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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第6章――「波の鎖、南の潮」

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第19話――「北の鐘、浅瀬の口」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


――――――――――――――――――

登場人物

ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)

――――――――――――――――――


 (1522年4月上旬、ハバナ。朝)


 港の空気は、まだ鉄の匂いが強かった。潮とタールの甘い重さに、熱炉の煤が混じっている。造船台の木肌は削りたてで白く、金具を締める槌音が、朝の光を叩いていた。ディエゴは桟橋をゆっくり歩き、船腹の高さと舷側の砲門を見上げ、積み込みの列を見下ろした。


 船は20隻だった。旗艦を含むガレオン8隻に武装商船8隻、連絡用の小回りが利くキャラベル4隻。甲板には兵と船員を合わせて2,240名がいる。砂糖は1,200樽、糖蜜は600樽、タバコは400俵。カカオ豆、染料、獣皮、真珠、エメラルド、金と銀まで、船倉は甘い匂いと獣の脂の匂いと、箱板の新しい木の香りでむせ返っていた。火薬樽は300。砲弾の木箱が積まれ、火縄が束ねられている。ロープと帆布とタールは、海が荒れても船団がほどけないための保険だった。


 妾たちはいない。全員が子を身ごもり、ハバナの奥で静養している。今の甲板は男の声だけだ。だからこそ、声の向きが揃えば船はまとまる。ディエゴは舷側にもたれ、荷役の汗に光る首筋を見て、笑って言った。


 「おい、砂糖樽のほうが大砲より大事そうな顔をしてるぞ。落とすなよ。俺の気分が落ちる」


 荷役の男たちがどっと笑い、縄を握り直す。笑いのあと、手つきが少し丁寧になる。ディエゴはそれを見て満足し、見張りの兵に水袋を投げた。


 「提督殿、水が温うございます」

 「温いなら飲み切れ。腐らせるより腹に入れたほうがいい。昼には新しい水を取る」


 錨が上がった。鎖が海面を叩き、鈍い音が腹に響く。帆が風をつかむと、布が鳴って、船団は港の青い口から外へ滑り出した。ハバナの岸壁が小さくなり、炉の煙が細く伸び、やがて水平線の明るい線に溶けた。


 ◇ ◇ ◇


 最初の寄港は、港と呼べない浜だった。浅い入り江に小艇を下ろし、木陰へ鍋を並べ、雨水を受ける布を張る。潮の匂いの上に、濡れた葉の青臭さが乗る。兵は盾を背に、火縄銃を濡らさぬように抱えて歩いた。果実は甘く、歯を立てると汁が喉へ落ち、塩気の強い乾パンの粉を洗い流した。


 「提督殿、これで腹が落ち着きます」

 「腹が落ち着いたら歌え。歌うと舵取りが眠らない」


 船へ戻ると、甲板で笑い声が起きた。誰かがタバコ俵を枕にして寝落ちし、起こされた拍子に灰をかぶったのだ。ディエゴは手で払ってやり、口だけは軽くする。


 「灰は似合わないな。お前はもっと、汗と塩のほうが似合う」


 叱るのではなく、からかう。からかわれた男が胸を張る。空気が明るく保たれる。長い航海では、その明るさが火薬と同じくらい役に立つ。


 ◇ ◇ ◇


 外洋に出ると、海の色が変わった。夜は黒く沈み、昼は濃い青が続いた。風が冷え、舷側に当たる飛沫が細い針のように刺さる。ロープは湿って重く、掌の皮が薄い者ほど痛い顔をする。ディエゴはそれを見て、炊事場へ言った。


 「塩は少し減らせ。水は惜しむな。汗をかくと喧嘩が増える」


 翌朝、湯気の立つ鍋が増えた。豆の匂いが甲板へ上がり、腹が鳴る音が笑いに変わった。誰も、波の気分を当てにしていない。人の気分だけは、手で整えられる。


 ◇ ◇ ◇


 出帆から10日が過ぎた。日差しはまだ強いが、夜の風が少しだけ冷える。砂糖樽の木がきしみ、糖蜜の匂いが、暑さではなく湿気の匂いとして鼻に残るようになった。


 出帆から19日目、空が低くなった。雨雲が帆柱を飲み込み、視界が白く潰れる。雷は遠いのに、海面が荒れて、波が横から打ってきた。甲板の水が足首を叩き、靴の中がぬるく重くなる。ロープを引けば掌が焼けるように痛み、金具は冷えて指先がかじかむ。ディエゴは笑って言った。


 「痛い顔をするな。顔で船は曲がらない。手で曲げろ」


 砲兵には冗談を言わせなかった。火薬樽が濡れれば終わりだ。見回りを増やし、樽の口を布で二重に縛らせた。見張りは交代を細かくし、眠気が来る前に声を出させた。


 出帆から28日目、風が落ちた。海が平らになり、帆が垂れて、船団はじりじりとしか進まない。水を節約するほどではないが、喉が乾く時間が長い。副官が配給を締めようとして、ディエゴに止められた。


 「水を惜しむと、先に喧嘩が増える。喧嘩が増えると、けが人が増える。けが人が増えると、水がもっと要る。逆だ」


 夕方、小艇を出し、海鳥の群れを目印にして流木と海草の筋を追わせた。ほどなく、小さな島影が見つかった。港と呼べる造りはない。岩と砂と短い草だけの場所だが、雨水を受けるのには十分だった。


 上陸は手早く、抜け目なく行った。水桶を満たし、乾パンと干し肉を補い、薬箱の包帯を増やし、傷んだロープを新しい束に替えた。補給の間も舷側の砲は閉じず、臨検班は武器を離さなかった。


 ◇ ◇ ◇


 海賊は、ある日、風下から現れた。先に鼻へ来たのは火薬の匂いではなく、焦げた油の匂いだった。黒い帆が低く見え、舷側の板が波を叩く音が速い。相手は小型の船を混ぜ、横から噛みつくつもりだ。逃げる気がないのは、近づく速さで分かる。


 旗艦の甲板が一気に静まった。砲兵が耳を押さえ、火縄が点き、火薬が注がれる。金属が擦れる乾いた音が続く。ディエゴは声を張らない。張る必要がない。


 「距離を見ろ。撃つのは合図のあとだ。先に撃つな」

 「提督殿、右舷、2隻が回り込みます」

「回り込ませろ。回り込んだ瞬間がいちばん遅い」


 敵が斜めに角度をつけた瞬間、旗艦の合図旗が落ちた。重砲が吠え、空気が裂ける。腹の底が叩かれ、火薬の苦さが口へ回る。砲煙が白く広がり、目が痛くなる。敵船の舷側が跳ね、板が剥がれ、破片が海へ飛んだ。続けて軽砲。水柱が立ち、相手の帆が裂ける音が聞こえた。


 海賊の1隻は、舵が利かなくなって横腹を見せた。そこへ臨検班が小艇で寄せる。波の間で木がきしむ音が近づき、叫び声が混じる。火縄銃の発砲は短く、狙いは甲板の上の動きを止めることに限った。ディエゴは無駄撃ちを嫌う。弾薬は見栄ではなく、手順のために使う。


 接舷した瞬間、板と板がぶつかり、綱が鳴った。突入した兵が盾を立て、槍を押し、短銃の音が乾いて走る。血の匂いが潮に混じる。だが長引かない。勝負は、砲で腹を割り、臨検で首を押さえた時点でほぼ決まっている。


 「降りろ。武器を捨てろ。水はやる。抵抗した者だけ縛る」


 海賊は船と積荷を失い、代わりに命を残した。箱からは銀貨と香辛料、干し肉、酒樽、予備の帆布が出た。銀貨は布袋に移し、旗艦の書記が数を口で唱え、別の者が帳面へ写した。


 船室の奥には、別の襲撃でさらわれた商人と使用人がいた。男も女もいた。怯えた目がこちらを刺す。ディエゴは顔を近づけすぎない距離で言った。


 「ここは戦場だが、檻じゃない。水を飲め。医者を呼べ」


 縄は必要な者だけに回し、怪我人を先に甲板へ出した。毛布が渡り、湯が回った。ディエゴは兵の肩を叩き、冗談で締めた。


 「お前ら、顔が怖い。勝った顔をしろ。勝った顔をすると、次も勝てる」


 兵が笑い、緊張が抜ける。笑いが出るうちは、船団は崩れない。


 ◇ ◇ ◇


 出帆から35日目、海賊がもう一度来た。今度は夜の端から、音を殺して寄せてきた。だが、ディエゴは灯を増やさず、逆に船団の間隔を詰めた。小型船が割り込む隙を潰し、旋回砲の射界に入れるためだ。


 「提督殿、距離が詰まります」

 「詰まっていい。逃がすより、ここで終わらせる」


 旋回砲が先に帆を裂き、軽砲が舷側を叩いた。夜の海に火花が散り、煙が湿った空気に絡む。臨検班が寄せるころには相手の動きが鈍り、甲板の上の抵抗が途切れた。捕らえた者は甲板に座らせ、武器を取り上げた。助け出した男女は、旗艦の後部へ移し、見張りをつけて休ませた。人質として扱うが、命と衣食は確保する。ディエゴはその線を越えない。


 戦利品は酒樽と乾し魚と予備帆布だった。派手ではないが、北へ行くほど価値が上がる。酒は体を温め、帆布は嵐に耐え、乾し魚は鍋を支える。


 ◇ ◇ ◇


 日が進むほど、海は冷えた。風が鋭くなり、湿った空気が骨へ入る。夜明けの甲板は白く曇り、吐く息が見える。南の海の塩は肌に残るが、北の海の塩は刺す。甲板の金具に触れると指先が痛み、火縄の火も、風で細く震えた。


 「陸の匂いがします」

 「焦るな。匂いだけで突っ込むと浅瀬に吸われる」


 出帆から52日目、水平線の端に低い影が出た。森ではなく、平たい陸だった。煙突の煙が細く上がり、湿った土と炭の匂いが風に乗る。外海の波が少し丸くなり、海鳥の数が増える。船団は速度を落とし、舳先の見張りが測鉛を下ろして水深を確かめた。


 ここから先は、外海の腕より、浅瀬を知る目が物を言う。入江の口で水先案内を待つあいだ、ディエゴは舷側に立ち、兵に声をかけた。


 「上陸したら、まず靴を拭け。相手の家に入るのと同じだ。俺たちは同盟を結びに来た。喧嘩を売りに来たんじゃない」


 甲板の男たちは頷き、濡れたロープを握り直した。帆は縮められ、布が乾いた音を立てて震えた。北の風が頬を叩き、海は灰色に光っている。風が一瞬だけ弱まったとき、陸から鐘の音が薄く流れてきた。波が高くなると消え、波が落ちるとまた届く。音は遠いのに、場所だけははっきりした。陸が近い。


 見えているのは、まだ町の並びではなかった。低い砂丘の線が長く伸び、その先に、島が影のように横たわっている。テセル島〈Texel、テクセル島とも表記〉だ。潮目が複雑に走り、色の違う水が筋を引いて交差している。測鉛の綱が引かれて戻るたび、鉛の底には湿った砂と貝殻の欠片が付いてきた。浅瀬が、すぐそこに口を開けている。


 旗艦は外海側の深みに寄せ、船団の間隔を整えた。錨が落ちると、鎖が勢いよく走り、甲板の下で船腹が一度だけ重く引かれた。揺れが止まる。代わりに、潮の流れが船を静かに押し、帆柱がきしむ音が残る。


 小舟が来るまで、砲門は閉じない。見張りも緩めない。だが、無駄に騒がない。ディエゴは舷側から灰色の海面を見下ろし、測鉛の綱がまた落ちるのを聞きながら、短く息を吐いた。北の空気は冷たかったが、鼻の奥に残るのは、土と炭と、港の匂いだった。

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