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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第6章――「波の鎖、南の潮」

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第8話(後編)――「裸の風、島影の合図」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 登場人物〈男性〉


 ディエゴ〈28〉(遠征司令官、大尉) アルバロ〈27〉が遠征の際に名乗る仮名だ。アルバロは新大陸の皇帝を名乗り、新大陸からスペイン人勢力を追い出す意志を持つ。ただ、皇帝が前線へ出る格好は避けるため、現場では「ディエゴ」を名乗って軍を率いる。妻や妾、侍女、兵は真相を知らされておらず、ディエゴを高級将校だと受け取っているため、呼び方も態度もその前提で統一されている。


 ペドロ・サラサル〈29〉(雇い入れ・船大工) 板の反りと釘の打ち方を知る。小舟の修理と簡単な補修を任される。


 ミゲル・デ・オルティス〈16〉(雇い入れ・荷役見習い) 母と共に港へ流れ着いた。成人後は部下に取り立てる方針で、当面は荷役に回される。


―――――――――――――――――

 登場人物〈女性〉


 サク・ニクテ〈22〉(正妻) コスメル島出身の先住民。コスメル島部隊5,000名の隊長。上陸地の井戸と倉を先に押さえ、配給と整列で隊の崩れを防ぐ。妊娠中〈10月半ば出産予定〉だが、腹の子の動きを隠さず前に立つ。


 マルタ・ロペス〈19〉(妾・新任) キューバ島の小教会にいた司祭の家で暮らしていた女性。寝具と衣類を預かり、針仕事で傷みを直してきた。祈祷文と聖歌を覚えており、人前でも声が崩れにくい。読み書きは得意ではないが、手順を守るのがうまい。過去の功績により、ディエゴの妾に抜擢された。


 ドニャ・ベアトリス〈30〉(妾・新任、スペイン人) セビリア出身。夫はサンチャゴ大聖堂に属する聖職者で、説教と告解の取りまとめに関わっていた。夫は旧来の権力筋と近く、城塞の内側の噂や名簿の流れにも通じていたが、争いの後に失脚し、姿を消した。ベアトリスは生き残りのためにディエゴへ好意を示し、名と事情を取引にする形で近づく。遠征には侍女として付いてきたが、口と香りで間合いを詰める癖があり、ディエゴは情報源として手元に置いた。第4話後編で功績を上げ、妾に抜擢された。


 イネス・アルバレス〈26〉(妾・スペイン人) エストレマドゥーラ出身。夫はキューバ東部の砂糖農場の経営者で、圧搾機と倉、労働者の手配まで握っていた。夫は騒乱の夜に殺され、農場は人手と道具だけが残った。イネスは農場の内側を知り、誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかを具体で言える。ディエゴに好意を匂わせ、遠征では侍女として衣類や寝具の手配にも回るが、利で動く言い回しが抜けず、旧勢力との結びつきも疑われている。ディエゴは現場の証言を引き出すためにそばへ置いた。


 クララ・デ・アビラ〈20〉(妾・新任) サントドミンゴの司祭館で同居していた女性。台所だけでなく家計簿と支払いの控えを任され、買い物の値と銅貨の数を間違えない。表に立って働いて稼いだ経験は乏しいが、帳面と鍵の扱いで屋敷を回してきた。


 レオノール・メンドーサ〈22〉(妾・新任) イスパニョーラ島の司祭館で客間と寝具を預かっていた女性。割れ物や布の扱いが丁寧で、物の置き場を覚えるのが早い。先住民の女たちの言葉を少し知っており、水場や台所の伝言役に回れる。


 ドニャ・テレサ・デ・バルデス〈31〉(妾・新任) 処刑された旧支配者の妻。家の出納と帳面の付け方を知り、クララの補佐に回る。


 ドニャ・アナ・デ・ラ・クルス〈28〉(妾・新任) 幼い娘を連れて忠誠を誓う。台所の段取りと保存の扱いを任される。娘ルシア〈6〉は母と同じ区画で寝起きする。


 マリア・デ・オルティス〈38〉(妾・新任) 息子ミゲル〈16〉の母。針仕事と洗い物を請け負い、寝具と衣類の手入れを任される。ディエゴの夜伽にも応じ、サンファンにおける散策にも付き合い、互いに心を通じ合わせる。


 フアナ・デ・ルナ〈21〉(妾・新任) 皿洗いが早く、細かな始末が丁寧だ。水場の手として雇われる。


 エルビラ・グスマン〈18〉(妾・新任) 水瓶運びと倉の戸の扱いを覚えるのが早い。運搬と戸口の手として雇われる。ディエゴに忠実。


―――――――――――――――――


 1521年6月13日、朝。サンフアン港の旗艦は、夜の湿り気をまだ板の隙間に残していた。舷窓から入る風は冷たくはないが、潮と藻の匂いが濃い。提督室の机には海図と短い指示書が広げられ、羽根ペンの先に残った墨が、乾ききらずに黒く光っていた。


 外の甲板では、日の出と同時に暑さが始まった。日差しは真上から落ち、帆布も縄もすぐ熱を持つ。兵たちは汗で背を濡らし、上半身を脱いで腰布だけで動いていた。滑車が鳴り、帆が風を受けて震えるたび、乾いた布の擦れる音が船団のあちこちで重なった。松脂とタールの匂いは強く、そこへ汗の酸い匂いが混じる。海は透けるように青く、浅いところだけが薄緑に変わって見えた。


 女たちも甲板へ出る時は薄いシャツを羽織った。だが、仕事が始まれば、濡れた布はすぐ肌へ貼りつく。日差しの下でそれを嫌う者は多く、彼女たちは遠慮を捨てて、肌を晒したまま桶を運び、網をたぐり、魚を締めた。船の上では、恥じらいよりも、動きやすさが勝った。


 ディエゴは、船内では腰に布を巻いていた。狭い艦内で女たちの視線を集めるのを避けるためだ。だがその朝、ドニャ・アナ・デ・ラ・クルス〈28〉とフアナ・デ・ルナ〈21〉が、小舟を出して魚を釣りたいと言い出した。潮の色が良く、魚の影が見えるという。


 アナは笑いを含んだ声で言った。「提督閣下、今日の海はきれいです。小舟で少しだけ沖へ出てもよろしいでしょうか。昨夜の残りでは足りません。朝の皿を賑やかにしたいのです」


 フアナも、両手を胸の前で揃えて続けた。「提督閣下、私も一緒に参ります。針も糸も持ちました。釣れたらすぐ血抜きをいたします。臭いが残ると、後が大変ですから」


 ディエゴは小さく息を吐き、舷窓の外を見た。港の入口は明るく、遠くの波は穏やかだ。だが、海の機嫌は変わる。油断はしない。そう思いながらも、2人の目の輝きが、いまの船の熱を映しているのが分かった。彼女たちは疲れているはずなのに、朝の勢いがある。昨夜、2人が提督の寝台へ潜り込み、夜明けまで3人で過ごした余韻も、まだ室内に残っていた。汗と香油が混じった匂いが、寝具の布の奥に沈んでいる。


 厨房ではすでに火が起きていた。昨日小舟で捕った魚と貝が、粗塩と香草で煮込まれ、湯気に海の匂いが乗る。焼いた魚の皮がはぜる音がして、脂が焦げる匂いが鼻へ来た。果物の甘さも皿に並び、酸い柑橘を絞ると、指先に冷たい汁が伝った。3人は狭い卓を囲み、皿を回し合いながら食べた。塩気の強い汁を飲むと、身体が目を覚ます。フアナが焼き魚の骨を丁寧に抜き、アナが汁の濃さを見て水を足す。笑い声が小さく弾み、舷側を叩く波の音が、その間に規則正しく入った。


 食後、ディエゴが腰布を締め直すより早く、アナとフアナが手を伸ばした。布の結び目がほどけ、潮風が肌へ直接当たる。船上の風は生暖かいが、汗の膜を剥がすように乾かしていく。ディエゴは抵抗を諦め、怪我だけはしないようにと、腰の短剣を外した。小舟では刃物が躓きの原因になる。


 小舟を海へ下ろすと、木がきしんだ。櫂が水を押し、海面が薄く割れる。近くの海は底が見えるほど澄み、魚の影が黒い線になって走った。潮の匂いが強くなる。帆を張る大きな船の影が、波の上に落ち、そこだけ水の色が暗く変わった。


 アナは釣り糸を垂らしながら、肩越しに旗艦を見た。「提督閣下、皆さま、あれほど裸でも平気なのですね。サンフアンの日差しは、肌を焼きますのに」


 ディエゴは短く答えた。「布は濡れると重い。仕事が遅れれば、その分だけ水を無駄にする。だから脱ぐ。焼ける痛みより、遅れのほうが厄介だ」


 フアナは頷き、針の先を確かめた。「潮を浴びると、傷がしみます。ですが、動けないほどではありません。提督閣下も、腕に塩が残っています」


 魚が掛かった。糸が引かれ、手首に確かな重さが来る。フアナが素早く魚を取り込み、板の上で押さえ、血を抜いた。温い血の匂いが一瞬立つが、すぐ潮の匂いに消される。鱗が陽を受けて光り、濡れた指先がぬるりと滑った。アナが笑った。「今日は当たりです。港を出る前に、もう少し釣れそうです」


 その間も、旗艦の上では出港の準備が進む。縄が巻かれ、樽が固定され、帆の端が締められる。号令の声が短く飛び、船大工が板を叩いて音を確かめる。水樽の木の匂いが、風に乗って小舟まで届いた。


 小舟を戻すと、魚はすぐ厨房へ運ばれた。包丁が木のまな板を叩き、内臓を洗う水音が続く。湯の立つ匂い、焼ける脂の匂い、塩を振る音。腹が自然に鳴る。船の朝は、食い物の匂いで動き出す。


 出港の時刻が来た。錨が上がり、鎖が鳴った。海面から引き上げられる鎖は黒く濡れ、そこに絡んだ藻が粘り気のある匂いを放つ。旗艦がゆっくり港を離れ、随伴船も順に続いた。サンフアンの白い家並みは陽にかすみ、砦の石壁だけが硬い影を落として見える。港の空気から、沖の乾いた風へ変わる境目で、喉の奥の湿り気が少し軽くなった。


 ディエゴは舷側に立ち、海図の向きを確かめた。視線の先には、ヴァージン諸島の低い影が薄く浮かぶ。波は東から西へ押し、風も同じ向きで背を押す。だが船団は南へも下る。帆の角度を誤れば、進みが鈍る。焦りは浅瀬に直結する。


 ディエゴは2人へ言った。「サンフアンからヴァージン諸島をかすめて、小アンティルへ入る。まずドミニカ島、次にマルティニーク、セントルシア、セントビンセント、グレナダだ。港を1つずつ増やして、潮と風を確かめながら進む。焦って暗い内に降りると、浅瀬にやられる。海が先に勝つ」


 アナは真面目な顔で受けた。「承知いたしました、提督閣下。島影が見えたら、先にお知らせいたします。目は私が利きます」


 フアナも続けた。「提督閣下、夜の番の方々へ、湯を回します。潮で身体が冷えると、眠りが浅くなります。食い物と湯が切れると、口が荒れます」


 船団は港外へ出た。海の色が一段濃くなる。波が高くなり、船腹が上下に揺れ始めた。板の継ぎ目が鳴り、帆が風を受ける音が太くなる。甲板では裸の背が陽に照り、汗が背骨の溝を伝って落ちた。縄を握る手は塩でざらつき、指の腹が擦れて熱を持つ。潮しぶきが顔へ飛び、唇がしょっぱくなる。


 昼になると、空気が焼けた。金属の部品は触れば熱い。水はぬるく、飲んでもすぐ喉が乾く。厨房からは魚の煮汁の匂いが上がり、香草と塩の匂いが通路に溜まった。椀の中身は熱く、舌がひりつくが、塩気が汗で失われた分を戻す。噛むと魚の身がほろりと崩れ、骨の間に残る旨みが広がる。食べ終えると、すぐ甲板へ戻る。止まっていると、身体の熱が逃げない。


 夜は急に涼しくなる。日中に熱を持った板が、ようやく冷え始め、裸の背へ冷たい風が当たる。星が増え、海面にも細かな光が散る。帆の影が黒く揺れ、舵のきしみが一定の拍子を刻む。見張りは島影を探し、波の白を読む。潮の匂いは薄まり、代わりにタールと木の匂いが強くなる。船は生き物のように鳴る。小さな音が止まらない。


 2日目、ヴァージン諸島の影は背後へ流れた。島は近づけば緑が見え、離れればただの黒い線になる。昼に一度、雨雲が来た。空が暗くなり、風が冷たく変わる。大粒の雨が板を叩き、裸の肌が一気に冷えた。雨は塩を洗い流し、汗の匂いも薄くした。だが雨の後は、蒸し暑さが戻る。濡れた縄は重くなり、帆布も水を吸って、扱いが鈍る。船員は歯を食いしばり、滑る板の上で踏ん張った。


 3日目の朝、東の空が白む頃、南の水平線に高い山の影が見えた。海の上に盛り上がる濃い緑で、平たい島とは違う。ドミニカ島だ。近づくと、山肌の線がはっきりし、谷が黒く落ちる。風が運ぶ匂いも変わった。潮の匂いの奥に、湿った土と葉の匂いが混じる。陸が近い匂いだ。


 船団は速度を落とし、帆を調整した。波は島影で少し穏やかになり、海面の色がまた薄くなる。だが浅瀬は油断できない。水の色が変わる場所を見張り、潮の流れを読む。鳥が飛び、白い腹を見せて旋回した。波の音に混じって、遠くから低い雷のような響きが聞こえる。山の向こうで雨が降っているのだろう。


 ディエゴは甲板の縁で、潮の匂いを吸い込んだ。塩と緑の匂いが同時に来る。到着は間近だが、ここからが慎重さの勝負になる。海に勝てる者はいない。勝つのは、いつも最後まで油断しない者だ。

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