阿野時元は冤罪を晴らしたい
建保七年(一二一九年)二月に阿野時元が謀反を起こしたとして、北条義時に滅ぼされる。時元は源頼朝の弟の阿野全成の息子である。時元は将軍の座を望んで挙兵したとされる。しかし、頼朝の子孫が絶えた中では頼朝の弟の子の時元は最も鎌倉殿に近い立場である。自分が後継者になると考えることは不自然ではない。逆に血筋では将軍に迎えられても当然な立場であり、挙兵する動機が乏しい。
ここから、お飾りの将軍を京から迎えたい義時の陰謀による冤罪説がある。時元は挙兵をしておらず、謀反を起こしたという冤罪をなすりつけて一方的に攻撃され、滅ぼされたとする。この事件は「阿野時元の変」や「阿野時元の乱」のような名前も付けられていない。謀反の実態は存在しなかったのではないか。
不思議なことは北条義時にとって時元が将軍になることは、それほど悪い話に見えないことである。時元は義時の甥である。甥が将軍になれば義時の権力基盤は安泰である。それにも関わらず、時元を滅ぼしたことは、北条氏は源氏の血を根絶やしにしようとしていると言われかねない。
時元の姉妹は公家の藤原公佐と結婚し、その子孫が阿野氏を称する。この阿野氏から後醍醐天皇の寵姫の阿野廉子が生まれる。後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼした。時元の無念を晴らした形になる。畠山重忠は北条時政によって冤罪で滅ぼされるが、畠山氏は足利一門として続き、足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼすことと重なる。
朝廷側にも謀反人討伐の動きがあった。後鳥羽上皇は七月一三日に源頼茂を謀反人と糾弾し、在京御家人に襲撃を命じた。頼茂は大内守護であり、内裏に詰めていた。襲撃された時も内裏におり、内裏で防戦したが、自害に追い込まれた。
後鳥羽上皇が頼茂を謀反人とした動機は二説ある。
第一に頼茂が後鳥羽上皇の倒幕計画を幕府に密告しようとして後鳥羽上皇が先手を打って襲撃したとする。
第二に頼茂を実朝暗殺の黒幕とする立場である。後鳥羽上皇が実朝暗殺の真相や将軍就任の野心を見抜いて謀反人としたとする。
頼茂の応戦によって内裏が炎上してしまう。朝廷の文書や儀式に利用する道具類も焼失してしまう。これは朝廷のあるべき姿を目指していた後鳥羽上皇に痛手であった。
周りの公家達からすると、頼茂が本当に謀反を起こしていたかも分からない。後鳥羽上皇の命令で頼茂が襲撃され、その結果、内裏が炎上したという事実だけがある。権力者視点では綱紀粛正の効果があったと自己正当化するだろうが、内裏炎上は後鳥羽上皇の求心力を落としてしまった。武力討伐は内裏炎上の失態を取り繕う面もあった。このために後鳥羽上皇は慈円らの反対も無視して武力討伐に突き進むことになる。




