源実朝は大船を建造したい
実朝は建保四年(一二一六年)に陳和卿に面会する。陳和卿は南宋の工人で、平重衡が焼き討ちした東大寺大仏殿の復興に従事した。彼の技術と才能は称賛され、人々は彼を英雄のように称えた。
上洛した頼朝は大仏殿再建を果たした陳和卿への面会を希望したが、あっさりと断られた。
「多くの人々を殺し、弟も死に追いやった。血塗られた人間と会いたくはない」
文官優位の宋から来た陳和卿にとっては武官でもない武士という存在自体が理解できなかった。もっとも、その宋は水滸伝の時代でもある。朝廷の役人が腐敗し、民間で義侠心を持った英雄が活躍した。とはいえ、義侠心を持った英雄も普段は山賊であり、民間の旅人を苦しめる存在であった。生活者にとっては否定したい存在になるだろう。
陳和卿の返事を聞いた頼朝は言葉に詰まった。頼朝は陳和卿が拒否する理由を理解できた。自分の手で多くの人々を殺した過去は重たかった。そこには上総広常のように冤罪で殺害した者も含まれていた。
実朝は面会した陳和卿に大仏殿の再建作業について尋ねた。陳和卿は熱心に語り、細かい点まで説明した。実朝はその姿勢に感心し、彼を賞賛した。実朝と陳和卿は意気投合し、宋へ行くための大船を造らせた。
「あなたのような人が、この国を良くしてくれると信じています。もしよろしければ、私達は協力して、大きな船を作っていきましょう」
実朝の動機は諸説がある。第一に自身が宋に行くことを考えていた。信頼していた和田義盛が滅ぼされ、厭世的になって国外脱出を望んだとする。
仏教の信仰心の影響とする見解もある。「渡宋した三井寺の慶政上人が著した仏教説話集『閑居友』の巻頭の話が、平城天皇の第三皇子の真如親王が唐に渡ったものであり、こうした大陸への渡航熱の影響を受け、実朝は仏教信仰の深まりもあって大陸への渡航を夢見たのであろう」(五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』角川選書、2015年、222頁)
第二に将軍の力を示す政治的パフォーマンスだったとする。実朝が義時に対抗して政治的主導権を握ろうとしていたとすれば、国外脱出は矛盾する。
「巨船を建造しての渡宋というとてつもない計画をぶち上げることで、たとえ執権に睨まれても将軍に従う、という御家人を選別しようとしたとも考えられる」(坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年、91頁)
「多数の人間の組織的な動員と莫大な費用が求められる巨船の建造は、実朝を支持するか否かをみきわめる試金石だったといえるかもしれない」(坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社、2014年、226頁)
第三に平清盛のように貿易を考えていたとする。実朝自身の渡宋希望は『吾妻鏡』の曲筆とする。宋の青磁や白磁は日本でもてはやされる人気の輸入品であった。鎌倉時代は国風文化が花開いた平安時代よりも中国の影響が強かった。貿易に着目することは時代の流れをつかんでいる。
第四に実朝は本気で宋に行くつもりはなく、北条政子や北条義時を困らせようとしたとする。「母御台所や執権義時、大江広元ら、哺育の臣僚たちを困らせてやりたい」(杉本苑子『竹ノ御所鞠子』中央公論社、1992年、115頁)。




