第二王子からの呼び出しと黒髪の護衛騎士
公衆の面前でずっと自分を慕ってくれていた彼女を、ああいう形で突き放すのは、最善の振舞ではなかったかもしれません。
顔面蒼白になりながら、地面に膝をついて体を震わせているメアリーには、もうこれ以上言葉をかける必要はありません。
私は一呼吸おいてから、カンナ様とアザレア様の方へと振り返る。
「カンナ様、アザレア様。お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
そう言って、私は二人に向かって謝罪の言葉を述べる。私のせいで、お二人には不快な気持ちにさせてしまった。特にカンナ様は、深く傷ついていることでしょう。
私がお二人をお誘いしなかったら、こんなことにはならなかったかもしれません。そう思って、ぎゅっと両手に力を込めた時でした。
「そ、そんなことありません、アイリス様! その、わたくしのせいで……ご迷惑をおかけいたしましたわ(わたくしのせいで……アイリス様にご迷惑をかけてしまった……)」
彼女はそう言って、自分のせいだと言わんばかりの表情で顔を伏せる。そんなカンナ様の手を、隣にいるアザレア様がそっと両手で優しく包んでいる。
雪のような白い髪に、春の季節に舞う桜の花びらによって彩られたピンク色のメッシュが入った髪を持つ少女――アザレア・ヴァイス・ド・アウラ・ラナンキュラス公爵令嬢。
アザレア様は本当に、カンナ様の事を心配そうに見つめている。カンナ様の両手を包んでいる彼女の手は、カンナ様にとってはきっと温かく安心できるものなのでしょう。
カンナ様は先ほどは違い、少し落ち着いた表情を浮かべている。
ヒソヒソと周りにいる方々が話す言葉の多くは、カンナ様の耳に届いていたことでしょう。それは醜悪で侮蔑に塗れた悪意ある言葉ばかり。その言葉に私自身ですら、彼らに怒り以上の感情を抱いてしまうほどに。
ルーカス殿下は、私にカンナ様を見張れと命令をしました。彼の言葉の中には、この光景を自身の目で確かめてみろ、という深いお考えでもあるのでしょうか?
なんて、殿下が絶対に考えていない事が思い浮かび、私は直ぐにそれを振り払った。
カンナ様の噂の数々は、王城で王妃教育を受けていた時にいくつか耳にした事がありました。侍女や騎士たち、王城に足を運んでくださる先生たちもが、『カンナ・ロベリアの悪評』について面白半分や興味本位で語り合っていた。
その度に、話を振られているイクシオン様の姿を何度もお見掛けしたことだありました。彼は軽く聞き流しながら、カンナ様の悪口を言う人を一人も殴ることはありませんでした。
普通でしたら、家族の悪口を言われれば誰もがいい気分はしませんし、相手に殴りかかる場合だってあります。
しかしイクシオン様を含め、騎士団に所属しているヘリオス様やウラノス様は、決して『妹のために』と言って、誰かを殴ることはなかった。
それはきっと『大切な妹』を守るための、ある種の一つの方法なのかもしれません。
私がカンナ様の悪評を耳にした時、誰もが私に同意を求めてきました。
「アイリス様もそう思いますよね?」
と、まるでそう思うことが当たり前のように。
私は、幼い頃に一度だけカンナ様に会ったことがあります。
お母様に連れられて、初めてロベリア邸を訪れた時、彼女はヴィーナ様と一緒に私たちを出迎えてくれた。とても大事そうに黒兎のぬいぐるみを抱きしめ、ヴァイオレットモルガナイト色の瞳からは幼いながらにも、何事にも恐れない強い意志が伝わってきた。
大好きな家族に囲まれて屈託なく笑っていたその姿に、私は少し羨ましいと思いました。
幼い頃から王妃教育を受けさせられ、王族のしきたりや定められたルールの中で育った私には、無邪気な日常がとても遠かったから。
──自分がどの道を歩むのかは、人に決められるものではありません。公爵令嬢だから、未来の王妃だからと言って、私は私に関する全ての事を、周りから決められたくありません──
先程、メアリーに向かって自分が言い放ったその言葉に対して、私は内心で「嘘つき」と呟き、今の自分の立場を再認識して、バレないように軽く息をついた。
(私は、どれだけ自分の意志で道を選べているのでしょう……)
しかし、今はそんな思索に耽る時間ではありません。
噂が真実であれ、嘘であれ、カンナ様は既に変わられている。きっと変わるきっかけとなったのが、アザレア様なのかもしれませんね。
「少し目立ちすぎてしまいましたね。皆様の視線も落ち着かないでしょう。場所を移動しましょうか」
私はそう言って、二人を連れて校舎の中へ戻ろうと向きな直ろうとした時でした。
「アイリス様」
私たちの目の前に一人の男性が静かに、しかし厳格な礼儀をもって立っていた。周囲のざわめきすらも寄せ付けない、静謐な空気を纏っている。
彼の姿に見覚えがあった私は、『やはり来ましたか』と内心で呟き、彼に向かって改めて深くお辞儀する。
「これは、アルファス王子殿下の護衛騎士であられるカイン様。ごきげんよう」
「アイリス様も、変わらずお元気そうで何よりです。ご挨拶が遅れ、失礼いたしました」
カイン・ルクス・アスレイ──
彼はロベリア家に匹敵するほどの由緒正しき武門の家柄、アスレイ伯爵家の次期当主だ。騎士でありながら、その体躯は細身で鍛え上げられているが、剣士というよりは思考を重んじる学者を思わせるような知的な印象を纏っている。
短く整えられた黒い髪の下には、冷たい光を放つような金色の瞳が据えられており、その視線は鋭い。その表情は常に感情を読み取れない無表情で覆われていた。
彼は幼い頃からアルファス殿下の側近を務めていて、私とも面識がある方だ。
カイン様はチラッとカンナ様とアザレア様の二人へ視線を移したが、その金色の瞳は一瞬たりとも揺るがない。その一瞬の静止だけで彼が二人の存在、特にカンナ様とこの状況を瞬時に把握したことが窺えた。
「ご学友たちとご一緒のところ大変申し訳ありませんが、アイリス様」
カイン様は、まるで感情のない機械のように丁寧な口調で、私だけに向かって続けた。
「アルファス殿下が、あなた様をお呼びです。お急ぎのご様子でしたので、直ぐにご案内させていただきます」
彼のその一言に、先ほどの騒動で静まり返っていた静寂が、また小さくざわつき始めた。
私は真っ直ぐカイン様の金色の瞳を見返した。
来ることは予想しておりましたけど、まさかカイン様を迎えによこすとは思っておりませんでした。アルファス殿下の性格からして、ご自身で来るものだと思っていた。
どうやら、彼は生徒会長室で私を待っているようですね。
「……承知いたしました。それでは、カイン様。道案内をお願いできますでしょうか」
「かしこまりました、アイリス様」
私は、彼の言葉に従うしかなかった。この呼び出しは、きっと私的な呼び出しだと思ったから。
私はカンナ様とアザレア様の方へ振り返った。
「カンナ様、アザレア様。申し訳ありませんが、私は生徒会長室へ向かわねばなりません。ここでお別れさせてください」
本当はこのままの状況でお二人をここに置いて行きたくありませんが、仕方がありません。
カンナ様は直ぐに事態を察してくれたのか、冷静に頷いて見せた。
「分かりましたわ、アイリス様。どうぞ、お気をつけてください」
彼女はそう言って一歩下がり、深いカーテシーを捧げた。その仕草には、先ほどの動揺はもはやなく、公爵令嬢としての完璧な礼儀が戻っていた。
その姿を見た私は、カンナ様がアザレア様のお側に居れば大丈夫だと判断し、二人を安心させるように微笑みかけた。
カイン様は、私が二人との別れを済ませるのを無言で待っていた。まるで時間の無駄だと言わんばかりの静けさだった。
私が二人から離れ、カイン様が先導するように歩き出す。静まり返ったアカデミーの廊下に、二人の靴音だけが響いた。
久しぶりに二人きりになったことで、私は少しでも場の緊張を和らげようと口を開いた。
「カイン様。お久しぶりですね。最近、アルファス殿下のお側を離れることが滅多にないと伺っておりましたが、お変わりなくご活躍のようで何よりです」
カイン様は、私の方を一瞥することもなく、まっすぐ前だけを見て歩いている。
「お気遣いありがとうございます、アイリス様。俺は常に殿下の職務に忠実であるのみです」
彼の声は、まるで事前に録音された音声のように感情がなく事務的だ。
「そう、相変わらず無口でいらっしゃいますね、カイン様」
「職務に関係のない私語は慎んでおります」
私は肩をすくめた。彼との会話はいつもこうだ。壁打ちをしているような気分になります。
話題を変えようと、私は彼のプライベートな事情に触れた。
「そういえば、カイン様。アルメリア子爵令嬢とのご婚約の件は、どうなりましたか? 以前、彼女からは上手くいっていると伺っておりましたが」
この質問に対し、カイン様は歩みを止めることなく口を開いた。
「破談になりました」
淡々とした、まるで今日の天気でも報告するかのような口調だった。その返答を聞いた私は、内心でそっと溜め息をついて。
(これで、三十五回目ですね……)
カイン様は幼い頃から優秀すぎて、完璧すぎるがゆえに、婚約の話が持ち上がっては短期間で相手から辞退されるか、彼自身が相手の『騎士の妻としての不適格さ』を理由に破談に持ち込む。
「そうでしたか。それは残念です」
彼の金色の瞳は相変わらず前を向いたままですが、私には彼の背中から、近づきがたいほどの孤独が滲んでいるように感じられました。
「あの差し支えなければ、お聞きしてもよろしいですか? カイン様が望まれる女性は、どのような方なのですか?」
カイン様は、そこで初めて廊下の曲がり角で歩みをピタリと止めた。そして私の方にわずかに顔を向けた。その金色の瞳は、相変わらず無感情だ。
彼は、一瞬の間の後、驚くほど簡潔に答えた。
「強いやつ」
その言葉は、まるで剣の切っ先のように鋭く、余計な説明を一切含まない。
私は、彼の予想外の簡潔さに思わず目を瞬かせた。
「……強いやつ、ですか。それは、家柄が強いという意味でしょうか? それとも魔力や剣技や優れているという意味でしょうか?」
カイン様は再び前を向き歩き出す。
「両方です」
彼は、それ以上何も語らなかった。
(強いやつ、ですか……)
私は、カイン様の婚約者には、彼の職務を理解し、家柄を守る知恵と、社交界を生き抜く強さが必要なのだろうと、漠然と理解しました。
しかし、私はさらに一歩踏み込んで尋ねてみることにしました。
「では、カイン様が求める『強く、家柄も魔力も伴った女性』は、この国に実在するのでしょうか? あるいはカイン様の心の中で、モデルとなる女性が一人でも思い当たる人物がいるのですか?」
私の問いかけは、彼の職務の領域から、彼の個人的な感情の領域へと踏み込んだものだった。
カイン様は、今度こそ完全に歩みを止め、生徒会長室の扉の前で立ち尽くした。そして、彼の黒髪の隙間から、その金色の瞳が静かに私を捉えた。
その無表情の奥で、わずかに、ほんの一瞬だけ、感情の波紋が揺れた気がした。
彼は、静寂を数秒間破ることなく保った後、低い声ではっきりと答えた。
「一人、思い当たる人物はおります」
その言葉は、私にとって予想外の告白だった。
私は驚きを隠せずに、彼を見つめた。カイン様がこれほど明確に、私的な感情を口にしたのは初めてのことでしたから。
カイン様は一瞬、私たちが歩いて来た方へ視線を向けたが、直ぐに生徒会長室の扉へと手を伸ばした。
「到着いたしまいた、アイリス様」
私は彼の『一人」という言葉の残響を胸に抱いたまま、カイン様がノックする音を聞くのだった。




