7話 犬
私の犬になってくれないか、ということはつまり、奴隷になれということだろうか。いや、体を差し出せということかもしれない。
そこまで考えて、私は内心で首を横に振った。殿下ほど素敵な人が女に困っているわけがない。
殿下は私から離れて椅子に座り直すと、上機嫌に微笑みかけてきた。
「実は少し前から君に目をつけていた。それがまさかそんな能力まで持ち合わせているとは、女神様は俺に味方しているに違いない。そうか、アイツはそれも知っていて」
後半は独り言のようで、何を言っているかよくわからなかった。
「私は、具体的に何をすればいいのでしょうか。ご希望に沿えるものなど持ち合わせていないと思うのですが」
そう答えると、彼は何を言っているんだと小さく笑った。
「目に優しい容姿が気に入った。眼鏡は度があまりないものだろう?外せばもっと良くなりそうだ。外してみてくれ」
目に優しいって、つまり地味ということだろうか。
殿下は地味専だったのだろうか。
私は言われるがままに眼鏡を外した。
すると、殿下は苦虫を潰したような顔をした。
そんなに酷い顔だっただろうか。
これは流石に心に刺さった。
「ダメだな。しょうがない、眼鏡を新調しよう。レンズはもう少し小さい方が良さそうだ」
ダメだな、しょうがない、という言葉に心はさらにえぐられた。さすがに殿下の視界に入ってはいけないレベルだとは思っていなかった。
私は残った気力でどうにか眼鏡をかけ直した。
彼が何をしたいのかはわからないけれど、普通に幽閉されたほうがマシなのではと思い始めてしまった。
私の顔を見て殿下は慌て始めた。どうやら私はショックを隠しきれていなかったようで、余計な心配をかけてしまったらしい。
「あぁ、違う!そうじゃない。すまない、ちゃんと話そう」
そう言うと、殿下は背筋を伸ばして姿勢を改めた。
「言葉が足りない、と親しい者たちにいつも注意されるんだ。すまない。端的に言うと、犬とは通称のことで、君には諜報員になってほしいんだ。私専用のね」
「諜報員、ですか?」
私は目を見開いた。諜報員、いわゆるスパイと呼ばれるそれが実在しているなんて。
「そう。私は諜報機関を取り仕切る立場にある。諜報機関は単独で存在していて、王族が管轄している。私が税務局にいるのは表向きの話で、あそこではお飾りとして存在しているだけだ」
殿下は一息置き、丁寧に言葉を紡いだ。
「俺には成し遂げたいことがある。それを実現するために君の力が必要だ」
私はその真剣さに思わず頷いてしまった。
でも、そこに後悔はなかった。
私に残された道は、もはやそれしかない。
「私に拒否はできません。諜報員でしたら目立たない容姿は不可欠ですよね。殿下のお目を汚さぬよう、眼鏡も新調します」
「いや、さっきのは失礼した。あまりにも、その」
殿下は少しだけ私から目を逸らした。
目も合わせるのが苦痛な程の容姿なのか。
「どうかお気になさらず」
「あぁ。ということは、引き受けてくれるということか?」
「はい。家族を助けていただけるのであれば」
「それは約束しよう。君も君の家族も軍部に引き渡さないと誓う。ただし、兄達にバレてしまったらどうなるかわからない。あの人達はどうにも頭が固くて」
兄達とは第一王子ランディ殿下と第二王子エリック殿下のことである。ジャン殿下いわく、特にエリック殿下は軍部を取り仕切る立場にいるので注意が必要だと説明してくれた。
「早速なのだが、君に依頼したい件があるんだ」
「はい」
どんな依頼が来るのか。
潜入か、色仕掛けか、暗殺か。
昔読んだスパイ物の読み物が頭を過ぎった。
しかし、どれも自分がやるとなるとイメージが湧かない。
それでも生きるためには、家族のためにはやらなくてはならない。
私はぐっと机の下の両拳に力を入れた。
覚悟していると、殿下が言葉を紡いだ。
「ヘルムリート子爵の次男カイ卿から押収した魔術書について調べてほしい」
「グリモワール、ですか?あの噂の?」
それはこの前後輩たちが図書館内で噂していたもの。
少し拍子抜けしてしまったのは言うまでもない。
「あぁ。彼は魔族語が読めるようなんだが、本当のことを言っているかわからない節が多くて。そもそもあの押収したグリモワールが本物かどうかもわからない」
殿下によると、私のことを"本の虫"だと思っていたようで、魔族語も読めるのではないかと期待していたらしい。前者は正しいが、後者は正しくない。そのことを伝えると少しばかり残念そうにしていた。
申し訳ない。
「ちなみに、その本はどれくらい前に書かれたものかわかりますか?」
「カイ卿いわくおよそ400年前だそうだ。そうか、それならば、君の力が使えるかもしれないな」
殿下はまた少しだけ口元を緩めた。それがたまらなく嬉しく感じてしまう。
「そうですね。普通の本だと魔素が抜けきってしまって難しいのですが、もしも本当にグリモワールなのであれば意思の疎通は可能なはずです」
魔術書。それは魔族が創り出したもので、中には魔法の理論が書かれているという。基礎魔法の教科書のようなものから、複雑な理論を組み込んだものまで多数存在していたらしい。しかし、世界から魔素が消えてからは価値が落ちたり気味悪がられるようになり、燃やされたり捨てられたりしてその数を減らしたとされている。
ノルデンベルギシアなどではマニアの間で高値で取引されているらしいけれど、コメートラントではもちろん売買が禁止されている。
もしも本物のグリモワールであれば、中に書かれている魔法の影響で本に魔素が留まりやすいらしい。これは若き日のお祖父様の実験により判明している。
「よかった。では、早速3日後に現物を見せよう」
ここで私は恐る恐る口を開いた。
「すみません、ということは、司書専門学校のほうは退学することになるのでしょうか」
3日後は、本来であれば専門学校に戻り勉強に励んでいる頃。聞きたくはなかったけれど、聞くしかない。
「それは心配いらない。君と、もう一人の実習生グレイグ君、だったか。君たち二人は特に優秀だからという理由で試験や成果発表会をパスできるよう司書長から専門学校に報告させる。つまり、君は明日から夏季休業に入り、10月からは普通にここで働けるということさ」
殿下の突拍子もないもない言葉に、私は目を見開いた。
「そんな目立つことは」
「ここで死亡扱いになるよりはマシだと思うが」
殿下は至極真面目な顔でそんなことを言った。
それはつまり、リリー・シュベルトという存在が表舞台から消え、完全に影なる存在になるという意味。薄ら寒くなって、鳥肌が止まらない。
「は、はい。あ、申し訳ありません。口答えをする資格はないですね」
「それはいい。何でも言ってくれ。仕事に見合う報酬は約束するし、こちらの仕事がないときは司書見習いとして過ごしてもらって構わない。もちろん、こちらの仕事を優先はしてもらうが」
ここでさらに疑問が湧いた。
「図書館側はそんなに融通の聞く働き方ができるのでしょうか?」
「それは可能だ。なぜならば」
「司書長はこちら側の人間だからな」
「え」
間抜けな返事をしてしまった。
こちら側の人間。それはつまり、と考えてから思考は強制的に停止した。
「この国立図書館には王国の機密情報も保管されている。ここ数代の司書長はすべて諜報機関の人間なんだ」
あの、ちょっとばかり空気の読めない司書長が諜報員ということがショックすぎて言葉を失った。
顔に出ていたのか、「彼は優秀なんだよ、空気はあまり読めないが」と殿下が付け加えた。
「私、とんでもないことを知ってしまったんですね」
私の言葉に、殿下は少しだけ笑みをこぼした。
「実は、君の実習先をここにしたのも私の指示だ」
「はいっ?!」
木材で頭を叩かれたような衝撃だった。正直、意味がわからない。
「表向きは司書長が選んだことになっているが。今日私がここに来たのは、君に諜報員のオファーを出すためだったんだ。それが不測の事態に出くわしてしまったわけだが」
次はレンガで叩かれたようだった。
つまり、彼は私がこの国立図書館で実習するように仕向け、諜報員のオファーを出すためにわざわざ足を運んだと言う。
これは何かの物語なのだろうか。
「なぜ、そこまでして私のことを?」
「ある筋からの紹介があって、少し調べさせてもらったんだ。真面目であまり目立たず、そして優秀な司書志望の女性だと、ね。しかもモノから証言を引き出せるのならば心強い。まさに、君は理想の諜報員さ」
殿下は今日一番の笑みを見せた。
ある筋とはなんだろうか。
考えられるのはうちの一番上の兄、エルマーお兄様だ。
彼はジャン殿下が所属する税務局で働いているし、極度の妹大好き病なので、外部で私のことを褒めている可能性が高い。
なんと余計なことをしてくれたのだろうか。
でも。それと同時に少しばかり有り難さも感じた。
真面目と言ってもらえるのはやっぱり嬉しい。
そして、結果として殿下に喜んでもらえるならばいいか、そんなことを考えてしまった自分がいた。
こうして、私はジャン殿下の"犬"となった。