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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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北条政子は演説したい

後鳥羽上皇の挙兵は東国の御家人達を動揺させた。義時の専横に不満を抱く東国御家人も少なくなく、宣旨に同調する御家人が出る可能性はあった。積極的に上皇方に加わらなくても、義時を守るために戦おうと意識にはならないものも多かった。いち早く旗幟を鮮明にしたのは三浦義村であった。そして尼将軍の北条政子の演説が御家人の動揺をひっくり返した。


三浦胤義は鎌倉にいる兄の三浦義村に上皇方に加わることを求める手紙を送った。三浦義村は五月一九日に胤義の書状を持って北条義時に会って言った。

「反逆には加担せず、北条義時の味方として並びない忠誠を尽くす」


政子は鎌倉幕府全体への攻撃であると演説し、東国御家人達の結束を高めた。

「鎌倉殿の恩顧は山よりも深く、海よりも高い。今日、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。京方について鎌倉を攻めるのか、鎌倉方について京方を攻めるのか、ありのままに申し出よ」

朝廷の権威を真っ向から否定して自分達の権利を守るために戦うと演説することは当時の政治常識からすると非常識である。それ故に政子には女傑のイメージがある。しかし、固定観念から脱却すると、自分達に何の恩恵も与えてくれず、実際は力もない朝廷を有り難がる意味がないということが常識的な発想になる。


承久の乱で後鳥羽上皇が命じたことは北条義時の追討であった。鎌倉幕府を滅ぼすとは言っていない。ところが、北条政子の演説で鎌倉幕府の存亡の問題にすり変えられ、御家人達は自分達の問題であると認識し、一致団結して京に攻め上る結果になった。この論理のすり替えは政子の政治手腕を示すものであるが、後鳥羽上皇には無念だっただろう。

後鳥羽上皇にとって源氏は朝臣であり、むしろ保護する対象になる。許せない存在は勝手なことをする北条氏らとなる。後鳥羽上皇の主観では鎌倉幕府を良くするという感覚があったかもしれない。

これまで北条氏は畠山重忠を冤罪で滅ぼすなど勝手なことをしてきた。北条氏が行ってきたことを考えれば承久の乱で「今こそ一致団結して立ち上がれ」と演説しても、「何言っているのか」となりそうなものである。北条氏以外の御家人達にとっても精神的支柱になっていた政子の個人のカリスマ性は恐ろしいものがある。


政子の演説で御家人達は一致団結したが、戦争の方針はまとまらなかった。京に攻め上るか箱根で迎撃するか意見が分かれた。政子は泰時が少数でもすぐに出陣することを主張した。

「泰時が自ら京に向かえば、武士は皆ついてくる」

この時に「朝廷の軍勢は手強い。尼御台は戦を分かっていない」と言うような御家人はいなかった。泰時は僅か一八騎で出発した。道中で軍勢が合流し、一九万騎に膨れ上がった。


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