第1話――「雷と石のための種」
1519年6月16日、午前7時。モクテスマ一世の宮殿、アルバロの居室。
窓の格子の向こうで湖の光が揺れ、石畳を洗った朝の冷気が、薄く香草と焚き木の匂いを運んでくる。低い卓の上には、焼き立てのトルティージャと、小麦粉で焼かせた薄い平パン、豆を煮込んだ鉢、玉ねぎと青い唐辛子を刻んだ小皿、焼いた肉が盛られていた。香ばしく焦げたとうもろこしの匂いに、肉汁と、にんにくを油で温めた香りが混じる。
アルバロ〈25〉は椅子に腰をおろし、指でパンをちぎって豆の煮込みをすくい、塩気を確かめるように噛んだ。歯の裏に豆の皮が当たる感触と、舌に残るほのかな苦味が、昨夜の酒を追い払っていく。向かいにはチャックニク〈24〉が座り、黒髪を一つに束ね、両手で土器の椀を包み込むようにして熱いカカオをすすっていた。唇にこびりついた泡を舌で拭う仕草が、まだ寝起きの柔らかさを残している。
脇ではルシア〈26〉が、火のそばにしゃがみ込んで最後の皿を仕上げていた。鉄の鍋から立ち上る湯気に、刻んだ香草と玉ねぎの甘い匂いが混じる。ルシアは黒人奴隷兵60名の隊長であると同時に、彼らの胃袋の守り役でもあった。遠征軍や航海中のスペイン人は、硬い乾パンと塩漬け肉ばかりに頼り、野菜も果物も口にしないことが多い。その偏った食事で歯ぐきを腫らし、体を壊す者を、彼女は何度も見てきたのである。
だからこそルシアは、ここの朝食に豆と青菜と果物を必ず紛れ込ませる。彼女が黙って皿を置くと、焼いた肉の下には薄く煮込んだカボチャと葉野菜が敷かれており、甘い匂いが立った。アルバロはそれを一口食べ、かすかに顎を引いた。それが、彼なりの「よくやった」という合図である。体は軽く、指先まで血が通っている感覚があった。
パンをちぎる音、木の匙が鉢の底に触れる乾いた音、外の中庭から聞こえる水のしたたりと鳥の声。そんなささやかな音のあいだを縫うようにして、黒色火薬の話題が、誰からともなく卓の上に浮かび上がった。昨夜、石の中庭で黒人兵たちが火縄銃の稽古をしていたときに漂った、焦げた木と硫黄の鼻を刺す匂いが、まだ記憶に残っていたからである。
チャックニクが椀を置き、身を乗り出した。くりくりした瞳が、興味と少しの不安で濡れている。
「その火薬というのは、どんなものなのですか。どんなものを混ぜれば、あのような音と煙が出るのですか」
アルバロはパンくずを指で払ってから、落ち着いた声で答えた。
「詳しい理屈は知らぬ。ただ聞いているのは、黒く焼いた木を細かく砕いた粉と、火山の腹から取れる黄色い石を砕いた粉、そして鍋の底を早く沸かすといわれる白い塩の粉、この三つをよく混ぜると良いらしい、ということだ」
チャックニクは首をかしげる。
「鍋を早く沸かす塩……?」
「湖の岸で掘り出す、苦くて舌が痺れるような白い土だ。煮炊きの上手な女や薬師が、ときどき高い値で買う。ここらにもあるはずだ」
テノチティトランとその周辺の高原は白い石灰岩や塩分を含んだ土に恵まれており、湖の縁では、日干しにした白い粉が塩と同じように袋に詰められて売られていた。
「黄色い石と、その白い塩の粉ですね。トラテロルコの市場で探してきます」
チャックニクの声には、もう狩りの前の猟犬のような張りが宿っていた。
アルバロはパンをもう一切れ齧ってから、思い出したように付け加えた。
「それと、石と石を噛み合わせる白い粉も欲しい。山から切り出した白い石を窯で焼いて砕いたものと、細かい砂や小石だ。水で練ると泥になり、乾くと石のように固くなる。砦や砲台の足を固めるのに使う」
チャックニクは一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐに頷いた。
「石をくっつける泥……。職人たちに、それに似たものがどこで手に入るか聞いてみます」
朝食を終えると、彼女は素早く皿を片付け、腰布を締め直した。ルシアが彼女の肩に手を置き、短い言葉で注意を与える。
「市場は人が多い。財布と荷物を離すな。それから、変な匂いのする粉は、素手で触りすぎないことだよ」
廊下に出ると、ひんやりした石の床から冷気が足裏を伝ってきた。宮殿の門を抜けるころには、湖から湿った風が吹き上がり、石畳の隙間から立ちのぼる朝の土の匂いに、魚の生臭さと焼きとうもろこしの香りが混じっていた。遠くからは太鼓と笛の音がかすかに聞こえ、その上に人々の話し声がざわめきのように重なっている。
トラテロルコの市場に近づくと、空気は一気に濃くなった。干し魚の匂い、焼かれた唐辛子の鋭い煙、粉にしたカカオとバニラの甘い香り、生皮の獣臭。色とりどりの布が風に揺れ、赤や黄色の羽根飾りが陽を照り返す。裸足の足裏には、踏み固められた土のざらつきと、ときおり転がる小石の硬さが伝わる。
チャックニクは、アルバロに言われた三つのものを頭の中で繰り返しながら、露店の列を見て回った。籠いっぱいの青トマトと唐辛子の前を通り過ぎ、宝石と翡翠の棚を横目に、薬草と香の一角へと足を向ける。そこには、土器の壺に入った粉や枝、乾いた根が、所狭しと並べられていた。
片方の壺には、硫黄の匂いが濃く漂っていた。蓋を開けてもらうと、中には火山の腹から削り取ったという黄色い塊が、蜂の巣のような穴をあけて積まれている。指先でそっと触れると、表面が少しぬめり、強い匂いが鼻に刺さった。別の壺には、湖の岸で掘り出したという白い粉が入っている。掌にひとつまみ乗せてもらうと、さらさらとした感触のあと、舌先に乗せた瞬間に、強い苦味と冷たいしびれが口の中に広がった。
チャックニクが値段を聞こうと口を開きかけたとき、背後から柔らかく、それでいて周囲の音をすっと押しのける女の声がした。
「お前は、アルバロの妾だな」
振り向いた瞬間、胸がどくんと鳴った。人々の波が二つに割れ、その真ん中を、鮮やかな羽根飾りと翡翠の首飾りに彩られた女が歩いてくる。皇后テオトラルコ〈39〉であった。周囲の空気が、さっきまでの魚と汗と土の混じった匂いから、一瞬だけ、香の甘い煙と花びらの匂いに塗り替えられたように感じられた。
チャックニクは慌てて膝をつき、視線を落とした。石の地面のひんやりとした感触が膝頭から伝わる。心臓の音と、遠くの太鼓の音が、同じリズムで耳の奥を打っていた。
皇后は彼女の前に立ち止まり、壺とチャックニクの顔とを見比べるようにして、ふっと目を細めた。
「お前の欲しいものが、この市場にあるのなら、何でもいくらでも買ってやろう。欲のないアルバロがくれた財宝が、わたしの手元には残っているからな」
声は柔らかいが、その奥に石のような硬さがあった。皇后の手首には金と翡翠の腕輪が重ねて巻かれ、陽を受けてきらきらと光っている。その光が、チャックニクの頬に反射して揺れた。
チャックニクは喉の奥が渇くのを感じながら、震える指で黄色い石の壺と白い粉の壺、さらに石を焼いて砕いたという白い粉と、川から掬ってきた細かい砂と小石の袋を指し示した。ついでに、ルシアの顔が頭に浮かび、豆と青菜、玉ねぎと唐辛子の籠も遠慮がちに付け加える。
テオトラルコは何も問わず、ただ一度うなずいた。そのうなずきひとつで、従者たちが素早く動き、商人たちに金の小片と翡翠の数珠を渡していく。商人の指が震え、薄い金片を受け取る音が、乾いた木の音となって響いた。布の袋や籠が次々にチャックニクの足元に積まれていく。黄色い石の強い匂いが鼻をつき、白い粉が袋の口からこぼれて、彼女の足の甲をうっすらと白く染めた。
両腕に抱えきれないほどの荷物の重さが、骨にずしりと食い込む。だがその重みは、ただの商品ではなく、アルバロが望んだ「雷と石のための種」であることを、チャックニクは知っていた。
皇后の香の匂いと、硫黄と塩の生臭さが混じり合う中で、チャックニクは胸の奥に冷たい緊張と、かすかな高揚を覚えながら、宮殿への帰り道を思い描いた。これらの粉と石が、やがて湖の都のどこを、どう変えていくのか。その未来の音と煙の気配が、まだ静かな朝の市場の空気の中で、確かに揺れていた。




