大船建造はだまし売りか
陳和卿が建造した大船は浮かばなかった。実朝が望んだように海を渡ることはできなかった。大船建造と渡宋計画が失敗した理由は様々な見解がある。
第一に陳和卿が詐欺師であったとする。太宰治『右大臣実朝』の陳和卿は詐欺師に描かれる。
第二に陳和卿は仏像技術者としては一流でも造船技術はなかったとする。渡海に必要な機能や安定性を考慮した設計には至っていなかった。陳和卿が採用した工法は、大船の強度や安定性を確保するために不十分だった。
第三に陳和卿は造船技術を持っていたが、義時や政子の圧力で故意に浮かばない船を造ったとする。または義時や政子の妨害工作で欠陥を抱えた船になってしまったとする。
第四に本気で宋に行く気がない実朝が故意に浮かばないように船を造らせた。
実朝は浮かばなかった大船を放置した。今やただの廃棄物と化していた。巨大な船体は、砂浜に乗り上げたまま、黒い沈黙に包まれていた。大船は全く動かず、静かに波打つ海との対比がとても厳然としていた。太陽は熱く、時折強い風が吹き荒れるなか、大船の木材はさらに乾燥して、くぼんだり割れたりした。
時間が経つにつれて、大船の姿は徐々に崩れ始めた。船首は曲がり、船尾は歪んだ。木材は腐食や海水の浸透で膨れ上がっていった。大船は砂浜で孤独に朽ち果てていった。何もなかった場所にあった巨大な船は自然の力によって、消え去ってしまった。
これは実朝の失敗の象徴になった。大船建造が国外脱出ではなく、政治的主導権を握るための施策であったとする説に立つならば、船が浮かばなかったことは、実朝が厭世的になったきっかけになる。厭世的になったから大船建造を始めたのではなく、大船建造に失敗したから厭世的になったとなる。
実朝は船が浮かばなかったことに淡白で、それほどがっかりしたようには見えなかった。実朝が故意に浮かばない船を造らせた説に立つならば、実朝は最初から浮かばないことを分かっていたためとなる。
この説では義時は実朝を宋に行かせたくないために妨害工作したのではなく、反対に義時は邪魔な実朝が宋に行くなり、難破して海の藻屑になることを期待していた。船が浮かばなかったことで実朝は義時に「肩すかしを食わせる快味にほくそ笑んでいたかもしれぬ」(杉本苑子『竹ノ御所鞠子』中央公論社、1992年、153頁)。
船の問題以上に船を建造した由比ガ浜が遠浅の砂浜で船を発進させることには不向きであることが問題であった。平清盛は大輪田泊を日宋貿易の拠点としたが、人工島の経が島を建造している。
後に北条泰時は貞永元年(一二三二年)に人口島の和賀江島の建造を支援し、ここが鎌倉の貿易港になった。船を造れば交易できるという単純な問題ではない。江戸時代の幕末には軍艦を持とうという勝海舟と造船所から造ろうという小栗上野介の間で議論になった。
人々は陳和卿が詐欺師で、実朝に大船建造をだまし売りしたと噂した。
「あの陳和卿、大船を建造して渡宋するとか言ってたけど、結局は詐欺師だったんじゃないか?」
「そんなこと言っても仕方がない。陳和卿は確かに大船を建造したんだから、それだけでもすごいことだろう」
反論する人もいたが、実朝をだましたとの噂は広まり、人々の間で大いに話題となった。陳和卿は信頼を失った。
「大仏殿再建もウソだったんじゃないか」
彼がかつて立てた偉業の裏に何があったのか、人々は真相を知りたがっていた。
ある日、実朝が陳和卿を呼び出して詰問したという話が流れた。
「陳和卿よ、君が詐欺師であり、大船建造をだまし売りしたという噂を聞いた。本当か?」
陳和卿は深いため息をついた。
「噂には真実も嘘も混ざっています。私が詐欺師だというのならば、私の過ちを償う覚悟があります。私が建造した大船が浮かばず、失敗に終わったことは事実です。しかし、それは単なる技術の不足ではありません。私の背負うべき罪があるのです」
実朝は驚きを隠せなかった。
「どのような罪だ?話してみろ」
この話を聞いた人々は、ますます陳和卿を疑い始めた。
「大船建造だまし売りが確定したようだ」
ある人が言うと、周りの人々が騒然となった。その後、陳和卿は鎌倉から去った。彼の行く末は知られていないが、人々の間では大船建造だまし売りが語り継がれ、陳和卿は悪名高い人物として知られるようになった。




