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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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畠山重忠は反乱を討伐したい

重能は義朝・義平の家人になったが、義朝は平治元年(一一六〇年)の平治の乱で敗死してしまう。平治の乱は坂東の勢力図にも影響を及ぼした。武蔵国は平治の乱後の永暦元年(一一六〇年)二月に戦功として平清盛が知行国主となり、平知盛たいらのとももりが武蔵守となった。義朝の敗北は畠山重能に打撃であった。重能が大蔵合戦で奪った武蔵国留守所惣検校職は河越重頼に奪還されてしまう。


重能は新たな主君として平知盛に仕える決断をした。義朝に仕えていた武士達が平家に鞍替えすることは容易に受け入れられた。「源氏累代の家人」という表現は後にプロパガンダ目的で作られたものであり、この時代の源氏との主従関係の結合は、それほど強いものではなかった。


平家への忠誠心を示すため、重能は勢力を拡大し、平家の威光を背景に活動を行った。重能は義朝に仕えていた武士たちを平家に鞍替えさせ、その結束を固めていった。重能の指導のもと、武士たちは新たな主君を受け入れ、平家の勢力を支えることとなった。これは平家にとって大きな勝利であり、重能の忠誠心と能力を証明するものとなった。


重能は自らの野心も抱いていた。彼は平家の家人としての立場を超えて、自らの名声と権力を築くことを目指した。重能は巧みな手腕で武士たちをまとめ、地位と富を積み重ねていった。重能は平家の忠実な家人として、その地位と影響力をますます高めていくこととなる。


治承四年(一一八〇年)に平知盛が武蔵国の知行国主になる。武蔵国の平家の支配は益々盤石になったように見えた。重能は武蔵国の武士達を率いて大番役で上洛し、知盛に知行国種就任のお祝いを述べた。


大番役は京の内裏や院御所を警備する職務である。地方武士が手弁当で行うものであり、大きな負担である一方、公家と結びつき、官位を授与され、京の文化に接する機会にもなった。畠山重忠は後の文治二年(一一八六年)に静御前が鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露した際に銅拍子どびょうしを打った。重能が平家の家人として京とのパイプを持っていたから、重忠は銅拍子を嗜むことができた。


盤石に見えた平家の支配であるが、実態はもろかった。治承四年(一一八〇年)五月に以仁王が平家打倒に挙兵した。これはすぐに鎮圧されたが、伊豆に流されていた義朝の三男の源頼朝が八月一七日に平家打倒の兵を挙げた。最初に頼朝は伊豆国目代の山木兼隆を襲撃して討った。平家は東国の武士に頼朝討伐を命じ、大庭景親が頼朝鎮圧の軍を進めた。


頼朝は相模国三浦半島を支配する三浦義明を頼みとしており、三浦義明に合流するために相模国に進出した。三浦氏は前九年の役の戦功で源頼義から相模国三浦に領地を与えられた源氏累代の家人の代表格であった。


三浦義明も頼朝を支援するため、三浦半島を出て相模湾を西に進んだ。三浦一族は丸子川まりこがわまで来たが、大雨で川が増水して渡れなかった。丸子川は後に酒匂川さかわがわと呼ばれる。その間に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に敗れ、敗走してしまう。土肥実平は頼朝らを真鶴岬から安房に逃した。頼朝の敗北を知った三浦一族は本拠地に撤退する。


頼朝追討の命令は武蔵国の武士にも送られた。武蔵国は平知盛の知行国であり、その目代から命令が伝達された。畠山荘にも命令が届いた時、重忠は平家に従って頼朝を討伐するか、頼朝に味方するか選択を迫られた。当主の重能が大番役で不在のため、重忠が決断しなければならなかった。家族と母方親族の安全と平家への忠誠、源氏への忠誠の間で、重忠は心を乱された。頼朝に味方すれば京にいる父親が平家に殺されかねない。平家の命に従うことが順当である。


源義朝・源義平親子には大蔵合戦の恩がある。しかし、それが無条件で頼朝への忠誠になるものではない。鎌倉武士は御恩と奉公の世界である。これはGive and Takeである。奴隷のような無制限の忠誠ではない。一方で頼朝に味方する三浦一族は重忠にとって母方の親族である。重忠は板挟みで苦悩し、決断を迫られる。重忠は平家に忠誠を誓った家人としての責務を果たさねばならない。一方で源氏への思いも消えず、苦悩はますます深まった。


重忠は最終的に、平家に忠誠を誓った家人としての責務を果たすことを決断した。頼朝追討の命令に応じることを決断した彼は母方親族への不安や思いを抱きながらも、忠義を貫くことを選択した。重忠の決断は、彼の心の葛藤と苦悩が反映されたものであり、それは彼の生涯において大きな岐路となるものであった。


頼朝は重忠を味方に引き入れようと藤九郎盛長を使者に送って交渉したが、失敗に終わった。

「私は藤九郎盛長と申します。佐殿すけどのより挨拶をお伝えしに参りました。佐殿は、畠山殿が私たちに味方してくださることを望んでおり、そのための交渉を行いたいとのことです」

盛長は謙虚に一礼して交渉を始めた。佐殿は右兵衛権佐であった頼朝のことである。

「盛長殿、お越しいただきありがとうございます。佐殿のご挨拶には心から感謝いたします。しかし、私は平家に忠誠を誓った身であり、簡単に主君を変えることはできません」

重忠は穏やかな表情で答えた。

「畠山殿のお考えは理解いたしますが、佐殿は畠山家の武勇と信義を高く評価しております。そのため、畠山殿が我々に加われば、さらなる栄誉と地位が約束されることをお伝えしたいと思います」

「盛長殿、そのような栄誉あるお話をいただき、心より感謝いたします。しかし、私は今、自らの義と信念に従う道を選びました」

「お心の決断は重いものであることを理解いたします。しかしながら、佐殿の誠意を感じていただきたいと存じます。もう一度、お考えをお聞かせいただけませんか」

「盛長殿、私の心はすでに決まっております。佐殿に対する敬意は変わりませんが、私は今、平家に仕えることに尽きます」

盛長は一礼して退出した。重忠は静かに座り続け、自らの決断に思いを馳せた。


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