見習い執事だった頃のある日の話②
「最近なんだが、令嬢を誘拐する輩がいるらしいんだ」
アース様に執務室へ呼び出された俺は、なんの前置きもなく、突然そんな物騒な言葉を言い放たれた。
「…………人攫いですか?」
人攫い──確かにその話は、以前から執事長や他の使用人たちから噂として耳にしていた。詳しい内容は知らなかったが、アース様が言うには、どうやら犯人の狙いは裕福な家に生まれた貴族のご令嬢たちのようだ。
「そう、人攫いだ。それもタチの悪い方のな。なんでもその輩は、まだ幼い令嬢たちをターゲットにしているらしくてな。令嬢と引き換えに大金の身代金を要求してくるそうだ」
アース様は眉間に深い皺を刻み、険しい表情で続けた。
「それはまた……。令嬢を誘拐して身代金と引き換えることで、自分たちでも簡単に大金を手に入れることができると、そう思っているんでしょうか」
「そうだろうな。でなければ、令嬢をさらって身代金なんて要求してこないだろう」
アース様のおっしゃる通りだ。大金を手に入れるだけなら、誘拐以外にもいくつか手はある。だが、最も確実に、しかも手っ取り早く大金を手に入れることができるのはこの手法だろう。
貴族は平民と違って金があるし、自分たちの大切な娘が大金と引き換えに戻ってくるのなら、ほとんどの貴族たちは惜しみなく金を払って娘を取り戻すに違いない。
もちろん……中にはそうしない冷酷な人間もいるが。
「しかし、どうしてその話を俺にするんですか? 話したところで何もできませんが?」
俺の問いに、アース様は少しばかり驚いたように目を瞬かせた。
「いやいや、何を言っているんだ? 令嬢たちが狙われているんだぞ! つまりだな――」
俺は直感した。「あ、これ、ものすごく嫌な予感がするやつだ」。逃れられない運命を悟りながら、俺は深々と溜め息をついたのだった。
「というわけで、しばらくの間俺がお嬢様の護衛をさせていただくことになりました」
「………?」
俺の突然の発言に、お嬢様は大好きなお菓子を頬張りながら、小さな首を傾げた。
まあ、そうだろうな。当然の反応だ。俺だって同じように首を傾げたいところだ。
「ちょっと待ってください、アース様! お嬢様をお守りしろと言われましても、俺は戦うことなんてできません!」
アース様から下された命令はこうだった。
『人攫いの犯人が捕まるまで、しばらくの間お嬢様の側にいろ』
まず言わせていただく。俺はまだ子供だ。一体どうやって、もし現れたとして、相手が誰かも分からない犯人と戦えばいいというんだ!?
「俺だって本当はちゃんとした護衛騎士をつけたいと思っているさ。しかし、以前カンナの護衛騎士として、何人か付けさせたことがあるんだが……」
アース様はその時のことを思い出したのか、苦笑しながらそっぽを向いた。
その姿を見た俺はすべてを察した。つまり、お嬢様の護衛騎士になった者たちは、全員もれなく大泣きさせられたということだ。
「まあ、まだ四歳だし、幼いからガタイのいい大人たちを見たら、そりゃ怖がって泣くのは当たり前だ」
「お嬢様の場合、それは絶対にないと思いますけど……」
ガタイのいい大人が怖くて泣くというよりは、ただ単にお嬢様が気に入らなかった、というだけの話だろう。
だから騎士団の人たちは何も悪くない。だってあのお嬢様だぞ?
小さなくせに行動力がありすぎて、自分よりも遥かに大きい馬がいる小屋に隠れて遊んでみたり、外で遊んでは泥だらけになりながら虫たちをいじめてみたり……。
そんな男勝りで自由奔放なお嬢様が、「怖い」という理由だけで泣くはずがないのだ。
「だから、色々と考えた結果、今のお前が一番適任者なんだ。あのカンナがお前相手だと泣くことは少ないからな」
「いえ、泣かれることはありますよ? もう、ギャン泣きですよ?」
それもどこからそんな声が出ているのか分からないくらいの大声で。
「まあ、そういうわけで、早速今夜から頼むぞ? もしこれを断ったら、今日で執事見習いを辞めてもらうからな」
「うっ…………」
アース様とのそんなやり取りを思い出した俺は、頭を抱えた。どうして俺がお嬢様の護衛をしなければならないんだ!
ここは代々騎士を輩出してきた家系だろう! 現役の騎士団長が、堂々と自室の椅子に座って、「さあ、どこからでもかかってこい!」と言わんばかりに待ち構えているじゃないか!
それだけでも人攫いにとっては十分な威嚇になるはずなのに。
しかし、今の俺はアース様に雇われている身だ。下手なことを言って、一ヶ月経つ前に首にでもされたら、確実にここを行く場所を失う。
ユリウス様のところへ行ければいいが、あの方々の屋敷がどこにあるのかを俺は知らない。
「…………………………………………………はぁ」
もう一度深々と溜め息をついてから、俺はお嬢様が食べ終えた皿を片付けた。
皿を片付けながら、先ほどアース様から受け取った護身用の短剣が、上着の内ポケットからわずかに覗いているのが見えた。
「護身用の短剣……か」
護身用の剣にしたって、俺はまだ子供だ。まともに振り回せるわけがない。だ
が、俺と年が近いであろうお嬢様の兄弟たちは、普通に軽々と剣を振り回している。それはもう血筋によるものだと言っていいだろうが、俺には絶対無理だ。
内心でそう思いながら、もう少し小ぶりの物はないだろうか、と探していた時、ふと机の上に置かれていた銀ナイフが目に飛び込んできた。
「そういえば、一応これも剣……って言うか、人を切れるんだよな?」
このナイフは、先ほどお嬢様が食事のマナーレッスンを受けている時に講師が使っていた物だ。俺は机の上にある銀ナイフを手に取る。
「うん、これだったら扱いやすいし軽いな」
俺は辺りを見渡してから、机の上に置かれていた銀ナイフを三本拝借した。
たった三本くらい拝借したところで、誰にも気づかれることはないだろう。それに、この任務が終わればちゃんと返すつもりだ。
俺は胸ポケットから白い布を取り出し、その中に銀ナイフを丁寧に畳んでから、上着の内ポケットにしまい込んだ。
それから数日――
アース様に言われた通り、俺は夜の間はずっとお嬢様の側にいた。さ
すがに無休で側に居続けることはできないので、アース様にお願いして、お嬢様の隣の部屋を借りることにした。
「あの命令から数日経ったけど、今のところ何の変わりもないよな……」
今はちょうど夜中の三時。
屋敷にいる使用人やアース様たちは、とっくに深い眠りについている時間帯だ。俺一人を除いて。
「だけど……困ったな」
俺は部屋の扉をうっすらと開け、お嬢様がぐっすり眠っていることを確認する。
小さく寝息を立てながら、スヤスヤと眠るお嬢様の手の中には、俺がいつも身につけている懐中時計が握られていた。
「結局、今日は返してもらえなかった……」
今から数時間前、いつも通りお嬢様の相手をしていたら、今日も懐中時計を見せてほしいと言われた俺は、お嬢様に懐中時計を預けた。
ここ数日、この懐中時計を持っているお嬢様はものすごく大人しかったのだ。全然泣かないし、落ち着いている。そのおかげで俺の仕事を終えるスピードが格段に上がった。
普段のお嬢様が大人しかった場合、これくらいの早さで仕事を終えることができるのか、と。そう思った俺は、お嬢様に懐中時計を貸すことをやめなかった。
いつもなら仕事を終えた時に、お嬢様の機嫌を損ねないようにしながら、懐中時計を返してもらっていた。しかし、今日に限って。
「いや! 返したくない!」
って言い出したのだ。もちろんその後はお嬢様の機嫌がすこぶる悪くなり、ヴィーナ様がいくら言い聞かせても、お嬢様は懐中時計を返してくれなかった。そして、俺の懐中時計は今、お嬢様の手の中にある。
「はぁ……明日仕事が終わったら返してもらおう」
そう思いながら部屋の扉を閉めようとしたその時、嫌な気配を感じ取った。
「っ! ……なんだ?」
俺は目を細めてあたりを視線を配り、音を立てないようにしながら部屋の中に入った。