31話 濁った色(漣)
芸術棟のアトリエ。
窓の外はもう真っ暗だ。アトリエに残っているのは数名。静かな空間に、鉛筆や筆を走らせる音だけが響いている。
俺はキャンバスの前に座っていた。
何度も描き直した線の上を、また筆でなぞる。
集中できない。理由は、分かってる。
頭に浮かぶのは、今日の蒼真の顔だった。
蒼真に彼女ができた。それも、落ち着いた年上の清楚な人。
一緒にいるところを見た瞬間、本当にお似合いのふたりだと思った。
蒼真が今まで『なんとなく』で付き合った人たちとは、まるで違った。ちゃんと蒼真が自分から好きになって、相手にも大切にされている雰囲気だった。長く続くんだろうなと感じた。
蒼真が心から安心してる表情。大学で作ってる『元気な役』じゃない声。嬉しそうな笑顔。それだけで、彼女と居る時間は幸せなんだと分かった。
蒼真から届いたメッセージを見返す。
『今日はありがと! 漣のこと紹介できてよかった』
スマホを伏せて、深く息を吐く。
――よかった、か。
紹介された時、精一杯の笑顔を作って、自分でも驚くくらいちゃんと『親友』のふりができていた……と思う。
思い出すたび胸の奥が、静かに締めつけられる。
蒼真が幸せそうでよかった。
そう思ってるはずなのに……苦しい。
俺は幼馴染で、大学まで同じで、たまたま隣を歩いてきただけの人間。
それ以上……なんて、考えただけでおしまいだ。
自分が蒼真を守るなんて思っていたのも、ただの自惚れだった。俺が蒼真の隣を埋められる訳がなかった。
どうして、もっと早く気づかなかったんだろう。
「……」
筆を置く。
ああ、そうか。
俺の役目は、もう終わった。
これ以上、蒼真の近くにいたら邪魔になる。
今まで通り友達みたいに接し続けて、気持ちが抑えきれなくなったら?
また倒れて心配させて、蒼真に世話を焼かせてしまったら?
俺のせいで蒼真を困らせたくない。
蒼真には蒼真の人生がある。
だから決めた。
距離を置いて、少しずつ蒼真の中からいなくなろう。
そうしたら、蒼真は俺のことを気にしなくて済む。
蒼真にはもう、ちゃんと居場所があるから。
嫌いになったわけじゃない。
むしろ――今以上に、好きになってしまいそうだと気づいてしまったから。
このままだと、自分が壊れてしまう。
キャンバスに滲んだ色が、自分の感情みたいで目を逸らした。
蒼真から離れることが、お互いにとって一番いい。
そうやって自分に言い聞かせて、また筆を握った。
***
「……しのみや? おーい……篠宮、聞こえてる?」
「……っ!」
筆先が止まっているのに気づいて、遅れて息を吸った。
耳元で声をかけられて意識が戻る。いつの間にか悠月が隣に居た。少し離れた席で手を動かしていたはずなのに。
「キャンバス、なんか酷いことになってるけど?」
指差された先には、明らかに合っていない色を無意識に重ねた跡があった。不協和音みたいな、濁った色。
「篠宮が、そんな色を使うなんて珍しい……」
悠月が楽しそうにこちらを覗き込む。
「ふふ。篠宮は分かりやすいね。どうせ今、雑音塗れなんだろ? 暇だからボクが話を聞いてあげる」
雑音――蒼真のことばかり考えていると、見透かされた気がした。
いつもの、からかうような絡み。目を合わさずに言う。
「……何でもない」
「ふぅん……」
悠月は腕を組んで、獲物を見つけたみたいに目を細めた。
「今の色、全然篠宮らしくない。いっそ一番深いところまで沈んじゃえば?」
「……沈む……?」
「そう……最深部まで。自分のすべてを塗り潰すことだけ考えるんだ。……ねぇ、一緒に描こうよ。ボクが何もかも忘れさせてあげる」
何もかも忘れられる……か。それもいいかもしれない。
蒼真を好きな気持ちも、離れる決意も、絡まってほどけなくて、いっそ全部濁らせてしまいたかった。
――忘れたい。忘れたくない。もうどっちでもよかった。
今までなら蒼真は、無理しすぎだって連れ出してくれた。でも、きっと――もう来ない。そうであってほしい。……もう何も、考えたくない。
悠月が、冷たい微笑みを浮かべて言う。
「描くことだけに溺れてよ。ボクと朝まで堕ちてみる?」
「……ああ……そう、する……」
無意識に返事をしていた。
悠月が俺の背後に回り、両肩を掴んで引き寄せた。逃げ道を塞ぐみたいに。
そして耳元に息がかかりそうな距離で、囁いた。
「篠宮はさ。絵の世界に沈んでる姿が、一番似合ってる」
悠月の視線は俺じゃなく、キャンバスの奥を見ていた。
楽しげなのにどこか冷たい声に、ぞくりとした。
いつもなら振り払うのに。今日は、その気力がなかった。
キャンバスに重ねた濁りの下に、最初に置いた青が透けて見えた。
悠月の言う通り、描くことで全部忘れられるなら――。




