第30話(前編)――「封蝋の夜、帳面の朝」
―――――――――――――――――
(1521年2月10日。キューバ島サンチャゴ城塞)
―――――――――――――――――
サンチャゴ城塞の中庭に、乾季の風がまっすぐ吹き込んでいた。潮の匂いが石壁に薄く貼りつき、松脂を煮た煙が兵具庫の戸口から甘く漏れてくる。砂地を踏む靴底の音が重なり、槍の穂先が陽を返すたび、光が細かくちらついた。
サク・ニクテ〈22〉は列の前へ出た。頬に汗が浮いても、視線は揺れない。後ろにはコスメル島同盟軍の5,000名が並び、革紐の匂いと干し肉の塩気、火縄の油が混じった空気が、列の間にこもっていた。
彼女は腕を上げ、ゆっくり下げた。それだけで、ざわめきが静まり、隊列が1つの塊になる。砂を踏む音まで揃い、馬の鼻息も短く整った。
「これからイスパニョーラ島へ向かう。まず港を押さえて、それから井戸も押さえる。敵を追い散らすことよりも、飯と水が途切れないことを優先する」
サク・ニクテは、兵の顔を順に見ながら言った。
「戦いは短く終わらせる。そのために、私たちは先に胃袋を確保する。腹が減ると隊列が乱れるし、乱れれば勝てる戦でも死ぬ。だから、手順を間違えないでほしい」
兵が頷くと、鎧の金具が短く鳴った。荷の点検が始まり、縄が擦れ、木箱の蓋が軋む。矢筒の匂いが強くなる。進軍に要る船の数も武装も、サク・ニクテに任せると決めてある。ここで細部まで口にすると、現場の判断を縛ってしまうことを、アルバロは知っていた。
門が開くと、外の光が一気に差し込んだ。隊列が動き出し、砂が小さく舞う。馬の鼻息が熱を含み、革鞍が軋む。サク・ニクテは先頭に立ったまま、潮の匂いの向こうへ消えていった。
◇ ◇ ◇
城塞の奥、倉を仕切った尋問室は外より冷えていた。湿った木材の匂いと蝋燭の脂が混じり、机の上の砂時計が、さらさらと乾いた音を立てて落ち続ける。封蝋と秤、紙束が並び、墨は濃く、紙の端は指に引っかかった。
アルバロは名を捨て、ディエゴ・モラレス大尉になっていた。髪は短くまとめ、飾りのない胸当てだけを着ける。黒人兵セバスティアンは戸口の影に立ち、通訳兼書記のニコラス・トレドは机の端で羽根ペンを整えている。外の波音は壁に遮られ、代わりに砂時計の落ちる音と、蝋のはぜる小さな音だけが残った。
最初に入ったのは、解放された者たちだった。先住民と黒人奴隷である。縄の痕が首や手首に残り、皮膚が白く擦れている。それでも目の奥は、昨日よりはっきりしていた。
アタバルは椅子に腰を下ろすと、喉を鳴らして息を整えた。息には砂糖黍の青臭さが混じっている。
ディエゴは声を荒げず、しかし言葉を省きすぎないようにして言った。
「今日は、あなたたちの目で見たことを聞きたい。私たちは農場を動かさないといけないし、そのためには信用できるスペイン人が要る。だから、名前と役目、それから、そう思った理由を教えてほしい。間違っていても責めない。私は、確かめてから使いたいだけだ」
アタバルはしばらく床を見つめ、それからゆっくり顔を上げた。
「フランシスコ神父です。あの人は、いつも私たちを守ったわけではありません。でも、井戸の前で水を先に回せと言いました。井戸に近い者が先に飲むと、争いになるからです。それに、子どもに先に飲ませろ、とも言いました」
ニコラスのペン先が紙を走り、カリカリという音が部屋の静けさに溶けていく。墨の匂いが少しだけ濃くなった。
ディエゴは頷きはしなかったが、声を柔らかくした。
「分かった。神父の言葉が、争いを止めた場面があったということだな。ほかにも、井戸や倉の扱いで、信用できる者はいたか」
アタバルが首を振ると、大尉は責めずに次へ進めた。
次はマテウスだった。鎖が外れた手首を、無意識に擦っている。白い痕が蝋の光で目立ち、触れるたびに皮膚が乾いた音を立てそうに見えた。
ディエゴは、先に相手の不安をほどくように言った。
「あなたが今、何を怖がっているかは分かる。だから、答えられる範囲でいい。私が知りたいのは、働く場所を作るための話だ。ガスパル・モンテーロのことを、あなたは知っているか」
マテウスは眉を動かした。恐れと憎しみが、同じ場所に浮いている顔だった。
「知っています。農場主です。いい男ではありません。ただ、圧搾機を止めませんでした。止めると皆が飢えることを、分かっていたからです。監督が勝手に鞭を振るったときも、黙って目だけで止めた日がありました。毎日ではありませんが、あの日は止めました」
ディエゴは砂時計を一度見てから、言葉を選んだ。
「毎日でなくても、止めた日があったなら、それは記録に残す価値がある。私は人を天使だとは思わないが、飢えを止める判断ができる人間は使える。もう1つだけ聞く。あの農場で、帳面が読める者や、倉の鍵を握っている者は誰だ」
マテウスは、倉の角の暗さや鍵束の音まで思い出すように目を伏せ、いくつかの名を口にした。ニコラスは書き落とさない。紙に落ちる文字が増えるほど、尋問室の空気が少しずつ現実の重さに変わっていく。
同じ質問を、何人にも繰り返した。井戸の位置を知る者、倉の鍵を見た者、誰が夜に灯りを消さず、誰が密かに舟を動かしたか。答えが噛み合わないところほど線が出る。ディエゴはその線を、焦らず丁寧に拾った。
「今言ったことは、あなたが生き残るための話でもある。だから、私は軽く扱わない。言葉の重さは、こちらで背負う」
そう言うたび、部屋の中の呼吸が少しだけ整っていった。




