第10話――「テオトラルコの密かな賭け」
1519年6月15日、午後8時。モクテスマ一世の宮殿、アルバロの居室。
中庭から吹き上がってくる夜風が、部屋の中の松明の火を細く揺らしていた。壁のレリーフの蛇と鷲が、橙色の光と影の中でゆっくりと形を変え、床に敷かれたマットには、昼の熱を吸った葦の匂いがまだ残っている。
戸口の向こうで、足音が止まった。綿布の裾が石の床を擦る乾いた気配と、羽根飾りがかすかに触れ合う音。香油とコパルの香りが、風に押されてふわりと部屋の奥へ流れ込んだ。
扉が静かに開き、テオトラルコが姿を現した。
昼間よりも少しだけ濃い紅を唇に引き、首飾りの翡翠は松明の火を受けて深い緑の光を帯びている。髪に挿した羽根飾りは減らされ、代わりに黒髪そのものの艶が際立っていた。背後には数人の侍女が控え、手には小さな灯火と布の包みを抱えている。
アルバロは、寝台の縁に腰を下ろしたまま顔を上げた。
夕刻の会食で口にしたカカオのほろ苦さが、まだ舌の根に残っている。革の上衣を半ば脱ぎかけ、肩に引っかけたままの姿で、彼は予想外の客を見て短く目を見張った。
「皇后陛下……?」
スペイン語の響きが低く漏れる。テオトラルコは、その音に微かに眉を動かしただけで、部屋の中心まで進み出た。
彼女は振り返り、侍女たちに一言だけ告げた。
「ここから先は、私一人でよいわ。火だけ残してお行き」
従う者たちの足音が遠ざかり、扉が閉じられると、外のざわめきは石壁の向こうに吸い込まれた。残ったのは、松明のぱちぱちと弾ける音と、湖の水がどこかで静かに打つ低い響きだけである。
厚い空気の中で、アルバロは立ち上がった。革と布が擦れるざらりとした音が、やけに大きく耳に触れる。
「これは、どのような用向きで?」
テオトラルコは、彼の言葉を通訳なしに察したように口元だけで笑った。
「昼間、あなたは多くを拒んだわ。金も、女も、血の祭りも」
ゆっくりとしたナワトル語が、夜気の中に沈んでいく。アルバロは、彼女の声の調子から、おおよその意味を掬い取った。
「だが、私が差し出したいものは、まだ残っているの」
テオトラルコは、肩に掛けていたマントの留め具に指をかけた。翡翠の冷たい光が指先で鳴り、布がするりと床に落ちる。綿布の衣が、松明の光を柔らかく透かして、肌の陰影だけを控えめに浮かび上がらせた。
アルバロは、喉の奥で息を飲んだ。
汗と香油と、遠い土地の女の肌の匂いが、熱を帯びて鼻腔に入り込む。昼間の戦場や航海とはまったく違う、別種の緊張が胸を締めつけた。
「お待ちを」
彼が手を伸ばしかけると、テオトラルコは逆にその手をとり、軽く制した。
「待つのは、私ではないわ」
そのまま彼の掌を、自分の胸元へ、腰へと導いていく。布越しに伝わる体温は、松明の炎よりもたしかな熱を持っていた。
彼女は自ら衣の紐をほどき、肩を滑り落ちる布の感触を確かめるように、ゆっくりと動いた。綿布が肌から離れる音は、ごく小さな擦過音に過ぎないのに、その一つひとつがアルバロの耳にはっきりと届く。
裸になった肩に、夜風が触れた。ひやりとした空気の後を追うように、アルバロの手がそこに置かれる。指の腹に、細かい産毛と、緊張でこわばった筋肉のきしみが触れた。
テオトラルコは、松明を見上げるように天井を一瞬だけ仰ぎ、それから静かに目を閉じた。
「今夜ここで起きることは、あなたと私だけのこと。扉の外には、一歩も漏らさない」
囁きは唇のすぐ近くで響いた。アルバロの頬に、彼女の吐息が触れる。高地の夜の冷たさと、身体の内側から立ちのぼる熱が混ざり合って、奇妙な甘さを持った。
彼は短く笑い、彼女の腰を引き寄せた。
「秘密の数には、もう慣れている。今さら一つ増えたところで、数えきれやしないさ」
自らの言葉の意味を、テオトラルコは半ばしか理解していない。それでも、その声音に含まれた軽さと真剣さの混じり具合は、肌で感じ取れた。
唇が重なったとき、彼女は夕餉のトルティーヤと唐辛子の余韻を、アルバロはカカオの苦味と香草の香りを、互いの口の中に見つけた。
寝台のマットが二人の重みで沈み、葦の軋む音が静かに鳴る。羽根飾りがほどけて床に散り、翡翠の首飾りが胸の上で小さくぶつかり合う。
松明の火はゆっくりと短くなり、壁に映る二人の影は、一度離れては、また重なった。熱を帯びた皮膚と皮膚が触れ合うたびに、汗の塩気と香油の甘さが混じった匂いが立ち上る。遠くで鳴る太鼓の低い響きが、血の流れと重なり、耳の奥で同じ拍子を刻んだ。
時間の感覚がほどけていき、外の湖も、宮殿も、神々の視線も、しばし遠のいていった。
やがて、すべてが静まった。
寝台の上で、テオトラルコはしばらく仰向けのまま、天井を見つめていた。汗で湿った髪がマットに張り付き、肌に触れる空気が一気に冷たく感じられる。耳の奥ではまだ鼓動が強く鳴っているのに、部屋の音は不自然なほど静かであった。
隣で大きく息をついているアルバロの胸越しに、松明の火がちらちらと見える。彼の皮膚には、遠い海と船旅の名残りのような、革と塩と太陽の匂いがしみ込んでいた。
テオトラルコはゆっくりと身体を起こし、床に落ちた布を引き寄せて肩を覆った。翡翠の首飾りを拾い上げる指先は、自分でも驚くほど落ち着いている。
「誰にも話してはなりません」
静かな声でそう言いながら、彼女は寝台の端に腰を下ろし、アルバロの方へ身を傾けた。
「皇后が異国の男の寝所を訪れたなどと、世間が知れば……あなたを祭壇に縛りつけたい者が増えるだけだわ」
アルバロは、片肘をついて彼女を見上げた。松明の光が、彼の瞳の中で小さな炎となって揺れる。
「口は固い方だ」
彼はそう言い、指で自分の唇に軽く触れてみせた。
テオトラルコは、彼の手をそっと押し退け、その代わりに自分の指先を彼の唇に当てた。
「世間が知る前に……」
その言葉を区切りながら、彼女は彼の瞳を覗き込む。
「あなたが、このアステカの主になりなさい」
その一文は、囁きというにはあまりにもはっきりしていて、宣言というにはあまりにも親密であった。
アルバロは、しばらく返事をしなかった。指先に触れる彼女の肌の温度と、その言葉の重さを、同じくらい慎重に量っているかのようである。
やがて、口元にいつもの軽い笑みを浮かべた。
「命令か、それとも誘いか」
テオトラルコは、わずかに肩をすくめた。
「どちらと受け取ってもかまわないわ。ただし、どちらであれ、途中で投げ出すことは許さない」
その言葉に、アルバロの笑みが少しだけ深くなった。
「神を名乗るつもりはないが……主の座なら、悪くない」
彼の声にはいつもの冗談めいた響きが戻っていたが、瞳の奥には、昼間モクテスマと向き合ったときと同じ冷静な光が宿っていた。
テオトラルコは立ち上がり、衣を整えた。首飾りをかけ直し、羽根飾りの乱れを指先で整えると、いつもの皇后の顔がそこに戻る。肌にはまだ彼の手の跡が残っているのに、姿勢を正した瞬間、その痕跡は衣の下に沈んだ。
扉の方へ歩き出す前に、彼女はもう一度だけ振り返った。
「今夜のことは、なかったものとして扱いましょう。ただし……」
松明の光の中で、彼女の目だけが笑った。
「この宮殿と、この都の未来に、あなたが責任を負う日が来る。それだけは、忘れないで」
扉が開き、廊下の冷たい空気と、遠くの太鼓と笛の音が一瞬だけ流れ込んだ。コパルの香りと羽根飾りの気配が引いていき、扉が静かに閉じられると、部屋にはアルバロの息と、消えかけた松明の匂いだけが残った。
寝台に仰向けになりながら、アルバロは天井を見つめた。
高地の夜の冷たさの中で、肌に残る彼女の温度と、耳に残る言葉だけが、ゆっくりと彼の中に沈んでいく。
アステカの主、という甘く危険な響きが、舌の上で静かに転がった。




