第30話(後編)――「香の戸口、契約の線」
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(1521年2月10日。キューバ島サンチャゴ城塞)
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次に通したのは、スペイン人の女たちだった。身なりの崩れ方は違っても、目は共通している。生き残るために、何を差し出せるかを測る目だった。
ドニャ・ベアトリスは手袋の片方だけを握り、椅子の縁に浅く腰を落とした。香水は薄く残っているが、汗と混じって酸っぱい。彼女は、机の上の封蝋と秤を一度見てから、ディエゴへ視線を戻した。
ディエゴは、先に条件をはっきりさせた。
「あなたが不安なのは分かる。だから、取引の形にしておこう。私は信用できる人物を探している。官吏でも農場でも構わない。男でも女でも構わない。逃げないで働く者の名を挙げてほしい。私も、その名を軽く扱わない」
ベアトリスは微笑んだ。微笑みの奥に、焦げた糖蜜のような粘りがある。彼女は椅子をわずかに寄せ、声を落とした。呼気に香が混じり、蝋の匂いに重なった。
「大尉は、とてもお忙しいのでしょう。ですから、全部を一度に言えと言われても、私は困ってしまいます。でも、大尉が私を少しだけ信用してくださるなら、助けになれると思います。名も、事情も、順にお話ししますから」
指先が机の縁へ滑り、爪が蝋の光を受けて淡く光った。彼女は視線を外さない。外さないことで、主導権を取りに来ている。
ディエゴは、淡く笑って受け流しながら、話を前へ進めた。
「信用は、今ここで積むものだ。だから、まずは名を聞かせてほしい。あなたの言う『助け』が、島の腹に繋がるなら、私はきちんと評価するし、あなたの身の置き場も用意する」
ベアトリスは一瞬だけ唇を噛み、それでも笑みを崩さずに言った。
「では、フアン・デ・ロサーノです。帳簿が書けますし、算盤も早いです。ただし、彼を使うなら、あなたの目の届く場所に置くべきでしょう。彼は王の金を扱ってきた男ですから。癖が抜けません」
ディエゴはそれを聞き、短くも丁寧に返した。
「忠告として受け取る。ありがとう。ほかにも、倉の管理ができる者や、農場の現場を回せる者を知っているなら、続けて言ってほしい。名だけでは足りない。誰が誰と組んでいたかも、できるだけ教えてくれ」
ベアトリスは、言葉の端に甘さを混ぜながら、追加の名をいくつか挙げた。そのたびに大尉は相槌だけで終わらせず、「その者が逃げなかった理由は何だ」「誰と繋がっている」と筋の通る問い返しを重ねた。ベアトリスは笑みを保ったまま、指先で自分の膝を一度撫で、息を整えて答え続けた。
続いてイネス・アルバレスが入った。髪留めは折れ、爪の間に土が残る。それでも歩き方は貴婦人のままだ。彼女は椅子に座る前に、ディエゴの胸当ての留め具を一度見た。武人の癖を見抜く目だった。
ディエゴは、相手の立場を踏まえて言った。
「あなたは農場の内側を知っているはずだ。だから、現場を回せる者の名を聞きたい。私が欲しいのは、口の上手さではなく、明日も畑に立てる人間だ。あなたが知っていることを、あなたの言葉で言ってほしい」
イネスは肩をすくめ、代わりに笑った。笑いは薄いが、熱を帯びている。彼女は身を寄せ、吐息が蝋の匂いに混じった。
「大尉は冷たいのですね。でも、それが強さなのでしょう。夫は……もういません。ですから、代わりに私が分かります。もし大尉が望むなら、夜にでも、もっと詳しくお話しできます。誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかも」
ディエゴは視線を逸らさなかった。誘いが恐怖から来るのか、計算から来るのかを見分けようとしていた。彼は砂時計をひっくり返し、砂の落ちる音を1度聞いてから、穏やかに言った。
「夜の話より、今の話が先だ。あなたが分かるなら、ここで言えるはずだ。圧搾機の故障が起きやすい場所はどこだ。倉の損耗はどこから始まる。黙って持ち出される品があるなら、それは何だ」
イネスの目が細くなった。誘惑が通らないと見れば、別の武器へ切り替える女だった。彼女は渋々ながらも、圧搾機の木軸が湿気で狂う季節、砂糖袋の目減りが起きる倉の角、監督が隠していた酒の樽の場所を言った。言葉が具体的になるにつれ、彼女の声から余裕が剥がれていく。
それでも彼女は最後にもう一度だけ、声を甘くした。
「大尉。私は役に立てます。役に立てる女を、粗末にはしないでしょう。あなたが望むなら、私はそれに合わせます」
ディエゴは小さく息を吐いた。蝋の匂いの中に、かすかな香水が混じって鼻をくすぐる。彼は好みの匂いに弱い。そういう自分を、彼自身が分かっている。
「粗末にはしない。ただし、順番は守る。あなたが役に立つなら、それは言葉と手順で示せる。今夜の話は、そのあとでいい。私が聞きたいのは、あなたが知っている島の中身だ」
最後にドニャ・レオノール・デ・アランダが入った。背が高く、所作が崩れない。机と扉と砂時計を一度に見て、部屋の支配が誰にあるかを理解していた。彼女は椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。布の擦れる音が小さく響いた。
ディエゴは、少しだけ口調を柔らかくした。相手の賢さを感じ取ったからだ。
「あなたは状況をよく見ている。だから率直に聞く。信用できる人物を挙げてほしい。男でも女でもいい。私は島の胃袋を回したい。そのために、嘘の少ない人間が要る」
レオノールは一拍だけ沈黙した。軽い推薦は軽い裏切りに繋がると知っている沈黙だった。
「ニコラス・トレドです」
名を出すとき、彼女は媚びるように目を細めなかった。ただ、落ち着いた声で続けた。
「彼は嘘を言いませんし、言う必要のあることだけを言います。帳面も書けます。大尉が求めるのが『続く仕組み』なら、彼は役に立ちます」
ディエゴは初めて、しっかりレオノールを見た。灯の揺れが彼女の頬に影を作り、目の動きが速い。美しいだけではない。頭の回り方が見える女だった。ディエゴは、その種の女に弱い。
レオノールはそれを見抜いたように、声をさらに落とした。甘さは押しつけず、しかし逃げ道を残さない程度に寄せてくる。
「大尉。私は大尉の味方になれます。もし大尉が、夜に少しだけ私の話を聞いてくださるなら、私は明日のことも、もっと正直に話せます。名も、帳面の場所も、鍵の数も」
ディエゴは笑った。笑いは冷たくない。ただ、軽くはならない。彼は封蝋を指で転がし、赤い蝋の匂いを一度吸ってから言った。
「私は味方という言葉を、軽く使わない。だから、あなたの明日を守るのは契約だ。あなたの価値は身体だけではない。目と手と頭がある。私はそこを見たいし、そこに金も飯も回す」
レオノールは、ほんの少しだけ口角を上げた。勝った笑みではない。状況を呑み込んだ者の笑みだった。
◇ ◇ ◇
夜、城塞の廊下は潮気を帯び、石壁が昼より冷たく感じられた。灯りは油皿の小さな火だけで、歩けば足音が薄く伸びる。尋問室の前で、戸を叩く音がした。強くはない。叩く間隔だけが、ためらいと計算を混ぜていた。
ディエゴが閂を外すと、戸の隙間から香が入った。昼の香水とは違う。体温に近い匂いだった。女は外套の襟を指で押さえ、目だけで部屋の中を見た。
「今夜は、名の続きを話すの」
声は小さいが、はっきりしていた。女は椅子に座る前に、机の砂時計を見て、次に大尉の手元を見た。紙束は整えられ、封蝋は冷え、羽根ペンの先は洗われている。話をするための夜だと、最初から形を決めてきている。
ディエゴは「入れ」とも「帰れ」とも言わず、卓の向かいの椅子を顎で示した。
「座れ。話があるなら、先に話せ。名と理由を聞いてから、私も返す」
女は唇を湿らせ、幾つかの名を置いた。倉の鍵を渡していた手、帳面の写しを持っていた手、港の荷を動かしていた手。言葉は甘いが、内容は甘くない。ディエゴは聞き取り、必要なところだけをニコラスの書き方で紙に写した。
話が途切れると、蝋燭の脂の匂いが戻ってきた。女は指先で外套の紐をほどき、肩を少しだけ見せた。誘いは露骨ではないが、断りにくい温度を作る。
ディエゴは、女の手首に残る痕を一瞬見た。昨日までの秩序の痕だ。彼はその痕を見て、欲と計算の間で呼吸を整えた。
「ここで約束はしない。だが、今夜の話が役に立ったなら、私は明日、働く場所を作る。その代わり、お前も明日、同じ口で同じことを言え」
女は黙って頷き、背筋を伸ばした。夜は夜のまま終わり、朝は朝のまま始まる。そういう線を、大尉は見せた。
◇ ◇ ◇
翌朝、尋問室の机には新しい紙が積まれていた。窓を少し開けると潮の匂いが入り、紙の匂いと蝋の匂い、汗の匂いが一瞬ゆるむ。すぐにまた部屋の匂いへ戻った。
尋問は続いた。推薦の名が増え、井戸と倉の位置が繋がり、逃げ道が少しずつ潰れていく。外では訓練の掛け声が遠くに聞こえた。サク・ニクテの部隊がいない分、城塞の空気は軽くなるはずだったが、軽くはならなかった。糖蜜の甘い匂いの下で、島の胃袋を作り直す作業が始まっているからだ。
机の上には、推薦の名が並び始めた。今すぐ使える者、監督を付ければ使える者、二度と使わない者。島は手に入れたが、島の腹はこれからだ。
ディエゴは紙束の端を揃え、ニコラスへ低い声で言った。
「ロサーノは帳面に触らせる。ただし、写しを必ず取って、お前が別に持て。倉の鍵は数を増やすな。名義も勝手に変えるな。モンテーロは圧搾機を動かせる。動かせる間は動かさせる。神父には水と医療の口を任せるが、倉の鍵には触らせない」
ニコラスは頷き、羽根ペンを墨に浸した。ペン先が紙に触れる音が、またカリカリと続く。
砂時計の砂が落ちきる前に、畑と倉と港の順番を組み替えなければならなかった。




