畠山重忠は衣笠城を攻略したい
重忠は兵を休ませた後、三浦半島に攻め込み、三浦一族の本拠の衣笠城を攻略する。衣笠城は三浦半島中央部に位置し、三浦氏の祖の三浦平大夫為通が康平五年(一〇六二年)に衣笠山山麓に作った居館を始まりとする。
重忠は衣笠城攻略に際して武蔵国留守所惣検校職の河越重頼らに援軍を要請した。畠山氏と河越氏は大蔵合戦の対立があるが、武蔵国として反乱討伐を行うものであり、大蔵合戦の対立を持ち込むものではない。むしろこれまで畠山氏のみ出陣し、模様眺めしていた方が問題である。
重忠の要請に河越重頼や江戸重長が出陣し、武蔵国の武士団数千騎が集結した。江戸氏も秩父平氏の一族であり、豊島郡江戸郷を領有したため、江戸氏を名乗る。重頼や重長の出陣は石橋山の合戦の頼朝の敗北を聞いて勝ち馬に乗る面があった。
畠山氏以外の武士団も含め、衣笠城攻略の総指揮は重忠が執った。その理由の第一は畠山氏が秩父平氏の族長であることである。
第二に河越氏らは遅れて参陣しており、先に由比ヶ浜の戦いで戦っている畠山勢に発言権があった。
重忠の衣笠城攻略は二つの動機が指摘される。
第一に反乱者の一味である三浦一族の討伐を平家から命じられた。
第二に由比ヶ浜の戦いの敗戦の雪辱を晴らそうとした。「重忠は平家の重恩に報いるために合戦したというが、平家方の指揮官たる大庭景親の姿はないし、衣笠城攻撃は由井浦での敗戦の恥をすすぐためという説明があり、あきらかな私怨、仕返しである」(菱沼一憲『源頼朝 鎌倉幕府草創への道』戒光祥出版、2017年、39頁)
第二説は由比ヶ浜の戦いを重忠の敗北とすることを前提としている。しかし、武蔵国の武士団の担当と扱われたために相模国の大庭景親は登場しない。また、由比ヶ浜の戦いが重忠の敗北ならば重忠は衣笠城攻略を主導できなかっただろう。重忠が畠山氏以外の武士団も含めて衣笠城攻略を指揮したことは由比ヶ浜の戦いが畠山勢の一方的敗北とは評価されなかったことを意味する。
重忠は二六日に武蔵国の武士団を率いて三浦半島に攻め込んだ。三浦一族は衣笠城に立て籠もった。重忠の軍勢は荒々しい海の風に吹かれながら、衣笠城を目指して進軍していく。城の姿が遠くに見える。夕刻に衣笠城に到着し、包囲した。
「無駄な血を流す必要はない」
重忠は家臣の真鳥日向守を降伏勧告の使者として衣笠城に送った。衣笠城の城門で三浦義村が真鳥日向守を迎えて、三浦義明のところに案内した。義村は総領の義明の孫である。真鳥は義明の前に堂々と立ち、重忠の要望を伝えた。
「主重忠は戦いを避け、血を流さずに和平を求めておられる。それが我らの将来の繁栄につながると信じておられるのです。降伏すれば、一族と民が救われ、未来に希望を持つことができるでしょう」
「無駄な流血を避けることは大切だ。しかし、我が一族の誇りと歴史も守らねばならぬ。我々は源氏の血を引く者として、一度も後退せず、今日まで戦ってきた」
義明の目には戦いへの情熱が宿っていたが、同時に知恵と慎重さも垣間見えた。
重忠の勧告を受け入れるかどうか、三浦一族で激しい議論が起きた。
「重忠を頼るべきだ。この戦いに勝ち目はない。降伏し、命を守るべきだ」
三浦義村は降伏を主張した。
「抗戦だ!我々は降伏などせず、城を守り抜くぞ」
和田義盛は抗戦を主張した。
「我は源氏累代の家人として、老齢にして源氏の貴種再興に巡り合うことができた。今は老いた命を佐殿に捧げて子孫の手柄としたい」
三浦義明は静かに話し始めた。自身は最後まで戦うとしたが、一族の多くの者には安房への脱出を命じた。三浦半島と安房国は江戸湾を挟んだ向かい側である。三浦一族にとって馴染みの場所であった。
三浦義明は抗戦を重忠に伝えた。そこで重忠は明朝に城攻めを行うことを通告した。この時代は戦の時刻や場所を予め通告することが作法であった。それを破壊した存在が源平の合戦時の源義経であり、だまし討ちで平家の怒りを買った。
翌二七日早朝に城攻めが始まった。諸将は重忠の命令に従い、城攻めの準備を始める。衣笠城に向けて矢が放たれ、石が投げられる。三浦一族は奮戦したが、重忠の攻撃は激しかった。重忠の猛攻に耐えられず、当主の三浦義明は自害した。
義村ら残りの三浦一族は船で海上へ逃れ、安房国に向かった。重忠が予め翌朝の攻撃と伝えたかた夜のうちに逃げる準備ができていた。ここには義明の気持ちを理解した重忠の武士の度量がある。
重忠は三浦半島を制圧することに成功した。重忠は三浦半島の治安を安定させ、地域の復興と発展に努める。重忠の勇敢さと寛容さは、時の人々によって讃えられ、彼の名前は坂東の武士たちの間でさらに広く称賛されることとなった。




