、メリーが囁いた。
「今、あなたの後ろにいるの」
相川の悲鳴が響いた。
何かが倒れ、金属製の器具が床を跳ね回る。続いて警報音が鳴り、廊下から複数の足音が駆け込んできた。
『どうしました!?』
『相川さん、聞こえますか!』
誰かの叫ぶ声が重なった直後、すべての音が途切れた。
通話が切れていた。
◇◇◇
夜が明けて間もなく、警察から母へ連絡があった。
相川が、病室からいなくなったという。
窓は内側から閉まっていた。
廊下には警察官がいた。
防犯カメラにも、相川が病室から出る姿は映っていなかった。
ベッドの上に残されていたのは、電源の切れたスマホだけだった。
相川がどこへ消えたのか、今もわかっていない。
◇◇◇
その日の夕方、学校から帰ると、メリーは本棚の上へ戻っていた。
赤いドレスも金色の髪も、以前と何も変わらない。
ただ、近づくと、病院の廊下のような消毒液の匂いがした。
私は鞄を床へ置いた。
「おかえり」と言いかけて、やめた。
この人形を迎え入れてはいけない。
なぜか、そう思った。
私は視線を逸らし、部屋を出ようとした。
すると、背後から幼い声が聞こえた。
「ただいま」
振り返る。
メリーは動いていなかった。
けれど、その青いガラスの目は、さっきまで見ていた部屋の中央ではなく、まっすぐ私を見つめていた。




