後鳥羽院は怨霊になりたくない
鎌倉幕府は朝廷を圧倒したが、滅ぼさなかった。朝廷側は後鳥羽上皇の下に一丸となって幕府追討を目指した訳ではなかった。逆に言えば鎌倉幕府が承久の乱に完全勝利したのに朝廷解体とならなかった理由は朝廷側にも幕府を支持する人々がいたためである。
承久の乱は後鳥羽院の謀叛であって朝廷の謀叛ではなかった。一部の奸臣が勝手にやったことという後鳥羽院の責任逃れは通用せず、後鳥羽院の責任は免れない。一方で朝廷全てに責任を負わせる「一億総懺悔」も通用しなかった。
幕府が朝廷を滅ぼさなかったことは、武家と公家の闘争と見ると不十分さはある。ゲルマン人の王がカトリック教会を滅ぼさず、逆に改宗して、その権威を利用したことに似ているだろうか。これも年代は異なるが、古代から中世への転換点であった。
承久の乱に勝利した鎌倉幕府は六波羅探題を設置した。六波羅探題は従前の京都守護と比べると鎌倉幕府直轄の組織である。六波羅探題には北条一門が就任した。六波羅探題は北方と南方に分かれていた。相互牽制の工夫である。
中世の日本では東西を中央集権的に支配することは不可能であった。後の室町幕府も関東に鎌倉府を置いた。しかし、このような機関は中央から自立し、独立王国化する危険がある。実際、鎌倉公方は室町将軍に対抗しがちであった。六波羅探題を北方と南方に分けることは一つの工夫である。
承久の乱は後の関ヶ原の合戦と重なる。最初に西軍が東軍を討伐する乱を起こした。畿内周辺では西軍がヘゲモニーを握った。承久の乱では在京御家人も後鳥羽上皇方になった。関ヶ原の合戦では西軍が大阪城を占拠し、豊臣秀頼を推戴し、公儀となった。しかし、関東から攻め上った東軍が西軍を打ち破った。戦争そのものは圧勝であった。東軍の果断な戦後処理は勝利者の支配体制を盤石にした。
後鳥羽院は都に帰還することなく、配流先の隠岐で没した。後鳥羽院は怨霊になると考えられた。三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊の祟りとする説が出た。しかし、後鳥羽院は崇徳院ほど強力な怨霊としては扱われなかった。
鎌倉武士達には後鳥羽院の怨霊の祟りを恐れる理由はある。しかし、怨霊信仰の最大の担い手は公家である。しかし、公家にとって後鳥羽院の無念は必ずしも共有できるものではなかった。後鳥羽院は自身への権力集中を目指しており、公家の多くも後鳥羽院に冷ややかであった。北畠親房『神皇正統記』など朝廷側の歴史観でも承久の乱を後鳥羽院の挙兵自体が失敗と見ており、評価が低い。
日本の怨霊信仰は虐めた側が自分達の保身のために虐めた相手を怨霊として勝手に祀るものである。公家達にとっては自分達も後鳥羽院の専制の被害者意識を持っており、怨霊として恐れる理由はない。この点が崇徳院とは異なる。
怨霊として祀る目的は最終的には神として味方にするという現世の人に都合の良い考えがある。とはいえ後鳥羽院は敗北時に奸臣に責任をなすりつける保身をしており、神としてあがめたいとも思わない。明治以後の皇国史観でも後鳥羽院よりも崇徳院が怨霊として利用された。




