御園泰範は林田と名乗りたい
岸本遠綱の子が御園範広である。近江国神崎郡御園を拠点とした。この御園範広の次男が林田泰範である。これが林田氏の初代である。泰範は幼い頃から父から武術を学び、家督を継いだ兄の指導も受けました。泰範は播磨国揖保郡林田郷に進出して本拠とした。ここから林田氏を名乗る。
林田泰範は林田郷を開拓し、領民の生活を安定させるために懸命に働いた。優れた統治能力を持ち、公正な判断と明晰な政策で林田郷の繁栄を築き上げた。自らの武術の腕を磨き、地元の武将達からも一目置かれる存在となった。
軍事面でも優れた手腕を発揮し、強力な軍勢を編成し、領地を拡大するための戦略的な行動を起こした。泰範は武士の美徳や倫理観に深く根ざした人物であった。戦いにおいても敵に対しても、常に優雅さや慈悲深さを持って接していた。
泰範の優れた指導力と勇気は、近隣の豪族や他の領主たちからも認められた。泰範は林田氏の名声を高めると同時に、領地の安定を図るために外交にも努めた。泰範は周囲の勢力との同盟を築き、地域の豪族達と交流し、領地を守りながら経済的な繁栄をもたらした。文化や教育の振興にも尽力し、地域の文化的な発展に貢献した。
泰範の活躍は彼の死後も林田氏の一族郎党の心に残り続けた。一族郎党は泰範が残した書簡や遺品をもとに、泰範の思想や人格を後世に伝えることを決意し、彼の道を歩み続けることを誓った。
鎌倉では源頼家の遺児の公暁が建保五年(一二一七年)に園城寺から到着した。政子が公暁を鶴岡八幡宮の別当に補任するために呼び寄せた。鶴岡八幡宮別当にして鎌倉宗教界のトップにしようという政子の気持ちがあった。孫に鎌倉殿の地位どころか源氏一門の地位さえも与えられないことの罪滅ぼしである。
しかし、そのような説明がなされていないければ公暁に理解できないことである。
「北条は自分を殺すために鎌倉に呼び戻したのではないか」
このような不安を抱えていただろう。それが公暁を暗殺に駆り立てた一因になる。
朝廷と鎌倉幕府の関係は安定していた。源実朝は右大臣に任命された。父親の頼朝を官位で越えた。ところが、実朝は建保七年(一二一九年)一月二七日、鶴岡八幡宮で暗殺されていまう。実朝は鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の儀から退出し、大石段の脇にそびえる大銀杏の下で待ち構えていた公暁に斬りつけられた。
「親の仇を討つぞ」
公暁は叫んだ。公暁は源頼家の息子である。公暁は実朝を親の敵と思っていたことになる。親の敵と言うならば北条氏がより適切である。実朝と義時の間にも緊張関係があったが、公暁から見ると実朝は北条氏と一体化していると見えたのだろうか。
公暁は実朝を暗殺して自分が鎌倉殿になると考えていた。ここは不思議である。暗殺という汚れ仕事をした人物が表舞台に立つことを周囲が支持してくれると思うだろうか。日本史では大化の改新の中大兄皇子の例がある。しかし、中大兄皇子も権力を握ったものの、暗殺の当事者ということもあり、しばらく大王になれなかった。
公暁の思惑としては幾つか考えられる。第一に骨肉相食む河内源氏の伝統である。源義平は大蔵合戦で叔父の源義賢を攻め滅ぼした。源義朝は保元の乱に勝利して父の源為義を斬首して源氏嫡流の地位を得た。敵対する肉親を自ら滅ぼして棟梁になるということが受け入れられる土壌がある。
第二に先行する反乱を踏まえた対策である。泉親衡の乱や和田合戦は鎮圧された。正面から実朝や北条義時を打倒する兵を挙げても鎮圧される可能性が高い。暗殺が合理的な戦術と考えた。「折りを見すまして、まず一刀のもとに実朝と義時を屠る。挙兵はそれからだ」(杉本苑子『竹ノ御所鞠子』中央公論社、1992年、119頁)
第三に何もしないでいると北条氏に殺されるという危機感があった。その後のことを考えての行動ではなかった。源頼朝の挙兵も動かなくても平家に追討されるとの危機感から出発した。
第四に実朝が親王将軍を迎える計画があったとの立場から、自分が将軍になる可能性が絶たれるために実朝暗殺によって計画を阻止しようとしたとする。「親王という最高の貴種が将軍に立つということは、自身の将軍就任への道が完全に途絶えることを意味する」(坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社、2014年、241頁)




