十二話(二)
ヤマタが祠に手を触れた瞬間、内臓が何かに引きつけられるような嫌な感触があった。直後、全身を焼かれるような痛みが走り、莉凛香は倒れ込んだ。
ぼやけた視界が治るより先に、桃の香りが鼻をくすぐったい。一拍遅れて、たわわになった桃が目に入る。
「ここが……桃源郷?」
「そうだ。お前達、封魔刀といいその根付といい、ろくなものを持ってないな。軽い仕置を受けたようだ」
守羅は立ち上がって土埃を払っていた。堕川とヤマタは平然としている。呪術的なものに抵抗したということは、今のが結界なのだろうか。
「ヤマタじゃないか。久しぶりだねェ」
気障ったらしい声に、ヤマタは手を上げて応えた。
「久しぶりだな、紅蓮。紹介しよう。月陰国からやってきた守羅、堕川、莉凛香だ」
「よろしく。僕は紅蓮。桃源郷の医者さ、子供相手に先生のようなこともしているけど。ヤマタの客なら大歓迎さ!長く居てね?」
紅蓮は暗い赤毛に明るい茶の瞳をした背の高い若い男だった。優しい声色と表情とは裏腹に、氷柱のように冷たく整った顔立ちをしており、医者としては若すぎるようにも見える。全てが違った色の石でできた耳飾りを5個もつけ、絵でしか見たことの無い、眼鏡、というものを掛けている。長い前髪は片側に流され片目はほとんど見えないが、底知れない瞳をしていた。
「最近は急な患者が居なくてヒマなんだよねぇ、幸いなことに」
紅蓮は桃源郷を案内してくれた。ヤマタも知っている顔に挨拶すると言ってついてきた。
桃源郷は明るい陽射しが降り注いでいる。農夫達が歌を歌っている。山の一部を切り開いており、棚田で米を、高地では桃の果樹を育てているそうだ。
住民は多い。特徴的なのは、老人と子どもが多い所だ。苦役を課されている村では若者が出払っていることが多く、残された者の顔は暗い。飢饉に喘ぐ村では老人や子供は少ない。どちらでもないということは、暮らしには困っていないのだろう。
村人は余所者で珍しい容姿をしている一向に怯えず、歓迎してくれた。特に鈴と蘭という童女は、歳の近い莉凛香に親切にしてくれた。2人の母が切ってくれた瑞々しい桃を食べながら、庭木にもなっている桃を楽しんだ。
「桃源郷はよいところ」
「朱雀様が守ってくださってる」
「でもあそこは危ない」
「桃源郷の空が暗くなるところ」
紅蓮の方を見ると、彼は空の一点を指さした。確かに、その方角だけ雨が降っているように曇っている。
「アソコには人が住んでないんだよ。悪いものがやってくるからねぇ」
「紅蓮……」
「言いたいことはわかるよ、ヤマタちゃん。でも大丈夫。朱雀の加護は、住民達を守ってる」
「朱雀って凄い土地神なのね」
「土地神っていうと、月陰国の守護者のことかい?この国ではね、四族がそれぞれ東西南北を守護してるんだ」
「方術では朱雀は西の守護者のはずだけど」
「流石退魔師、詳しいねぇ。たしかにここは日華国の東、本来なら青龍の領域だ。ここの朱雀はこの制度が完成する前からここを管理しているんだ」
眼鏡の下の瞳がす、と細められた。
「そんな存在が負けるなんて、考えられないだろ? 」
桃なんて贅沢品を食べさせてもらったのに、守羅は尻尾を不機嫌に揺らしていた。結界師として、祠の結界を見破れなかったことが悔しいらしい。
そんな護衛から気を逸らしたくて、莉凛香は棚田に立って水面を眺めている青年を指さした。他の若い男達が働いているのに対し、青年はぼんやりと突っ立っているだけだった。
「あの人は何してるの?」
「ああ、あれは圭だよ。最近流れてきた子でねぇ。なんでも、記憶が無いんだとか。定職にもついてないし、ほとんど喋ンないけど、穏和で親切な奴だからさ。困ったことがあれば、アイツに言いな。助けになるかは知らんが、力にはなってくれるさ」
紅蓮は手を振って、おおい、と呼びかけた。圭と呼ばれた青年はこちらを見て少し考えこむような動きをする。
「月陰国から来た子達だ。大きい方から、堕川、守羅、莉凛香。君の次に新入りだから、面倒を見てやるんだよ!」
圭は頷く。大柄な男で、淡い緑の毛と瞳は陽に当たって五色に揺らめいていた。
「紅蓮先生!よかった、ここにいた。婆さんの腰を診てやってくれ!」
「また農作業かい?すぐ行くよ!」
「先生、香波が来てるよ!この前の授業で分からないとこがあるってさ」
「李婆の所に行ってくるから、少し待たせておいておくれ。菓子を出してやるんだよ」
日に焼けた農夫と知識人らしき風貌の若者に答え、紅蓮は立ち上がった。
「さて、僕はもう行くよ。後のことは鈴と蘭に聞いてくれ。改めて、桃源郷へようこそ」
明るく聡明な莉凛香とふわふわの耳と尻尾を持つ親切な守羅は、あっという間に住民に馴染んだ。
桃源郷の生活は本当に夢のようだ。住民は皆穏やかで親切、わざわざ集落の外に出る必要もないから人の出入りも少ない。温かく、まるで時が止まっているかのようだ。
桃源郷は古くからあるだけあり、古い本が沢山あった。頁は今にも崩れそうなほどボロボロだが、きちんと手入れされており読むことができる。
ヤマタは妖怪でありながら退魔の術にも造詣が深く、古い教本を手に簡単な術の手ほどきをした。基礎的なものとはいえ体系化された術式を初めて学んだ莉凛香は、それをぐんぐん吸収し、メキメキと実力を伸ばした。紅蓮は圭に教えるついでに、日華国の文字を教えた。堕川は古い本に退魔師の譲葉一族についての記述がないか調べた。
夜。鈴と蘭の母が用意した、虫除けの香で満たされた埃ひとつ無い部屋。隣では守羅が丸まって寝ている。ふかふかの布団に沈みこみ、莉凛香は思う。これが桃源郷。物語を聞いて想像した桃源郷と同じ、いやそれ以上に居心地のいい場所だ。まるでまやかしのような。久々の布団に包まれ、ぼんやりと意識が沈んでいく。
夢すら見ない、深い眠りだった。




