後鳥羽上皇は承久の乱を起こしたい
実朝暗殺後に朝廷と幕府の関係は悪化した。北条時房が一千騎を率いて上洛するなど幕府は武力で威圧する姿勢を強めた。後鳥羽上皇も武力対決に傾斜していく。
後鳥羽上皇は源頼茂の謀反で炎上した内裏の再建するために全国に一国平均役を課した。後鳥羽上皇は源実朝暗殺以後のゴタゴタで内裏が炎上したとの認識であり、幕府が再建費用を負担することは当然という感覚があった。これを義時は拒否した。現代でも不要不急の公共事業で税金が使われることへの不満がある。
かつて内裏や寺社の建設費用の負担は朝廷への貢献を示す絶好の機会であった。これによって伊勢平氏は成り上がった。源頼朝や実朝も、この路線に立っていた。負担を拒否する義時は武士の時代を作った新時代の人物である。
後鳥羽上皇は承久三年(一二二一年)五月一五日に鎌倉幕府執権の北条義時の追討を命じた。承久の乱の勃発である。
「義時は天下の政治を乱している」
後鳥羽上皇は義時を非難し、畿内近国の武士を招集した。三浦胤義や佐々木広綱ら幕府御家人も招集に応じた。京都守護の伊賀光季だけは招集に応じず、攻め滅ぼされた。承久の乱における幕府側の唯一の大物戦死者である。
後鳥羽上皇は京都を制圧したが、関東への積極的な軍事行動は考えていなかった。後鳥羽上皇は命令を出せば東国の御家人が義時を討伐するものと考えていた。後鳥羽上皇は北面の武士に加えて西面の武士を設置し、独自の軍事力増強を目指したが、それだけで幕府を倒せるものではなかった。
後鳥羽上皇は三浦胤義や佐々木広綱ら在京の御家人をあてにしており、彼らを通して鎌倉にいる彼らの同族が義時討伐に動くものと考えた。胤義らは、そのように後鳥羽上皇に説明していた。林田泰範から見ると鎌倉と朝廷の争いというよりも御家人同士の争いに映り、後鳥羽上皇の動きから距離を置いた。
後鳥羽上皇の目的には二つの見解がある。
第一に鎌倉幕府を倒すことを目的としたとする。
第二に討伐対象は義時だけで、幕府を否定するものではなかったとする。近時の有力説である。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も第二説である。
第一説から第二説に対して、鎌倉幕府は義時の独裁ではなく、政子・義時の体制であり、義時だけを除いても上皇の目的は達成しないと批判される。
「政子・義時の姉弟は政治的立場を同じくしており両者は幕府権力の中心に位置していたが、政子が幕府の意思決定を行っており、義時が専断していたわけではなかったのである。こうした幕府政治のあり方を踏まえれば、後鳥羽院の義時追討命令は、政子が主導する幕府の政治体制そのものを否定することを目指したものであり、院の挙兵目的は倒幕であったと考えるべきであろう」(田辺旬「承久の乱」高橋典幸編『中世史講義【戦乱編】』ちくま新書、2020年、64頁以下)
義時一人を排除しても幕府が倒れる訳ではないという見解は正しいだろう。しかし、義時一人を排除すれば万事解決と考える見通しの甘さも後鳥羽上皇らしさがある。




