後醍醐天皇は建武の新政を始めたい
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、建武の新政を始める。鎌倉幕府の政治は行き詰っており、新しい政治が求められていた。得宗専制によって得宗と身内人だけが肥え太り、一般御家人は窮乏した。
御家人や荘園領主の利害関係の調整機関として政治の実権を握っていたはずの北条氏が、いつの間にか、その権力を濫用し、自らの都合で法律を作り、それを根拠に、自分達の思い通りに世の中を動かそうとし始めた。その結果、多くの人間が不幸になっていった。
土地からの年貢を収入源とする農本主義の政策は商工業の発達について行けなかった。力も持った流通業者などは悪党と呼ばれ、体制から排除された。それ故に建武の新政に多くの人が期待したが、すぐに失望した。
林田隠岐守はその当初、建武の新政に対して肯定的な姿勢を見せていた。新政は公家中心の政治の復活と見られ、多くの武士には面白くなかった。これは林田隠岐守には許せた。林田隠岐守は林田肥後守泰範という受領の子孫が在地領主になったものであり、律令政治を否定するものではない。しかし、林田隠岐守はすぐに新政の本質を見抜き、中国のような皇帝専制を目指す建武の新政が武士たちにとっては容認できないものであることを理解するに至った。
林田隠岐守は、武士の中でも特に分権意識の強い者であり、中央集権的な皇帝専制が在地領主の価値観と合わないことを痛感していた。林田隠岐守は武士の誇りと忠義心を大切にし、自らの領地での統治を重視していた。新政が武士たちの立場を脅かし、武士の伝統が失われることを恐れた。
建武の新政が進む中、後醍醐天皇の言葉が林田隠岐守の心に響いた。
「今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」
この言葉は林田隠岐守に新しい可能性を示唆した。復古ではなく、新しい時代の中で武士の存在意義を見出すことが求められているのだと感じた。建武の新政の荒波に立ち向かいながらも、林田隠岐守は武士の誇りを胸に、歴史の舞台に名を刻んでいくのであった。
後醍醐天皇は天皇の権威を誇示するために大内裏の造営を発表した。林田隠岐守はこれに疑問を抱く。林田隠岐守は広範な視点で新政の行動を評価していた。大内裏造営に必要な膨大な経費は、領地を支配する武士や庶民達にとっては過酷な税負担を意味し、これによって不満が募っていた。
林田隠岐守は武士の誇りと密接に結びついた領地の経済的な安定を重視しており、無駄な公共事業がそれを脅かすと考えた。林田隠岐守は懸命に領地を守り、不当な課税に苦しむ民衆達の側に立つ。大内裏造営に反対する声を上げ、武士同士や領主としての役割に悩みながらも、公平な統治を貫く姿勢を示した。無駄な公共事業は建武の新政の失敗原因になった。無駄な向上事業が財政を破綻させ、民間活力を疲弊させることは現代日本の政治にも重なる。




