三話
考え事をしながら必死に板書をとるだけの授業は、いつもより早く終わったように感じた。
ホームルームを終えると、部活の時間だ。ここからは、演劇部と美術部では終わる時間が違うので、冬華と行動を共にすることはなくなる。もちろん最終下校時刻は定められているけど、美術部は比較的それよりも早く終わることが多い。
「紬、また明日ねっ」
部活熱心な冬華は私に声をかけると、返事をする暇もなく慌ただしく部室へと向かった。これも、いつものことだ。美術部は割とゆるいので、私は特に急ぐこともなく帰り支度を済ませ、部室に向かう。
部室の扉を開けると、もう既に作品にとりかかっている生徒や、雑談している生徒など、様々だ。
私が入ってきたことに気付いた顧問の柴崎先生が、こちらに向かってくる。
「こんにちは、朝倉さん。まだ少し早いけど、夏のコンクールに出品する気はない?」
「ああ......えっと、こんにちは。コンクールのテーマによりますけど......」
私は、というか多分みんな、好きな絵を描いている。だから、好きでもない絵を考えて描かされることは苦痛でしかなかったりする。いや、これは私だけなのかもしれないけれど。
「テーマねぇ、まだ先だから分からないわね。もし風景画なら、あなた得意だと思って。別に私は立場上言ってるだけで、私個人としてはどちらでもいいのだけどね」
頬に手をあてて、教師としてあるまじき発言をする彼女は、戸惑っている私を見て誤魔化すように笑った。
「朝倉さんの風景画は、どこか現実味がないからコンクールで通るかは分からないけれど、私は好きよ。あなたには、世界がこういう風に見えているのかしら?」
「......逆です」
疑念だらけの現実を、私は描くことができない。写生もデッサンも、やれと言われればやるしかないのはそうだけれど、私は、こうであってほしい世界を、ずっと描いていたい。
俯く私に、柴崎先生は何かを察したように私の肩に手を置いた。
「......そう。いつか、あなたの作品のような世界に見える日が来るといいわね」
核心づいた言葉を聞かされ、動揺するわたしを落ち着かせるように、彼女は「さ、描いた描いた」とキャンバスへと誘導する。私はされるがままに真っ白なキャンバスの前に座り、画材の準備を始める。そして目を瞑り、今回はどんな世界を描こうかと、頭の中で構想を練る。
これだけで部活の時間が終わる日もあるし、少し手をつけられる日もある。今日の結衣の発言を思い出した私は、すぐに筆を進めることができた。
もやもやすることがあると、よく筆が進むなんて、皮肉なものだ。
「はーい、そろそろキリがいいところで片付けを始めてね~」
柴崎先生の声で、自分だけの世界から現実へと引き戻される。集中しきっている時はその声すら届かず、肩を叩かれて気付くなんてこともある。
私にとっては現実に戻ってきた時がキリのいいところだ。すぐに片付けを始めようとしたところで、ふと一人の男子生徒と目が合う。あれは確か、今年入部してきた一年生だ。部員とほぼ交流がなく、名前を覚えるのも苦手な私は、あの子の名前を知らない。
男子生徒は軽く会釈をして、気まずそうに顔を逸らし片付けはじめた。あの反応は、なんだろう。少し気になりつつも、私も片付けの手を進める。
先生にさようならと挨拶をして、部室をあとにする。
下駄箱に向かう途中の廊下で、今朝冬華が足を止めた私の絵の前に、また人が立っていた。さっきの男子生徒だ。廊下に飾られている絵なんて誰も見向きもしないと思っていたのに、立ち止まって自分の絵を見てくれる人がいるだなんて、嬉しいやら恥ずかしいやら。
とはいえ、黙って通り過ぎるのも気まずいので、声をかけてみる。
「あの、それ、私の......」
男子生徒は、私に気付くと慌てて弁解するような口調で話し始めた。
「あっ、朝倉先輩の絵、俺のとは真逆で、なんかその、俺には描けないものを描ける先輩がすごくてっ、尊敬っていうか!」
あたふたと落ち着きのない彼をよそに、まっすぐな褒め言葉を浴びた私は照れが隠せない。そして、なんとなく、彼の名前をちゃんと知っておきたいと、強く思った。
「えっと、......ありが、とう。その、ごめん、私、人を覚えるのが苦手で、失礼なんだけど、君の名前は......?」
「あ、すみません、佐々木修ですっ。いきなり語りだしてごめんなさい、お疲れ様でしたっ!」
すみませんはこちらのセリフなのだけど、佐々木くんは一応名乗って逃げるように去って行った。
――佐々木修くん。私の絵と真逆ということは、私が不得手なものが得意ということだろうか。自分のものと比較してしまうから、ほかの生徒の作品を見ることはあまりしないのだけど、彼の作品には興味が出てきた。
また部活の時間に見てみよう。嫌がられなければ、いいんだけど。




