明治政府の宗教弾圧
明治政府はキリスト教を弾圧し、切支丹を流刑した。しかし、その信仰心まで奪うことはできなかった。流罪になった切支丹の扱いは劣悪であった。明治政府は切支丹が邪宗であるとの印象を植えつけるために、あらゆる手段を用いた。人々は弾圧がいつまで続くかわからないという不安感と、自分達の信仰が国家権力によって、潰されてしまったら、もう、二度と、神の御言葉を聞くことができないという絶望的な気持ちとで、二重三重に苦しめられた。
しかし、海外の新聞による報道や諸外国の抗議によって少しずつ改善していった。一定の集会の自由が認められるようになると信者達は苦しい生活の中で毎日のようにミサを行った。人々は集まって熱心に祈った。
「ああ、神よ。何故このような苦しみを与えるのです」
「神様が苦しんでおられるなら、人間も苦しいはずです。でも、人間は耐えなければなりません。なぜならば、人間は神様の子供だからです」
切支丹と周辺の人々の交流も行われるようになった。
「神の恵みによって皆様の生活が豊かになりますようにお祈りいたします」
切支丹を各藩に流罪にしたことにより、浦上村で隠れていた切支丹の存在が逆に人々の耳目に触れることになった。切支丹は邪宗門と呼ばれ、人々は極悪非道の鬼という先入観を抱いていた。ところが、流罪になった切支丹達に接することで純朴な農民であることが明らかになった。
「私はあなた方のことをよく知らない。だから、私の言うことが正しいのか間違っているのか分からない。だが、一つだけ分かることがある。それは、あなた方が信ずるものを大事にしているということである」
ある藩士の言葉である。切支丹の流罪は宗教弾圧を目論む明治政府にマイナス効果を生じさせた。
浦上村の切支丹達は一八七三年(明治六年)三月に釈放された。諸外国からの非難と抗議がなければ、流刑は続いただろう。切支丹を預った諸藩も財政上の負担が大きいと政府に苦情を出した。
信者達は浦上の地に戻ることを熱望したが、すぐには許されなかった。信者達と住民の交流の中から住民の信者が出るようになった。
「私達が信ずるものを信じてくれる人がいるということほど嬉しいことはない」
住民が新たに信者になっていくことは明治政府を慌てさせた。信者達は六月頃に浦上村に帰れるようになった。浦上村に戻ってきた人々を待っていたものは家や財産のない貧しい生活であった。信者達は生活の場を失った。生活再建できずに各地に散った信者達も出た。
切支丹には親を亡くした孤児も多かった。岡山に配流されていた岩永マキは浦上に戻って孤児達の救済を始めた。これは日本人として初めての社会福祉事業になった。
「私はこの子達に愛情を持って接したいと思います。ただ、この子達が幸せになって欲しいと思うだけです」
マキの行動は多くの人に感動を与えた。




