親王を後継将軍に迎えたい
源実朝には子どもがなく、将軍後継問題を抱えていた。北条政子は上洛し、後鳥羽上皇の乳母の藤原兼子と会談した。この際に親王を後継将軍に迎える話が出た。この親王下向をどちらが持ち掛けた話か議論分かれる。
第一に政子が提案し、兼子に好意的に受け入れられたとする。
第二に兼子が提案し、政子は内心「縁起でもない」と思ったとする見解がある(細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年、324頁)。
後に実朝が暗殺された際に鎌倉幕府は朝廷に親王下向を求めている。頼朝の甥の阿野時元のような源氏の血筋が存在していたが、幕府は親王将軍を求めた。ここからすると親王将軍は幕府の意向があったと考えることが自然である。もっとも会談当時は「縁起でもない」と思いながらも、実朝暗殺後は名案と考えるようになったという可能性はある。
次に政子が提案した場合は本人が発案者なのか誰かの意向を受けてのものかが問題になる。政子自身、義時、実朝が発案者の候補になる。
政子自身や義時を発案者とする説は伝統的な有力説である。実朝を蚊帳の外に置いて後継者を考えた。北条氏の権力を維持するために、源氏の血筋ではなく、親王を迎えて将軍を傀儡にしようとした。義時を実朝暗殺の黒幕として、親王将軍という後継に目途が立ったために暗殺を進めたとする説もある。
実朝を発案者とする説は、朝廷の権威を利用した実朝の政治構想の具現化とする。当時は院政が典型であるが、隠居した自由な立場が逆に権力を振るいやすくなる。天皇では藤原氏の摂政関白に政治を牛耳られてしまう。そこで上皇になって院政を行った。実朝も親王に将軍職を譲って大御所となることで、義時の執権の権力を超えようとした。
この場合は公暁が後継将軍になる可能性はなくなる。将軍への野心を持つ公暁が実朝暗殺を決意する動機になる。
また、後鳥羽上皇が実朝暗殺後に「日本国を二分する」と親王下向を否定したことも筋が通る。親朝廷の実朝の権威を増すために親王を下向させることは後鳥羽上皇の政治構想とも合致する。しかし、実朝が亡くなり、北条氏の傀儡の将軍になるならば有害である。
兼子を発案・提案者とする説は、兼子自身の勢力拡大が動機になる。自分が養育していた親王を将軍にしようとしていたとなる。これは後鳥羽上皇の意向とも必ずしも一致しない。後に後鳥羽上皇は武力追討に傾斜し、承久の乱を起こす。兼子は朝幕融和派と見られ、遠ざけられた。兼子と後鳥羽上皇のギャップは、この時点で生じていたことになる。
政子と兼子の会談は東西どちらも女性が代表者になった。慈円は『愚管抄』で女性同士が交渉して政治を動かす「女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ」と評価した。大仏の目を書き入れることは一番大切な最後の仕上げである。それを日本国では女性が行っていると好意的に評価する。
『愚管抄』では神功皇后が政治をとっていたことを踏まえて、「男女ニヨラズ天性ノ器量ヲサキトスベキ道理」(男女の性別よりも天性の才能を先とすべき)とも主張している。二一世紀人から見ると慈円は進歩的な人物に見える。
とはいえ二一世紀的な意味での男女同権思想家と言えるかは別問題である。慈円は藤原摂関家の出身である。摂関家は天皇の生母を出すことが権力基盤であった。故に女性を重視しており、女人入眼を正しい政治のあり方と評価する。
これに対して院政は天皇の父親であることが権力基盤になる。家父長制的な体制である。慈円は後鳥羽院の側近であったが、実は院政に批判的であった。逆に鎌倉の将軍家が天皇に仕える体制は、天皇と摂関家による統治体制を補完するものとして評価していた。このギャップは承久の乱における後鳥羽院とのギャップになる。
『愚管抄』自体が鎌倉との戦争に傾斜する後鳥羽院を諫めるために書かれたものであった。「彼(引用者注:慈円)にとって、乱世である武者の世の到来は、歴史の堕落であるにしても、大きな道理として承認せざるを得なかった。したがって幕府をほろぼそうなどとくわだてるのは、道理にそむくことになる」(上横手雅敬『源平の盛衰』講談社学術文庫、1997年、319頁)




