第一話 店主の休日 春菜の休日
中部地方にある大都市の、中心部から地下鉄で二十分。駅前から数分の所にある昔ながらの商店街。その一角にひっそりと佇む小さな喫茶店がありました。初老の店主、女子大生のアルバイト、常連客や商店街の住人達が絡み合う、日常の物語がそこにありました。
時は少し遡った三月のある日。
AM 6:00
月島龍馬の朝は早い。休日の朝だから少し遅めでも良いのだが、長年の習慣とは恐ろしく、目覚まし時計をかけなくても自然と目を覚ましてしまうのだ。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ淡い。窓を開けると、冷たい空気が部屋に流れ込む。春が近づいているが、それでも、早朝の空気はまだまだ冬の匂いがした。
顔を洗って、歯磨きをする。コップに一杯の水を入れ、勢いよく飲み干す。お湯を沸かしコーヒーを淹れる。厚切りのトーストにバターをたっぷり。ゆで卵に塩を振りテーブルに用意する。喫茶店で出す定番のモーニングが、龍馬の朝食だ。
今日は店を開けない。そう、休日の朝のルーティン。予定はあるにはあるが、時間が決まってる訳じゃない。今日は自分のペースで休日を過ごそう。そう思う龍馬だった。
身支度を整える。鞄に小さめのスケッチブックと鉛筆、それといくつかの必要な物を入れる。一階に降り、店の出入口から外に出て、店先を掃除してから戸締りをして、定休日の札をかけてから歩道を歩き始めた。
休日の早朝は、実に清々しい。歩く足取りもつい軽やかになっていく。駅とは逆方向の堤防の方へ向けて進んで行く。
AM 7:00
商店街は、少しずつ朝の気配が満ち始めていた。シャッターを開ける音。店先を掃くホウキの音。店の奥から漂ってくる、出汁や揚げ物の匂い。納品業者や市場から戻った軽トラが、店先に横付けされてる。近くの高校の朝練に向かう自転車が通り過ぎていく。犬の散歩をしてるおじいちゃん。龍馬は急ぐでもなく、商店街の歩道を歩いていた。
「マスターおはよう!」
魚屋の主人が、店先から声をかけてきた。
「おはようございます。早いですね」
「そりゃ、こっちは朝が勝負だからね。マスターは今日は店、休み?」
「ええ。そんなとこです」
「いいねえ。ゆっくり休んでくれえ」
龍馬は軽く手を上げて、また歩き出す。
惣菜屋の前で、店先の歩道をホウキで掃いていた女性がこちらを向く。
「あら、龍馬さん。今日はお出かけ?」
「ちょっと散歩です」
「今日は天気も良さそうだから丁度良いね。気をつけてよ」
「ありがとうございます」
パン屋さんはもう営業を始めてる。龍馬の店でも、ここの食パンを仕入れている。早い出勤のサラリーマンや、朝練に行く高校生達が朝ごはん代わりのパンを買っているのだろうか。忙しそうだ。
八百屋の親父は、市場から仕入れた野菜が入った段ボール箱を、軽トラから店先の歩道に降ろしてる。それを奥さんと息子がせっせと、陳列させている。
「おやっさん、奥さんおはようございます」
「おう、月島さん。おはよう」
まだ冷えるこの時間でも、八百屋の主人は汗だくで挨拶してくれた。
営業時間が遅い店舗はまだシャッターが降りたままだが、店の者が店先の歩道を掃除する光景が目に入る。
この商店街のお店は、一階が店舗、二階が住居になっている場合が多く、龍馬の店もそんな造りだ。
「おはようございます」
「おはようさん」
「おはようございます」
「おはよう、マスター」
交わす言葉は、どれも短い。
けれど、こうした挨拶を交わす相手がいることも、この街で暮らす楽しみのひとつだった。通り抜けるまで何度も立ち止まる為、割と時間がかかる。しかし、急いでいるわけではないのでマイペースでまた歩き出す。
商店街を抜けると、川沿いの堤防が見えてくる。龍馬は緩やかな歩調で、堤防に上がる階段に足をかけた。
AM 7:50
堤防に上がると、川面を渡る風が頬を撫でた。東の空は既に明るく、薄い雲がゆっくりと流れている。土手の草はまだ冬の色を残していたが、その根元には、わずかに新しい緑が混じっていた。ここから観る風景が好きだ。龍馬はいつもここに来るとそう思う。
季節は、目立たないところから変わっていく。龍馬は足を止め、川の流れを眺めた。水の音。風に揺れる草。遠くを走る車の音。いつもなら店の中で聞いている街の音も、外で聞くと少し違って感じられる。
しばらく堤防を歩くと、河川敷へと下りる階段がある。河川敷のある場所で目線が止まる。そして龍馬はそちらへ歩き出す。階段を下り、河川敷にあるそれへと向かった。
龍馬の視線の先は河川敷に点在して設置してあるいくつかのベンチのひとつだった。そのベンチに腰掛けて、背もたれに背中を預け大きく伸びをした。しばらく風景を眺めながらのんびりした時間を過ごした。風はあるものの、日差しは穏やかだった。贅沢な時間だ。
AM 8:30
東雲春菜は、家を出る支度を整えていた。卒業式が終わってから、まだ二日しか経っていない。
朝の決まった時間になれば、地下鉄に乗って高校へ行く。そんな毎日が、三年間続いてた。けれど、もう制服を着て登校する事はない。時間に追われずに過ごせるのは、少し不思議な気分だった。それでも、朝のいつもの時間に目が覚めると、体はいつもの習慣を覚えている。
そうだ、今日は、マスターに卒業の報告をしよう、春菜はそう思った。卒業式の日にも店の前を通ったけれど、あの日はそのまま帰った。改めて報告しておきたいと思ったのだ。春菜は鞄を手に取り、玄関を出た。
「行ってきまーす」
家を出ると、自宅から数分で着くいつもの地下鉄駅への入口へと向かう。
改札は階段かエレベーターで降りた先にある。地上は、地下鉄に沿って道路が延びており、この都市の中心部と郊外を結ぶ幹線道路として、結構重要な役割をしている。幹線道路沿いはビルやマンションが立ち並び、都会の様相を呈している。
高校へ通っていた頃と同じルート。地下鉄でひと駅。そこは地上に改札がある駅。駅から出て少し歩くと昔ながらの商店街、それを通り抜けると堤防に出る。堤防を歩いてしばらく行くと堤防沿いに高校が建っている。
ただ、今日は制服を着ていない。これから学校へ向かうわけでもない。途中にある商店街の中にある喫茶店が目指す場所。それだけの違いなのに、見慣れた道程が少しだけ違って感じられた。
AM 8:50
電車を降りた春菜は、階段を上り、改札口を抜けた。春菜は自然と、いつもの通学路を歩き始めた。商店街の店はもう殆ど開いているかこれからシャッターを開ける様子だった。もう既に買い物してる人や、散歩してる親子。ベビーカーを押しながらどこかへ向かう若いお母さん。お肉屋さんでは、特製コロッケや、串カツの揚げたてを並べてる。
いつもの風景だが、少し時間がずれているだけで微妙に風景が違う感じがする。車の通行量の違いや、駅に向かうサラリーマン、OLの姿が少ないとか。
学校へ向かう朝は、時計を気にしながら足早に通り過ぎていた場所。今日は時間を気にする必要がない。少しだけ歩く速さを緩めて周りを観ると今まであまり気にしてなかった事がよく見える。いつもの商店街。いつもの道。
けれど、もう制服姿で高校へ向かう自分はいない。そんなことを考えながら歩いていると、目的の店が目に入った。
看板には、いつものように「 」とだけ書かれている。
AM 9:00
喫茶店「 」の前まで来た春菜は、足を止めた。扉には、今日が休みだと知らせる札が掛かっている。
『本日定休日』
「あっ……」
小さく声が漏れた。そういえば、マスターにも休みがあったのだ。一人で切り盛りしてるから仕方ない。
少し残念ではあったけれど、せっかくここまで来たのだから、このまま帰るのももったいない。春菜は店の前を離れ、いつもの堤防の方へ歩いていった。いつもなら、この先は高校へ向かう道だ。今日は、その道を少しだけ違う気持ちで歩いてみよう。
AM 9:00
龍馬は、先程からなにやら描いていた。龍馬の鞄には、気が向いたらいつでもスケッチ出来るように、小さめのスケッチブックとデッサン用の鉛筆を入れているのだ。
目の前に広がる川と、対岸の建物。水面に揺れる光。水鳥だろうか。何羽か水面に浮かんでいる。鉛筆を動かしているうちに、自然と線が増えていく。
うまく描こうという気負いもない。ただ、目に入ったものを思うがままに紙面に書き写していく。
店にいるときは、目の前の客と話し、コーヒーを淹れ、片付けをする。そんな時間が当たり前になっていた。こうして何も考えず、ただ川を眺め、無心で絵を描く時間はあっという間に過ぎていく。
龍馬は鉛筆を動かしながら、チラッと時計を見た。そろそろ行くか。龍馬は慌てる素振りもなく、ゆっくりとスケッチを仕上げ、片付け始めた。
AM 9:10
春菜が堤防に上がると、大きな河川敷が目の前に広がった。
堤防では、ジョギングする若い女性、犬の散歩をするおじいさん。部活に向かうのだろう、ジャージ姿の母校の生徒がちらほら。河川敷のベンチには、若いお母さんとリュックを背負った小さな子供が何かを食べながら楽しそうに過ごしてた。又、別のベンチでは、趣味だろうか、風景をスケッチする男性がいる。ベビーカーを押す女性は、子供に水面から飛び上がった鳥を指さし話しかけていた。のどかな風景が春菜の目を癒す。ここまで来て正解だったなあ。
そう思ってた時、突然後ろから声がした。
「あれ、春菜先輩?」
振り返ると、見覚えのある顔があった。高校の部活の後輩だ。ジャージ姿だった。
「やっぱり先輩だ。お久しぶりです」
「久しぶり?今日も練習だね?」
「はい。ちょっと早く来すぎちゃって。先輩は?」
「私はちょっと近くに用事があったんだけど、せっかくだからここまで足を伸ばしたの。卒業したら来る用事ないと思ってたのにね」
そう言うと、後輩は少し寂しそうな顔をした。
「なんか、まだ先輩が卒業したって実感ないです」
「私も、あんまりないかな」
春菜は笑った。
学校へ行かなくなったことも、制服を着なくなったことも、まだ日常の一部にはなっていない。明日になれば、またいつものように登校するような気がすることさえあった。
「大学、どうですか?」
「まだ始まってないからね。なんとも言えないわ。どんな感じになるのか、私もわからないよ」
「でも、いいなあ、大学生って」
「そんなに変わらないと思うけどなあ」
そんな話をしながら、二人はしばらく立ち話を続けた。部活の近況。後輩たちのこと。春からの生活。話題は次々に移っていった。
「先輩、今度、部にも顔出してくださいよお」
「うん。時間が合えばね」
「絶対ですよ」
後輩は、念を押すように言って笑った。そのとき、春菜の視界の端に、人影が見えた。
河川敷でスケッチしていた男性が堤防に上がる階段を登っていた姿が。横顔が見えた。春菜は、思わず目を向けた。見覚えがある横顔、あの雰囲気。
「(マスター?)」
けれど、声をかけることはできなかった。後輩と話している最中だったし、男性はこちらに気づいた様子もない。堤防を上がるとそのまま高校のある方へ向かって歩いていった。
「じゃあ、また連絡しますね、先輩」
「うん。練習、頑張ってね」
後輩が手を振り、歩き出す春菜も手を振り返した。
もう、マスターらしき姿は見えなかった。河川敷にいたスケッチをしていた人。あの人、マスターだったのだろうか。春菜は、しばらくその場に立っていた。
AM 9:15
龍馬は堤防の上を歩いていた。河川敷で過ごした時間は、思っていたより長かった。
スケッチブックには、目の前に広がってた風景が描かれていた。たいした絵ではないが、描いている間は、それなりに楽しかった。鞄を肩に掛け直し、先へ進む。少し歩くと、堤防から降りる階段がある。階段から降りると、静かな住宅街に出る。目的のお寺は、その住宅街にある。龍馬は、そちらへ向かった。
AM 9:20
春菜は、堤防の先を見つめていた。さっきの男性が本当にマスターだったのか、確かめることはできなかった。けれど、もしそうなら。普段、カウンターの奥にいるマスターが、休日に河川敷でスケッチをしていたことになる。
春菜の知らないマスターの姿。ちょっとしたプライベートな秘密を知った気分になっていた。なんかワクワクしてる自分に驚く春菜だった。どこへ行ったんだろう。気になって気になってしかたない、と思う気持ちが抑えられなくなっていた。
マスターらしき男性がすぐ消えたって事は、堤防に上がってすぐ降りたんだろうか。確かにあの位置からすぐに、住宅街に降りる階段がある。
春菜はためらいなくそちらへ歩き始めた。堤防を一、二分ほど進むと、下へ降りる階段。そこから先は、民家が立ち並ぶ住宅街の静かな生活道路だった。五、六分程歩くとお寺がある。そこを通り過ぎると幹線道路に出る道が。春菜は、とりあえずその道を歩く事にした。
AM 9:25
寺の境内は、静かだった。一人の三十代くらいの女性が、本堂裏の墓地で墓石の掃除をしていた。
落ち葉を拾い、水をかけタワシで汚れを落とす。墓石の周りを整え、持ってきたものをそっと置く。ひと通り終えると、女性は一旦お手洗いへ向かった。少し休んでから墓前に戻ろうと思ったのだった。
丁度その頃、龍馬が境内に入ってきた。本堂の脇を抜け裏の墓地へと向かう。目的の墓前に立つと、きれいに掃除されているのに気がついた。
「(先客がいたか)」
龍馬は持ってきたものを供え、線香に火をつけた。煙が、ゆっくりと空へ上っていく。手を合わせ、静かに目を閉じる。
しばらくすると先程の女性が戻ってきた。墓前で屈んでいる龍馬の姿を見つけ、足を止める。
「月島のおじさん、来てくれたんですね」
声をかけられ、龍馬は振り返った。
「ええ。もう少し早く来てたら、掃除も手伝えたのにね」
「そんな事気にしないで下さい」
女性は小さく首を振った。二人は、墓前に並んで立った。交わす言葉は多くなかった。ただ、同じように静かに手を合わせた。春の気配が、境内の木々の間を通り抜けていった。
AM 9:30
春菜が寺の前を通り過ぎようとしたとき、境内の奥に人影が見えた。一人は、さっき堤防で見かけた男性。もう一人は、知らない綺麗な女性だった。
二人は墓前に並んで立ち、静かに何か話をしているようだった。春菜は、思わず足を止めた。やはり、あの人はマスターだったのだろうか。けれど、今の二人の様子を見て、声をかけるのはためらわれた。
休日に、わざわざ訪れている場所なのだ。そこには、春菜の知らない時間があるのだろう。春菜は少しだけ墓地の様子を眺め、それ以上近付くことなく、そっと踵を返した。
二人は誰なのか。誰の墓なのか。春菜には、謎な出来事だった。ひょっとして、知ってはいけない事を見てしまったのかも。春菜は焦った。
AM 9:40
寺を離れた春菜は、堤防道路へ戻る事にした。そのまま歩いていけば、高校に着く。
今日は学校へ行く予定ではなかったけれど、せっかく近くまで来たのだから、部活の様子を見ていこうと思った。卒業してから、まだ数日しか経っていない。それでも、もう自分はあの場所に毎日通う生徒ではないのだ。
そう思うと、少しだけ胸の奥が落ち着かなかった。春菜は、いつもの道を歩いていった。
AM 9:55
高校に着くと、校舎の向こうから部活動してる後輩達の声が聞こえてきた。聞き慣れた声。聞き慣れた音。
春菜は、少しだけ立ち止まってから、練習している後輩達のところへ向かった。
「あ、先輩!」
朝、堤防で会った後輩が気づいて、手を振った。
「本当に来てくれたんですね」
「近くまで来たからね」
「みんな、先輩が来ましたよ!」
後輩たちが集まってくる。
近況を聞かれたり、大学の話を尋ねられたり、いつもと変わらないやり取りが続いた。
その輪の中にいると、卒業したことが嘘のように感じられた。けれど、ふとした瞬間に、もう自分はこの学校の生徒ではないのだと思い出す。それは寂しいというだけではなかった。ここで過ごした時間が、少しずつ過去になっていく。そのことを、ようやく実感し始めていた。
「また顔出しに来るね、いいかな?」
春菜がそう言うと、後輩たちは一斉に頷いた。
「もちろんです!」
「いつでも来てください!」
その言葉が嬉しかった。春菜は笑って、もう一度、みんなの顔を見渡した。
AM 10:30
お寺を出た龍馬は、住宅街を抜けて商店街のほうへ向かっていた。墓前で過ごした時間は、長いようで短かった。募る想いはあったが、あまり言葉にできなかったなあ。
「(元気そうでなによりだ)」
堤防道路へ戻り、商店街へ向かう。昼が近づけば、食事処はどこも混んで来るだろうなあ。
せっかくの休みだから、昼食は外で済まそう。龍馬は、行きつけの蕎麦屋へ向かい早めの昼食にする事にした。
AM 10:50
蕎麦屋の暖簾をくぐると、店主が顔を上げた。
「おう、ダンナ。今日は早いな」
「少し早めに昼を食べようと思いまして」
「いつも店に籠もってるんだから、たまには外で食わないとな」
「そうですね」
龍馬は笑って、席についた。昼の混雑が始まる前の店内は、まだ落ち着いていた。注文を済ませ、出された蕎麦をゆっくりと食べる。
蕎麦屋の主人とは、天気や商店街の様子など、他愛のない話をした。
「このあと、買い物ですかい?」
「ええ。商店街を少し回ってから、店に戻ろうかと」
「休みの日まで、店に戻るのか」
「戻る場所は、あそこだけですから」
龍馬がそう言うと、店主は呆れたように笑った。
「まあ、ダンナらしいけどな」
AM 11:00
春菜は、すぐ帰るつもりだったのに、ついつい練習中の彼女らの様子を、しばらく見学していた。その後、後輩たちに別れを告げて高校を出た。
「また来てくださいね!」
背中に届く声に、春菜は振り返って手を振った。校門を出ると、少しだけ足取りがゆっくりになった。来るときには、久しぶりに部活の様子を見ようという気持ちが大きかった。けれど、帰り道では、いろいろなことが頭に浮かんできた。
後輩たちの顔。もう毎日会うことはなくなるのだという実感。そして、堤防で見かけた男性のこと。あの人、マスターだったのだろうか。
喫茶店では、いつもカウンターの向こうにいる。コーヒーを淹れたり、片付けや洗い物をしてたり、客の話を聞き、ときどき冗談を言う。本人は真面目に答えているつもりのようだが。
春菜が知っているのは、そういう姿だった。でも、河川敷でスケッチをしていた姿も、寺で女性と並んでいた姿も、たしかに同じ人のように見えた。
AM 11:15
龍馬は食事を終え、代金を払う。
「ごちそうさまでした」
「また来なよ、ダンナ」
「ええ。また」
龍馬は暖簾をくぐり、商店街へ向かった。
AM 11:20
春菜は、自分が知っていると思っている人にも、知らない顔がある。当たり前の事なのに、今まであまり考えたことがなかった。春菜は堤防沿いの道を歩きながら、そんな事を思っていた。
AM 11:30
龍馬は商店街を歩いていた。朝よりも人通りが増えていた。龍馬は買い物袋を片手に、店先をのぞきながら何軒かハシゴして歩いた。
店の仕入れに使うものもあれば、自分の食事の為のものもある。休日とはいえ、店のことが頭から離れるわけではない。そんな事を考えてると、立ち寄る店を行き過ぎたようだ。魚屋の前で、主人が威勢よく声を張り上げていた。
「マスター、今日は何にします?」
「ちょっとまだ買い物があるんであとでまた立ち寄るよ」
「あいよ!」
惣菜屋の前では、女性が、昼に向けて何種類かのお弁当を並べていた。
「あら、龍馬さん。お昼はもう食べたの?」
「ええ、蕎麦を」
「それなら、これは夕飯にどう?」
「ちょうどよさそうですね」
きんぴらごぼうとポテトサラダを受け取りレジに並んだ。龍馬は、商店街のいつもの風景を眺めながら、買い物を続けた。
AM 11:35
春菜も、商店街へ戻ってきていた。高校からの帰り道は、いつもの通学路を逆にたどるようなものだった。
堤防から商店街へ入り、駅へ向かって歩いていく。朝はマスターに卒業の報告をするつもりで来たのに、店は休みだった。そのあと、堤防で見かけた男性が気になって、寺まで足を延ばした。
思い返せば、いつもの道を歩いていただけなのに、今日は普段知らなかったものをいくつも見た気がする。
商店街の店先には、昼食を買いに来た人たちで賑わってた。お弁当屋さんやパン屋さんの店先の人だかりを縫うように春菜は、その間を歩いていった。肉屋の前を通りかかると、鶏の唐揚げの良い匂いがした。
朝はコロッケと串カツ。どちらも食欲そそる匂い。学校帰りにたまにコロッケ買って買い食いした事もあるのを思い出した。部活帰りは晩御飯までお腹が持たない春菜だった。
同じ街なのに、今日は少しだけ違う一日だったなあ。春菜は、駅へ向かう道をそのまま進んだ。
PM 11:40
喫茶店「 」の前まで戻ってきた春菜は、もう一度、店の入口を見た。休みの札は、朝と変わらず掛かったままだった。
「帰ってないかあ」
思わず、小さく呟く。もちろん、店が休みなのはわかっている。それでも、もし戻ってきていたら、少しだけ話ができるかもしれない。そんな気持ちが、どこかに残っていた。
春菜は、もう一度看板を見た。
「また今度にしよ」
誰に聞かせるわけでもなく呟いて、店の前を離れた。駅へ向かう道を歩きながら、春菜は今日のことを思い返していた。
マスターに会えなかったのは残念だった。けれど、今日一日が無駄だったとは思わなかった。知らない顔を見た気がする。知らなかった時間があるのだと知った。それだけでも、なんか得した気分。
「(あっそうだ、ちょっと足伸ばして大学周辺を探検してみよっかな)」
こうして春菜の休日は続く。
AM 11:40
最後の買い物を済ませた龍馬は、商店街の歩道を通り、「 」へ向かっていた。両手には、買い物袋。昼の商店街も人通りが多く、すれ違う人たちの声があちこちから聞こえ活気がある。
ふと、前方に見覚えのある後ろ姿が見えた。駅へ向かって歩いていく、若い女性。どこかで見たことがあるような気がした。けれど、はっきりとはわからない。女性は振り返ることなく、人の流れの中へ消えて行った。龍馬は少しだけその背中を目で追ったが、やがて歩き出した。
店に着き、鍵を取り出す。入口には、朝と同じ札が掛かっている。
『本日定休日』
龍馬は鍵を開け、店の中へ入った。いつものカウンター。いつもの椅子。いつもの場所。けれど、今日は何もする必要もない。
買ってきたものをカウンターの上に置き、ひと息つく。窓の外では、商店街の賑わいが続いている。
「昼からなにしようか、取り敢えずコーヒーでも淹れるか」
龍馬の休日は、まだ終わらない。
本作品を読んでいただきありがとうございます。前回までの第一章はプロローグ的な感じです。第二章からは、色んな人物との絡みがあると思いますので、楽しみにしてて下さい。




