第29話(後編)――「砂時計の砂、仮名の地図」
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(1521年1月30日。キューバ島サンチャゴ城塞)
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1521年1月30日。アルバロがサンチャゴを押さえ、キューバ島の全域が新しい支配の下に入ったのは、乾季の風が強まる頃だった。
昨年9月末に妻にしたマリア・デ・クエリャル〈28〉とカタリナ・スアレス・マルカイダ〈24〉は、ともに身重で、腹は衣の上からでも分かった。
サンチャゴ城塞の内側には、それぞれ別の宮殿が建てられ、乳母1人と侍女5人が付いた。石壁の部屋は潮の匂いが薄く、洗い立ての麻布と煮沸した湯の匂いが勝っていた。
廊下では、乳母のロサ〈38・黒人女〉が木鉢を抱え、侍女のエステル〈19〉が乾いた布を腕に掛けて足音を吸い込ませるように歩いていた。もう1人の妻サク・ニクテ〈22〉は、コスメル島部隊の訓練で城を空けている。夜ごとに届く報告は、汗と土と松脂の匂いがする紙だった。
アルバロは、新大陸皇帝の肩書を外した。島の現実を測るには、名の重さが邪魔になるからだ。
彼は髪を短くまとめ、鎧も飾りのない胸当てに替えた。名はディエゴ・モラレス。年齢は28と偽り、階級は大尉に落とした。
署名は達筆でもなく、筆圧も抑え、ただの野戦将校に見えるようにした。同行は最小で、護衛は黒人兵のセバスティアン〈31〉と、通訳兼書記のニコラス・トレド〈23・混血〉だけだ。
サンチャゴ城塞の外、砂地の練兵場では、朝から靴底の音が続いた。潮で湿った砂に、革靴の筋が何本も刻まれる。合図の笛が鳴るたび、火縄銃の隊が肩を揃え、槍隊が歩幅を合わせ、弩兵が弦を張り直した。
汗は早く塩になり、舌の奥に残る。火薬袋からは硫黄の匂いが漏れ、槍の穂先は光を返した。
「並びを崩すな。詰めるのは肩ではない。間だ」
ディエゴ・モラレスは、低い声で言った。命令は短いが、手の動きは細かい。前列の足が砂に沈む角度、後列の槍が前列の背を刺さない高さ、横列が揃った瞬間にだけ鳴る『揃った音』を耳で拾っている。
隊長格は3人いた。スペイン人の古参下士官フランシスコ・バルデス〈40〉、黒人兵の小隊長セバスティアン、そして同盟軍を率いるマヤ人の戦士長アハウ・ツル〈29〉だ。
言語は混じるが、号令だけは統一した。数字も統一した。10歩で止まり、20歩で向きを変え、30歩で射撃準備に入る。繰り返すほど、動きは1つの癖になっていく。
訓練は、海岸の風が強まる前に終わる。終わり際、ディエゴは火縄の状態と火薬の乾き具合を確かめた。湿り気が残れば発火が遅れ、遅れた分だけ隊列が乱れる。乱れは死者を増やす。
彼は兵の顔を見て、頬の痩せ方と目の濁りで飯の量まで推し量った。炊事係の男が鍋の蓋を開けたとき、湯気は豆と塩漬け肉の匂いを運んだ。そこに唐辛子の刺激が混じる。島の食い物は、戦の計算に直結していた。
昼過ぎ、尋問の部屋は城塞の倉の奥に設けられた。扉を閉めると外の波音は遠のき、代わりに蝋燭の脂と湿った木材の匂いが支配する。机は粗い板で、上には紙束、封蝋、秤、砂時計が置かれていた。捕虜は旧支配層のスペイン人たちだ。男も女もいた。どちらも成人で、服の質だけは落ちきっていない。
最初に座らされたのは、フアン・デ・ロハス〈44・旧サンチャゴ参事会書記〉だ。指先に墨の跡が残り、目だけが落ち着かない。
次が、マルティン・カストロ〈36・旧守備隊副官〉。肩幅があり、椅子に座っても鎧の癖が抜けない。
女は、イネス・アルバレス〈30・旧プランテーション管理人の妻〉で、髪をまとめる針が折れている。彼女は唇を噛み、爪の間に土が入っていた。ニコラスが2言語で名を確認し、ディエゴはわざと視線を外して聞いた。
「どこに船を隠した。誰が連絡を握っている。港の名と、干潮の時刻を言え」
声は平板だった。怒鳴らない。怒鳴れば、相手は演技に逃げる。
ロハスは口の中が乾いているのか、唾を飲み込む音がはっきりした。
「サンチャゴ湾の奥には……小舟しか……」
ディエゴは頷きもしない。紙に何かを書き、砂を振った。書く動作だけで、場の主導権が移る。
カストロは虚勢を張るように言った。
「大尉ごときに答える義理はない。ここは王の土地だ」
ディエゴは初めて目を上げ、言葉を挟んだ。
「王の名を出すなら、その王は誰だ。名を言え」
カストロは一瞬、言葉が詰まった。口にすれば、相手がそれを材料にすることを本能で知ったからだ。ディエゴは、その沈黙の長さを砂時計の粒と一緒に数えた。
イネスは別の角度から崩す。ディエゴは、指輪の跡が残る左手を見て、声の温度を少しだけ下げた。
「夫はどこにいる。隠れているのか、逃げたのか。子はいるか」
女は目を逸らし、椅子の脚が床を擦った。湿った木の音がした。彼女は嘘をついたが、嘘の形が粗い。
恐怖が先に立つ嘘は、細部がない。ディエゴは細部の欠落だけを拾い、次の質問に繋げた。
港の名、井戸の位置、乾季に水が残る谷、夜に灯りが見える家、誰が鍵を持つか。尋問は、怒りではなく地図だった。
続いて呼ばれたのは、教会の倉と寄進物の流れを握る一組だ。港と農場の取引に、教会の倉が絡んでいるからだ。聖職者フアン・ロドリゴ・デ・モントーヤ〈44〉と、その正妻ドニャ・レオノール・デ・アランダ〈28〉、そして現地妻タアリナ〈22・先住民〉だった。男は黒衣の襟元を正し、十字架の鎖を指で探る癖が抜けていない。女たちは戦乱で衣は簡素になっていたが、2人とも島では珍しいほど顔立ちが整い、骨格と所作が崩れていなかった。レオノールは背が高く、腰の線が細い。目が速く、机と扉と砂時計を一度に見て取った。タアリナは黒髪が長く、歩くと足音が薄い。首に貝の護符を下げ、指先だけが落ち着かない。
ディエゴは名乗りを求めず、役目だけを確かめた。ニコラスが通訳の形を整え、紙束の上に新しい頁を置く。蝋燭の芯がはぜ、脂の匂いが少し濃くなった。
「教会の倉には何がある。寄進の銀、食糧、布、薬。どれをどこへ移した」
フアン・ロドリゴは答える前に喉を鳴らした。乾いた音だった。視線が机の秤に落ち、次に扉の隙間へ跳ねる。
「神の家にあるのは、信徒のための……」
ディエゴは遮らず、砂時計をひっくり返した。砂の落ちる音だけが続いた。
「では、鍵は何本だ。合鍵は誰が持つ」
男の指が胸元の鎖に触れた。そこだけが動いた。
レオノールが夫より早く口を開きかけ、すぐに唇を閉じた。言いかけた言葉の端が、息に混じって消える。ディエゴはその沈黙を拾い、女へ向けて問うた。
「奥方。寄進の受け取りは誰が書く。帳面は何冊だ」
レオノールは目を伏せたまま、言葉を選んだ。声は澄んでいるが、硬い。
「帳面は……教会のものです」
「それは分かっている。写しはあるか」
女の肩がほんのわずかに上がった。恐怖ではなく、計算が動く反応だった。ディエゴは頷かず、紙に短く線を引いた。
最後にタアリナへ問う。声の温度を下げ、地名だけを置く。
「乾季でも水が残る井戸はどこだ。港へ近い順に言え。夜に灯りが見える家はどこだ」
タアリナの視線が、床の一点へ落ちた。井戸の縁を思い出す目だとディエゴは見た。女はスペイン語の発音が明瞭で、地名をためらわずに言える。ただし、順番だけを1度入れ替えた。守りたい場所がある。ディエゴはその入れ替えを聞き逃さず、あえて訂正しない。訂正すれば、女は口を閉じる。
「いい。次だ。干潮の時刻。小舟が出る浜。マングローブの切れ目」
3人の答えは噛み合わないが、噛み合わない部分が線になる。鍵を握る手、写しを隠す目、井戸へ向く指先。ディエゴはそこだけを拾い、尋問を地図の続きとして進めた。
尋問が終わると、ディエゴは島を歩いた。サンチャゴから北へ、赤土の道を辿り、馬の鼻息が白くならない暑さの中を進む。
草は乾いていても、沼地の縁では蚊が群れ、耳元で薄い羽音が続く。マングローブの湿気は皮膚にまとわり、海岸に出ると塩が唇に付く。村の煙はトウモロコシと魚の匂いを運び、遠くでサトウキビを潰す木の軋みが聞こえた。
バヤモの外れでは、焼けた木の匂いが残る集落を見た。屋根は低く、鍋は黒い。生き残った先住の男が、目だけでこちらを測る。
ニコラスが言葉を繋ぎ、ディエゴは水の場所だけを尋ねた。井戸の縁は石が欠け、縄は擦り切れていた。縄が切れれば人が落ちる。人が減れば畑が痩せる。ディエゴは、井戸の周りの地面の踏み固まり方まで見て、ここが使われている場所だと確認した。
島の中央部へ入ると、森の匂いが変わる。樹皮の渋さが濃くなり、足元の落ち葉が乾いた音を立てる。鳥の声は高い。道は細く、馬の腹が枝に擦れる。
小さな丘に上がれば、遠くの入り江が見える。入り江は避難に使えるが、同時に密航にも使える。
ディエゴは風向きと潮の色を見て、船が出やすい夜を頭に入れた。夜は暗いが、波の白さは隠せない。白さが見える場所に見張りを置けばいい。見張りに要るのは銃より耳だ。波の音の変化を聞ける者が要る。
西へ向かう途中、古いスペイン人の牧場跡にも寄った。柵は朽ち、釘が抜け、木が灰色に割れている。
だが、土はまだ肥えていた。ここを復旧させれば、兵の腹は安定する。腹が安定すれば、訓練の質が上がる。訓練が上がれば、反乱が起きても短い時間で潰せる。彼の頭の中では、島の風景が数字に変わり、数字が命令に変わっていった。
夕刻、サンチャゴへ戻ると、城塞の内側は静かだった。妊婦たちの宮殿では、薬草を煮る匂いが漂い、木椀が触れ合う小さな音がした。マリアは窓辺で腹を撫で、カタリナは椅子に深く腰を落として息を整えている。
ディエゴ・モラレスは、そこで初めて皇帝ではない仮面を外し、アルバロとして報告を受けた。島の道、井戸、入り江、逃げ道、口の軽い男の名、口の固い女の名。戦と統治の材料は、すでに机の上に積み上がっている。
夜、遠くで訓練の掛け声がまだ続いていた。サク・ニクテの部隊が、コスメル島のやり方で兵を鍛えているのだろう。
潮の匂いの向こうで、火縄の煙が薄く流れる。アルバロは窓を少しだけ開け、外の湿気を吸い込んだ。キューバ島は手に入れたが、島の中身はこれから組み替える。名を捨てて歩いた分だけ、島の輪郭ははっきりしてきた。
7月に生まれる赤子が泣く頃、この島の道と胃袋と港は、すでに別の秩序で動いているはずだった。




